ジョギングシューズとパンプス

尾木洛

第1話 ジョギングシューズとパンプス

「ちょっと走ってくる」


 妻にそう伝え、外に出る。


 新型コロナウイルスの影響による不要不急の外出自粛要請。それを理由に不摂生を決め込んでいたら、会社の健康診断に引っかかってしまった。

 産業医に呼び出され、あなたは、メタボ予備軍なのだから、新型コロナウイルスの外出自粛要請下とはいえ、軽度の運動くらいは、日々行ってくださいね。どうしても運動ができないようならば、毎日の晩酌をやめてください。さもなくば、もっとむごいことになるかもしれませんよとやんわり脅迫された。


 お酒をやめろなんて、とんでもない。

 昨今の受動喫煙対策の広がりで、勤務先が全面的に禁煙になってしまった。ヘビースモーカとは言わないまでも、それなりの本数の煙草をすっていた自分は、泣く泣く、それはもうものすごく頑張って煙草をやめた。

 それなのに、お酒までやめろだなんて。日々の楽しみがまったくなくなってしまうじゃないか。


 よろしい。ならば軽度の運動とやらを始めてやろうじゃないか。


 たしかに、お腹も少しフニフニしてきたし、普段はいているジーンズも履くのがきつくなってきた気がする。


 緊急事態宣言も解除されたし、これは、運動を始める良い機会なのかもしれない。


 なに、新型コロナウイルスのせいで、ちょっとサボっていただけなのだ。コロナさえなければ、そろそろ運動を始めようと考えていたし。


 思い立ったが吉日と、さっそく昨日、会社の帰りにジョギング用のシューズを買ってきた。


 さあ、今日から、気持ちを入れ替え、運動するのだ。走るのだ。

 毎日走って、メタボ予備軍を脱却してやる。お腹のフニフニを解消してやるのだ。


 こういうことは、積み重ねが大切。

 日々の積み重ねが大事なのさ。



 玄関を出て、軽く屈伸をする。よし、まあまあって感じだね。


 とりあえず、軽く走り始めてみる。少し身体が重く感じるが、まずまずの調子じゃないかな。


 家を出て、少し路地を走るとすぐに駅へ向かう県道に出る。この県道は、それなりの道幅があり、両側には歩道も設けられている。その歩道を走る。


 気温は、暑きもなく、寒くもない。時折、吹いぬける風が気持ちいい。


 駅までの約500m、ずっと緩やかな上り坂が続くこの県道。まだ、朝早いこの時間帯は、通る車も、歩行者もほとんどいない。平日のこの時間に駅へ向かう人は、都心に勤めている人くらいのものだろう。



 たっ、たっ、たっ、たっ。


 駅への上り道、少しペースを落として駆け上る。


 この駅は、快速も急行も通過してしまうから、1本電車を乗り過ごすと大変なことになる。通勤通学の時間帯といえど、下手をすると30分近くも駅で待たされることになる。だから、この駅を利用する人は、かなり余裕を持って駅に行くことが常だ。


 たっ、たっ、たっ、たっ。


 上り坂でも、意外と息切れしてこない。だんだん気分が乗ってくる。


 最近サボって運動をしていなかったが、僕は、走るのはそんなに苦手ではなかったりする。ただ、走ろう、運動しようという思いに至るまでが大変というか、面倒くさいのだ。


 たっ、たっ、たっ、たっ。


 少し走るペースを上げてみる。軽快だ。


 たっ、たっ、たっ、たっ。


 程よく汗がふき出てくる。気持ち良い。


 カッ、カッ、カッ、カッ。


 そんな時だった。

 聞きなれない音が聞こえてきたのは。

 なにか固いものが、舗装道路を叩くような音。


 カッ、カッ、カッ、カッ。


 そして、その音は、だんだん僕に近づいてくる。


 たっ、たっ、たっ、たっ。


 僕は、気にせず走り続ける。

 いや、走り続けようとした。

 意図せず走るペースが少し上がる。


 カッ、カッ、カッ、カッ。


 それでも、その音は僕との距離を確実に詰めてくる。


 たっ、たっ、たっ、たっ。

 僕は、少し気味が悪くなってきた。

 走るペースを上げる


 遠くに踏切が見えてくる。

 駅がだんだん近くなる。


 カッ、カッ、カッ、カッ。


 音は、もう僕のすぐ後ろだ。


 たっ、たっ、たっ、たっ。


 僕は、走るペースをさらに上げる。

 もう、ほとんど全力疾走。


 踏切の遮断機が下り始めた。

 踏切警報器がカン、カン、カンとなり始める。

 ほどなく電車がやってくる。


 カッ、カッ、カッ、カッ。

 音のペースが一段上がった。


 ほぼ全力疾走する僕の横を、その音の主が、一陣の風となって抜き去っていく。


「え?

 隣の家の娘さん?」


 スーツ姿にパンプスの娘が駅に駆け込んでいく。

 これなら、なんとか電車には間に合うだろう。



 それにしても、パンプスの女性に走り負けるとは・・・・。


 うなだれて、家に帰る。

 そして、その顛末を妻につげると笑われた。


「隣の家の娘さん、低血圧で朝が弱くて、いつも朝、ギリギリになっちゃうの。

 それでも、毎朝、会社に遅刻しないように、スーツにパンプスで、駅まで全力ダッシュしているそうよ。

 そんな彼女に、今日走り始めたばかりのあなたが、かなうわけないじゃない。

 毎日の真剣さ、必死さが全然違う。

 こういうことは、日々の積み重ねが大事なのよ」




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ジョギングシューズとパンプス 尾木洛 @omokuraku

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