風船レター

あっぷるピエロ

第1話

 目の前をすさまじい速さで白い物体が横切っていった。

「…………」

 高校の放課後は、部活所属者はさっさと移動し、それ以外はとっとと帰るのが一般的だった。帰宅部の遠野小鳥は、これでも校舎から出るのは遅いだろうというタイミングで帰ろうと、玄関を出たところだった。

 もう少し前に出てたら顔に突き刺さっていたかなと考えながら、遠野は数メートル先に落ちた紙飛行機を拾い上げた。ぴっしりと定規で折ったかのような、形のいい白い飛行機。その中に文字が書かれているらしいのを見つけ、何気なく開いた。

『やなこと全部、とんでいけー』

 思わず笑ってしまうくらいに、気の抜けた文字だった。小学生みたいだな、と思いつつ元のように折り目を合わせていると、自分を呼ぶ声がした。

「遠野ー」

 振り仰ぐと、校舎の二階で見知った顔が手を振っていた。クラスメイトの榊冬真だった。

「それ、俺のー」

 間延びした声でそんなことを言う。「返して欲しいのかー?」と紙飛行機を掲げると、「欲しいならあげるよー」と返ってきた。特に欲しくはない、と思いつつも、捨てるには惜しいので返すと声を張って、玄関に引き返した。

 教室まで戻ると、窓にもたれかかった榊だけがいた。試しに彼に向かって飛行機を飛ばすと、奇妙にカーブして榊の後頭部に当たった。

「痛ぇっ。……おー、遠野。わざわざサンキュー」

「どういたしまして。……何をやってるの?」

 窓側の榊の席に、色とりどりの物が散乱しているのを見て、思わず出た言葉だった。

「うん。俺の趣味」

 そう答える榊の手には、青い風船と細いストローのついた缶がある。風船をふくらましているらしい。クラスが解散して三十分ほど。その間に、カラフルな風船が十個、机の下に捕まえられている。飛んでいかないように詰め込んでいるらしい。

「何、風船バレーでもするの?」

「欲しい?」

「ん、いや別に」

 率直に否定すると、それほど残念そうには見えない顔で、榊は残念だといって笑った。そうしてまた一つ、胸に捕まえられるくらいの大きさになった風船の口をしばり、足下におろす。

 ちらと目を走らせると、机の上にはふくらます前の風船と丁寧に封がされた手紙がばらばらといくつも置かれていた。そのほかに、たこ糸、マジックペン、テープなども並んでいる。

「何するの?」

「手伝ってくれるなら、教えてもいいよ」

 抜け目ない。遠野は頬をふくらせて見せたが、ポーズだとわかっている察しのいい榊は、軽く笑っただけだった。


 ふくらませた風船の口にたこ糸を結びつけ、まとめてそれを掴んだ榊は、まるで遊園地でバイトしている風船売りのようだった。ぷかりぷかりと浮かぶ風船が、開けっ放しの窓から入る風で左右に流れる。

「よし、移動です」

「うぃ」

 風船を連れた榊について、遠野は小道具のテープや手紙などを抱え、屋上に上がった。

 四階建て校舎の屋上は、なかなかに高い。いつもは上級生が占拠しているので入ったことがなかったが、遠野の感想としては「殺風景」だけだった。

 風はそこまで強くない。校庭からは運動部の声がする。コンクリートの床をぱたぱたと歩きながら、遠野はいったい榊が何をするのだろうと考えていた。だいたい予測はつくけど。

「じゃ、はじめまーす。遠野、テープ」

「ほい」

 黄色い風船の先についたたこ糸のはしに、白地にオレンジの水玉模様がついた封筒がつく。青い風船にはクローバーのイラストがついた封筒がさがり、緑の風船には空の写真がついた手紙がのる。風船の色が違うみたいに、手紙の模様もそろえていないようだった。

