アザラシの華

米元言美

アザラシ男

ホタルは,母親から聞いた話を思い出しながら,わざと涙が海に落ちるように,海辺に座り,涙を流した。ホタルの涙は,ぽろぽろとこぼれ落ち,岸に絶えず打ち寄せ続ける波に飲み込まれ,沖の方へ運ばれて行く。


しかし,ホタルの涙は本物ではない。特別悲しいわけではないし,寂しいわけでもない。ただ,母親がしばしば話すホタルの本当の父親に会ってみたいだけである。


最近までは,父親に会ってみたいという気持ちには,とてもなれなかった。英介が本当の父親ではないと知っても,ずっと薄々感じていたことだったから,そこまで驚かなかったが,自分は,英介の船が出港している間に,母親とセルキーとの間に出来た子供だと聞いた時は,さすがに驚いたし,どことなく自分の小さなプライドが傷つくような思いをした。


自分の誕生の真実を知った時は,父親より,母親と英介を恨んだ。妻の要望を無視し,自分の子供の頃の夢に憧れ続け,船の仕事をやめなかった英介も,その英介の気持ちを「わかっている」や「尊重している」と言いながらも,格好いい男が現れたら,すぐに体を委ねた母親も,ホタルは,許せなかった。人妻だと知りながら,母親を口説いた父親も悪いだろうけど,出会ったことのない,顔すら知らない人を恨むことは,ホタルには,出来なかった。そして,人間ではない生き物に人間の道徳や倫理を当てはめて考えるのは,なんとなく,違うとも思った。


真実を知った当初のホタルには,セルキーという生き物のイメージは湧かなかったし,関心もなかった。その頃の自分は,13歳で,魔法は,子供のお伽話に出てくる幼稚な心に夢を与えるものに過ぎないと高を括っていた。しかし,もう少し大人になった16歳の自分には,自分の存在を生み出した力には,興味が湧き、一度でいいから,父親の顔が見てみたいと思うようになっていた。


だから,ホタルは,セルキーが涙を7滴海に落とした者のところに現れるという母親の言葉を試すことにした。父親が本当に現れると信じているかどうかは,自分でもよくわからずに,ホタルは,嘘の涙をひたすら流し続けた。7滴以上の涙を確実に海に落としたのを目で確かめると,ホタルは,芝居をやめ,静かに辺りを見回した。


すると,数分経つか経たないかのうちに,母親の言葉通り,波の中から,とてもスマートで端正な顔をした男の人が現れた。


どう見ても,ホタルと同年代にしか見えない男の人がホタルの顔を見ると,ギクっとしたようだった。

「…ホタルちゃん?」


ホタルは,小さく頷いた。


「なんで,呼んだ?」

男の人は,それ以上ホタルに近づこうとせずに,立ち止まり、尋ねた。


「一度会ってみたかった…。」

ホタルが正直に答えた。


男の人は,ホタルの言葉を聞いて納得したようで,無言で,少し距離を置いて,彼女の隣に座った。アザラシの皮を大事そうに片手で握っていた。


「なんで,これまで一度も,会いに来てくれなかった?」

ホタルは,お腹の底から込み上げてくる恨みや怒りとはまるで違う気持ちに自分でも,戸惑いながら,訊いた。


「え?…会いたかった?…会っても,ろくなことはないから,会わんとこうと決めた。お母さんがまさか,僕のことをあなたに話すとは,思わなかったし,僕のことを知らない方が、人間の父親とは,仲良くやれると思った。」

男の人がホタルと目を合わせずに,海を見つめながら言った。


「子供が出来ても会うつもりがないのなら,母を大事にするつもりがないのなら,なんで母を口説くようなことをした?無責任だよ!」

ホタルが口を尖らせた。無関心だとばかり思い込んでいた人物に対して、これだけ色んな思いを抱いていることに気づき,ホタルは,自分でも驚いた。きっと、これまで気持ちを無理やり抑えて、うやむやにして来ただけで、ずっと心の奥で,父親のことが気になっていたに違いないと思った。


男の人は,説明に困っているような顔をして,しばらく黙り込んでから,つぶやいた。

「…僕の意思じゃない。」


ホタルは,何か続きがあると期待して,しばらく黙って待ったが,男の人がそれ以上何も言おうとはしなかった。


「どういう意味?」

ホタルが尋ねた。


「あの日,お母さんのところに行ったのも,今日あなたのところに来たのも,僕の意思じゃない…セルキーは,人間と違って,魔法に制御される生き物だ。人間が涙を7滴海に落とせば,異性のセルキーがその人間の元に行かなければならない。同じように,この皮を人間に盗られれば,異性の相手なら,結婚し,同性の相手なら、その人間に仕えなければならない。逆に,自分で選んだ恋であっても,離れたくなくても,隠された皮が見つかってしまえば,海に戻らなければならない。自分では,何も選べない…そういう生き物だ。あなたには,悪いけど…人間は,魔法は,夢を叶えたり,人を幸せにしたりするものだと思い込んでいる節は,あるけど…そうじゃない。魔法に働かされる側にとっては,そんな綺麗なものじゃない。」

男の人がそこまで言うと,また黙り込んだ。


ホタルには,男の人の説明に,何と答えたら良いのか,見当がつかなかった。


「他に,何か?」

しばらくしてから,男の人が訊いた。


「…もう,会えないの?」

ホタルが小さな声で訊いた。


「…会いたいの,この僕に?」

男の人がびっくりして、聞き返した。


ホタルは,小さく頷いた。


「…お母さんを責めるんじゃないぞ…寂しくなるのも,人間の感情の一つで、セルキーが魔法に支配されると同じように,人間は,感情に支配されてしまう時があるんだ…でも,それは人間というもんだから…誰も,悪くない。」

男の人が小さく笑みを浮かべて,言った。


ホタルには,男の人の言葉が引っかかった。人間が感情を持っているのは,仕方のないこととしても,それに弄ばれるのか,冷静に舵を取り,自分で自分をコントロールするのか,自分で選べる気がした。それが大人と子供の違いである気がした。


しかし,魔法は,そのわけには,行かないのかもしれないとも思った。魔法は,自分がどう努力しても,克服したり,制御したり出来るようなものではないのかもしれない。


「…では,また。」

男の人がそういうと,話しながらずっと大事に握っていたアザラシの皮を被り,海に潜り,姿を消した。


海に飛び込むところを見て,ホタルは,不思議だった。隣に座っても,会話していても,同じ人間に見えたのに,やっぱり人間とは違うと実感した。しかし,また会いたいと思った。そして,父親を支配する魔法の力について,もっと知りたいと思った。

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