3.また会えた


 声が、あの、メイドだ。


「庭師さんはこの部屋でもお仕事があるの?」

「に、に、に、庭師じゃない」

「そうなのね、ごめんなさい間違えて。使用人は全員紹介されたから、じゃあ書生さんかしら?」


 クルリとした茶色い目を見開いて話す低い声は体の底をゆっくりと流れていくような響きがする。待ち焦がれた、もう一度聞きたいと願った声。


 もっと彼女の声が聞きたい。なんと言えばいい?


「こ、……こ、こ、こ、声が」


 緊張して舌がもつれ、いつもよりつっかえてしまった。羞恥で顔が熱くなる。話さなければ良かったと途端に後悔した。話そうとするから恥をかく。何も言わずにいれば、こんな思いはしないのに。

 頬の熱さがいたたまれず俯いた私に向けてメイドが喋った。


「声? 私、声が低いのよね。もうちょっと可愛いと良かったんだけど。そんなことより書生さん、掃除はもうすぐ終わるんだけど、してても大丈夫?」

「あ、あ、ああ」

「そう、ありがとう。邪魔になったら言ってね」


 メイドは私のことなど意に介さず板張りの床に箒をかけている。気を遣うような雰囲気など一切なく本当に何ごともないように扱われて肩透かしを食らった。

 どう形容して良いかわからない、捉えどころのないフワフワした気分でメイドを眺める。


「なに? さわっちゃダメなものとかある?」

「……う、……う、う、動かさ、な、ない」

「動かさなきゃいいの? わかったわ。置き場所が変わるとわからなくなるものね。ウチなんかたいして物もないのに弟たちがあっちこちに置きっぱなしにするから、いっつも探してるのよ。ホント、やんなっちゃう。毎日毎日、探すのに時間使うってうんざりするのよ。書生さんみたいにきちんと片付けてくれればいいのに」


 眺めていたら目が合ってしまい心臓が跳ねた。話しかけられてすぐに答えようと焦ったら舌が固まり、汗をかきながら必死に言葉を押し出すと聞き取り辛さに構わずまた同じようになんでもなく返事をした。

 呻きにしか聞こえない私の相槌を気にせず喋り続ける。私でなくても、猫相手にも同じように喋るのだろうと思うと、気構えてる自分が馬鹿馬鹿しくなり笑いが込み上げた。


「ははっ、ふふ」

「あら、なに? 私、なんか面白いこと言った?」

「喋る、か、ら」

「喋り過ぎだった? 良く言われんのよね、喋り過ぎだって。でも弟たちのせいなのよ。毎日、朝から晩まで小言が出るようなことばっかりしてんのよ。そうじゃなかったら私だって大人しく育ったかもしれないのに。別れたダンナにもよく言われたし」

「だんな?」

「そう、別れちゃったんだけど。理由が酷いのよ。夜這いするのはいいけど決まりってものがあるじゃない? 結婚してない子のとこ通うなんて、とんでもないことしたのよ。しかもその子が妊娠して別れたダンナを指名したわけ。私に子供がいなかったからいいようなものの、ホントとんでもないわ。しかも、母親の看病で私がいない間によ? 腹の立つったら。一晩中、罵ってから別れてやったわ。母が死んで弟たちの世話をしなきゃいけなくなったから、ちょうどよかったんだけどね。書生さんは小言が必要なさそうだし奥さんはいいわね」


 心地良いリズムを奏でる彼女の声と理解できない内容の話が私の耳を通り抜けていく。わからないまま音だけに気持ちをゆだねて聞いてると、いきなり私のことを言い出したので咄嗟に反応できなかった。何も言わない私をそのままに彼女は話し続ける。私にいるはずがない妻のことを。


「いっ、い、ない」

「え、なに?」

「……ない。妻」

「あら、結婚してないの? 良いお家の人って結婚するの遅いの? それとも書生さんだから? 私みたいに別れたとか? ああ、話したくなかったら話さなくていいのよ。私はほら、腹が立つから喋りたいだけだし。じゃあ、このお屋敷に住み込みなの? 書生さんのお部屋って使用人と違うのかしら。私は通いなのよね。弟がまだ小さいから仕方がないんだけど」


 答えることが多過ぎて口が動かない。口を開けたのに意味のある音が何もでてこなくて焦った。彼女と話をしたいのに自分から言葉が出てくるように思えず、喉がつっかえて苦しい。このままじゃ呆れられてしまう。いくらつっかえたとしても返事くらいはちゃんとしたいのに、焦るほど舌が強張った。

 呻き声を出した私を振り返った彼女が丸い目を不思議そうにしばたいてから微笑んだ。


「ふふ、ごめんなさいね。また喋り過ぎちゃった。何に返事すりゃあいいんだって弟にもよく怒られてんのよ。ふふふ」


 そう言って本当に可笑しそうに笑う。彼女は喋ることを楽しんでいるだけで無様な私のことなど何一つ気にしていない。それに安心して気が抜けた。


「あんまり喋って、お仕事の邪魔しちゃ悪いわね。かわりに歌ってもいい?」

「歌って」

「ありがとう。静かに歌うから」


 気が抜けた途端、スルリと言葉が出た。短いけれど自然に出た声に自分でも驚き、軽く咳き込んだ。

 彼女は私に背を向け掃除を再開する。低くなめらかな声で歌いながら。私は目をつむり彼女の声が体に染み込んでいくのを感じた。



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