「さあ、いくよ」

 榊が、左右に三つずつくらい風船を掴んで両腕を広げた。ぱっと手が離され、逃げるように風船があがっていく。

「どうぞ、遠野も」

 促されて、持たされていた風船の意味に気付き、その場で両手を開く。残りの風船が後を追ってあがっていく。

 まだ夕方には遠い青空に、風船が飛んでいった。

 それが、ずいぶんと小さくなるまで、遠くなるまで見送って、榊は屋上に座り込んだ。再び風船をふくらませ始める。封筒が残り三つ。ぜんぶ飛ばす気らしい。

「それで、何やってるの?」

 約束通り手伝ったと判断して、隣にしゃがみ込みながら尋ねる。榊は手元を動かしながら、にっこりと笑った。

「風船レター」

 予想通りの答えだった。ふくらませた風船と手紙がそろっていれば何となくわかる。わざわざ学校でやるところが凄いと思うが。

「変わった趣味だね」

「健全だろ?」

「中身によっては、そうともいえないけど」

 遠野の切り返しがうまかったのか、榊はおかしそうにくつくつと笑った。

「ごくふつうの、八十円切手を貼るのがもったいないくらいのことだよ。年賀はがきや暑中見舞いの方が、よほど意義があるような、ね」

 手紙なんて何年も書いてないなと思いながらふぅん、と相づちを打つ。せめてもの日本の風習として年賀はがきは外さないが、最近はメールですませる人も多いなと思う。

「いつもそうやって飛ばすの?」

「海だったらボトルメールを送るよ」

 それは素敵だと思いつつ、取った人すべてが返事を返してきたら文通より大変そうだなんて考えていたら、言葉を続けた彼があっさりとそれを否定した。

「実際に返事が返ってくる確率なんてゼロに等しいんだ。いくつ送っても、世界に俺の言葉は届かない」

 ――それでも俺は、世界に言葉を届けたい。

 呟いて、彼は将来の夢を応援された小学生みたいな無邪気な笑顔を向けた。言ったのが榊でなければ笑い出してしまいそうな言葉だったが、彼なら違和感がなかった。

 それにほら、今情報社会でプライバシーに厳しいから。さすがに住所も名前も書けないよと、彼は笑った。そうかもしれない、と納得してから尋ねる。

「じゃあ、何を書いてるの?」

 彼は光に満ちあふれた、自慢気な顔で笑った。

「僕は今、空を見ています。あなたは何を見ていますか、って」

 ――その瞬間を、遠野はまるで切り取られた映画のワンシーンのようだと感じた。

 奇妙な、暗い劇場でスクリーン越しに台詞を聞いた錯覚を受けた数秒後、榊らしいなと思った。特別仲がいいわけでもないけど、押すでも引くでもなく、流されることもなく自分の道を歩くのが彼だと気付いていた。

「榊らしいね」

 なので、素直にそう言った。彼はまんざらでもなさそうに笑い声を上げた。

「でも、返事がないとやっぱさみしいね。ただ送りっぱなしっていうのは、どんな手紙でも悲しいと思うよ」

 それもそうだと思う。

 小さい頃、子ども会で、風船メールを飛ばしたことがあったのも思い出す。結局あれも、返事なんてこなかった。

 返事を出すのがめんどうくさいとかじゃなくて、まず拾おうとしない。気がつこうとしない人の方がたくさんいるのだと思う。

 世の中は、だいたいが無関心で出来ている。すべてに気を配っていたら、疲れてしまうから。

 なのに榊は、とても楽しそうに風船をふくらませる。返ってこないとわかっている手紙をつけて、空に放す。それはふつうの手紙を送るというより、よほど趣味とか自己満足といった言葉がよく似合っていた。

 最後に飛ばした三つを見送ると、榊は小道具を拾い上げて立ち上がった。時計を見ると、すでに三十分が経過していた。

「ごめんね、遠野。手伝わせちゃって」

「んー、まあいいよ。楽しかったし」

 早く帰れた方がいいとたまに思うけど、帰ってもだらだらと過ごすだけだろう。楽しかったのは、嘘ではなかった。榊はその返事に嬉しそうにして、「週一ぐらいで上でやってるから、もしよかったらまた来てね」とちゃっかり手伝い要請を出した。

 それにはイエスともノーとも答えず、遠野は笑顔で手を振って榊と別れた。


 その後、一週間以上二週間未満経ったある日。帰り道で遠野は空に上がっていく風船を見つけた。数はぱっと見て五つ。あとから遅れて追いかけてくるのもある。

「おー……。あはは、けっこう綺麗だ」

 遠目に見て、手紙がついているかどうかはわからなかった。ただ見つけただけなら、まさか学校の屋上から飛ばされているとは思わない。次の機会、ぜひもう一度行ってみようと思った。

 次の機会は、思ったより早く訪れた。放課後に廊下を歩いていたとき、どうみてもふくらませる前の風船を拾った。普段なら見過ごしただろうけど、今回は一も二もなく榊の姿が浮かんだ。

 念のため教室を覗いてみたが、本人はいなかった。屋上へ上がると、グラウンドに野球部がいるぐらい自然に彼がいる。

「お届け物ですけどー?」

「う? あれ、遠野」

 入り口に背中を向けて、今まさに放そうとしていた風船を握っていた榊は、驚いてそれらを放しながら振り向いた。

「どうしたの?」

「風船拾ったけど、君のじゃないかなーと」

 赤い風船のはしを持って、べにょべにょと振ってみる。思い当たったのか、榊は笑って礼を言った。

「先週ぐらいに、風船飛んでるの見たよ。あー、やってるなぁって」

「あはは、ありがとう。頑張ってるよー。今日は七通」

「おー……。でも、そんな宛てもなくやってたらゴミになっちゃうよ」

「大丈夫。代わりに俺は、学校の帰り道にはゴミを拾っていくんだ」

 思いついたことをそのまま言うと、即座にうまい切り返しが返ってきた。立派だと思う。

 もう少しタイミングが早かったら、もっとゆっくり眺められただろうに思いながら、離れていった風船達を見上げる。その間に、榊は遠野が届けた風船をふくらませていた。

「遠野、メモ帳もってない?」

「あるけど」

「書くものも」

「あるある」

 ポケットにつっこんであるメモ帳を一枚破り、シャーペンと一緒に手渡す。「遠野、将来の夢は?」と唐突に彼が尋ねてきたので、驚いて声をひっくり返しながら「翻訳家」と答えた。感嘆の相づちを打ちながら、彼はメモ帳に何かを書きつけて、たこ糸にくくった。

