大きな手

鱗卯木 ヤイチ

第1話

「あっ!」

 車内の視線が一斉に俺に集まった。慌てて俺は口をつぐみ、誤魔化すために流れる外の景色に目をやる。なんなら口笛でも吹いてやろうかとも思ったが、電車の中なのでさすがにそれは止めておいた。そもそもそんな悠長なことやっている場合ではない。事態は極めて深刻、かつ事は急を要するのだ。

 これをどうにかしなければならない。俺は右手首に目をやる。そこにはブレスレット宜しく吊り革がすっぽりと嵌っていた。

 うーん、ブレスレットと言うより、俺がすると拘束具だな、はっはっは。俺は吊り革を軽く引っ張りながらそんな事を妄想……している場合じゃない!

 マズイ、マズいぞ! この拘束具……じゃない、吊り革を早く外さないと。

 吊り革なんて簡単に外れるっしょ? あんた何言ってんの?

 そう思った人! はい、間違い! 不正解!! ブッブー!!! それはあくまでも普通サイズの人の話。俺のように身長が190cm以上で、かつ学生時代に柔道100Kg超級で鳴らした漢にもなると、そうはいかない。引いてみようが、押してみようが、泣いてみようが、喚いてみようが吊り革は俺の手から全く外れないのだ。

 実は以前にも同様の事をやっている。その時はしばらく吊り革と格闘していたらするりと手首は抜けた。それと言うのも、たまたまその日が猛暑日で、俺が汗まみれだったのが功を奏したのだ。ぬらりとした俺の汗が、潤滑油の役目を果たしてくれたのだ。グッジョブ、俺の汗。もうひとつ、前日から食あたりをしており、わずかに手首が細くなっていたのも良かったのかもしれない。

 しかし、今日は全く逆のコンディションだった。ここ最近食欲があり、昨晩もたらふく夕飯を食べた。もちろん今朝の朝食もだ。スーツが少しきつい気がするので、また体が少し大きくなったかもしれない。

 そして今は社会のご時世的に、電車内の窓という窓は換気のために開かれており、少し涼しく感じるくらいだ。思わず俺の社会の窓も開いてないかと確認してしまうほどの開きっぷりだ。

 なので前回の様な潤滑油作戦は使えそうもない。

 試しに俺は手首を抜こうと何度か腕を引っぱってみた。しかし案の定、全く抜ける気がしなかった。俺は次第に焦れて、力を入れて吊り革を引っ張る。グッグッと言う吊り革が手すりに擦れる音が車内に響き渡る。

 チラチラと俺を見る人や、逆に俺から目を背ける人。俺を見ながら友達同士で笑う人や、まったく意にも介さない人、様々だったが、もはやそんな事を気にしていられなかった。


 そんな中、ひとりのじいさんが俺に声をかけてきた。

「吊り革から手が抜けないのかえ?」

「そ、そうなんですよ」

 俺が照れ笑いをすると、意外にもじいさんはこう言った。

「よし、ではわしも手伝おう」

 そう言うや否や、じいさんは俺の腰にしがみつき、引っ張り始めた。

「うんとこしょー、どっこいしょ!」

 おい、なんかどっかで聞いたことある掛け声だな。いや、そんな事言ってる場合じゃないか。じいさんが折角手伝ってくれてるんだ。俺も頑張らねば!

「うんとこしょー、どっこいしょ!」

 俺とじいさんの声が車内に響く。

 しかし、それでも俺の大きな手は抜けない。


 すると今度は、見かねたばあさんがシルバーシートからすっくと立ち上がり、俺達のところへとやって来た。

「どれどれ、わたしも手伝おうかねぇ」

 ばあさんはじいさんに突然しがみつくと、じいさんを勢いよく引っ張り始めた。

 おぉ?! なんかどっかで見たことのあるシチュエーションだが……。とりあえず俺も負けるわけにはいかねぇ!

「うんとこしょー、どっこいしょ!」

 俺とじいさんとばあさんの声が車内に響きわたる。

 しかし、それでも俺のヤツデのような大きな手は抜けない。

 くそー、3人がかりでも駄目か……。


 さらにそこへ、暇を持て余した小学生くらいのガキんちょがやって来た。

「ははっ! 大変そうだね、僕も手伝うよ!」

 そう言ってガキんちょは、ばあさんの腰にむしゃぶりつき、思いっきり引っ張った。

 いよいよもって、何かで読んだことのあるパターンだ。でももう何でも来いだ! よし行くぞー!

「うんとこしょー、どっこいしょ!」

 俺とじいさんとばあさんとガキんちょの声が車内に大きく響きわたる。

 しかし、それでも俺の団扇のような大きな手は抜けない。

 やはり抜けないか……。いや、しかしここまでは想定通りだ。この次は確か……。しかし車内でそんな助っ人は来てくれるのか?


 俺が訝しんでいると、乗車ドアの方から大小3つのキャリーバッグを持ったご婦人が近寄ってきた。ご婦人が持つキャリーバッグには、犬と猫とハムスターが入れられていた。

 そう来たか……。何か大雑把感が否めないな……。

「どうやら、お困りの様ね。ほほほ、私達も手伝って差し上げますわ」

 ご婦人はそう言うと、犬と猫とハムスターを入れたキャリーバックを持ちながら、ガキんちょの襟首を握り、引っ張り始めた。

 おいおい、手伝ってくれるなら犬とか猫とかハムスターとか置いてくれよ……。でもまぁ、手伝ってくれてるんだから文句は言えないか……。それにパターン通りなら、これで引っこ抜けるはずだしな!

 じゃ、最後に気合入れていくぞー!


「うんとこしょー、どっこいしょ! うんとこしょー、どっこいしょ!」

 俺とじいさんとばあさんとガキんちょと犬と猫とハムスターを連れたご婦人の声が車内に力強く響きわたる。いつの間にか周囲の乗客も立ち上がり、俺たちを必死になって応援してくれていた。俺達の声は両隣の車両にまで聞こえ、隣の車両の人々も何事が始まったかと集まって来ていた。そしてその人々も状況を察し、声を上げて励ましてくれた。

 俺は心が熱くなった。日本人もまだまだ捨てたもんじゃないなぁ、とそんな事を思った。

 するとついに、これまで抜ける素振りすら見せなかった俺の手が、ゆっくりと吊り革から抜けようと動き出す。

 おぉ! これがキズナ!? キズナの力か!? みんなのおかげで手首が少しずつ……。もう少しだ、みんな!! オラに力を貸してくれ!

「うんとこしょぉおおおおおー!! どっこいしょぉおおおおおおおお!!!」

 俺の心の叫びに呼応して、最後にひときわ大きな掛け声と声援が上がった。

 その直後、俺の手首が吊り革から抜ける……ことはなく、その代わりに、轟音と共に手すりを繋ぐ手すりのパイプが天井から根こそぎ抜け落ちた。

「……」

 先程とは打って変わって、水を打ったように静まり返る車内。

 いつの間にか、じいさんもばあさんもガキんちょも犬と猫とハムスターを連れたご婦人も、手すりに繋がれたままの俺を置いてそそくさと居なくなり、あれほど熱狂的に応援してくれた観客も、雲の子を散らすように去っていった。

 天井から抜け落ちたパイプだけが、まるで俺を嘲笑うようにガランガランと、その場でのた打ち回っていた。



 その後、こっぴどく駅員に怒られた俺は、じいさんとばあさんとガキんちょと犬と猫とハムスターを連れたご婦人の行方を、今も探している。

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大きな手 鱗卯木 ヤイチ @batabata2021

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