「なに書いたの?」

「秘密」

 榊は唇の前に人差し指を立てて、風船を糸で繋いだ。

「遠野の夢が叶いますように」

 予想外のつぶやきに遠野が目を丸くした隙に、彼は風船を離した。すぐに上がっていく赤色を、首が曲げられなくなるまで仰ぐ。

 離れていく風船は、連想されて一つのことを思い出させる。

 子どもの頃、祭りで買ってもらった白い風船。手に巻いてしっかりと握っていたはずなのに、帰る間際になっていつの間にかなくなっていた。あわてて空を見ると、すでに二階建ての家より高い位置に飛んでいってしまっていて、愕然としたものだ。幼い子どもに、胸を叩くような衝撃と共に手に届かないということを悟らせる光景だった。

 そばにいた風船が音もなく飛んでいくのは、とても悲しい。あっという間に離れていくその姿は、見捨てられたかのように空虚な気持ちを呼んでくる。

 だから、子どもは泣くのだ。手から離れていった風船に、手が届かないことを悲しんで。大人はきっと、子どものそんな悲しみに気付かない。

 それは、ひどく寂しいことだ。考えていても悲しくなる。

 でも、現実には笑顔で風船を手放す少年がいる。風船にいっぱいの希望を詰めて、それが星屑のようにみんなに降り注げばいいと願って。彼はちっとも悲しそうには見えないし、逆に嬉しそうに上がっていく風船を眺めている。

 いつだって人の幸せを願っていて、希望に満ちあふれているにと祈り、手紙を送り続ける彼は、とても綺麗な人なのだろう。

 それがとても眩しく見えて、遠野は日差しもないのに目の上に手をやった。

 風で流れて、どんどん小さくなる赤い点を見つめる。わずかな寂しさはやっぱり感じたけど、木に引っかかった風船がしぼんでいくのを見るより、ずっといいなと思った。

 雲の浮かんだ青空を背景に、彼は両腕を広げて笑っていた。


 その数ヶ月後。屋上から風船が飛ぶのが止んだ。


 何が原因とか、そういうのではなかった。ただ目に留まった、それだけだったのだと思う。

 宛てもなく重要なことでもない、子どものいたずらと受け取られた風船メールは、場所によって多数ゴミになったことがあったらしい。榊が風船を飛ばしていることは、なんとなく誰もが知っていた。昼間に飛ばしているのだから、人目につくことも多々あり、学校に苦情が来たのだという。

 どういう経緯でたどり着いたのか遠野は知らないが、いつの間にか榊は教師に呼び出され、何かしらの注意を受けたらしい。憤るほど親しくはなく、無視するほど遠くない距離の彼に、すべての事情をあとから知った遠野が声をかけることはできなかった。

 強く叱られたのか、直接文句を聞いたのか、あるいは諭されたのか。

 いずれにしても善意なんてかけらもない悪意の塊だったんだろうと遠野は思った。空に浮いている風船を邪魔だと叱るはずもないし、叱ったとすればそれは八つ当たりに違いなく、環境問題をあげるなら的外れもいいところだ。彼を叱るより足下のゴミを拾った方がよほど環境のためになる。

 けれど、遠野がどれだけ後付けで自分の心を守る理論を構築しても、それは榊に伝わるわけがなかった。唐突に怒られて行動を否定された彼に何が刺さったか。上手く言葉にすることは出来なくても、遠野にはそれがわかる気がした。

 彼は、そのときから風船レターを飛ばすことをやめた。どれだけ彼が手紙に想いを込めていたが、願いを託していたか知らない他人達は、気にもとめなかった。


 後日、提出課題のために自宅でパソコンに向かっていた遠野は、ふと思いついて検索ページを開いた。検索バーに「風船レター」と打ち込んで、エンター。ほどなく検索結果が出た。

 お店、本の名前、通販、ショップ、単語のみのヒット。予想とまったく違うものが並ぶページに、少々がっかりした。

 ページをスクロール。次へ。次へ。次へ。特に何が探したいわけでもなかったが、求めているような記事はなくページをめくる。

 何枚ページを送ったか、目に留まったリンクがあった。題名からするに、誰かのブログらしい。カーソルをあわせてクリック。

 開いたページは、イマドキと呼ばれる層より少し上程度の、女性のブログのようだった。中身はふつうの日記で、明るい調子で些細な毎日の出来事をブログにつづっていた。何気なしに過去の記事に戻り、スクロールする。その中に、その話題はあった。

『手紙を拾った』『道端の木にひっかかって』『風船が』『可愛い封筒の』『他愛ない言葉が書かれて』『つい返事がしたくなったけど、差出人の名前はなく』

 遠野は思わず息をのんだ。記事には、ブログの管理人が拾った手紙の内容が載せられていた。


『あなたは今、何を見ていますか』

『何が好きですか』

『僕は、世界が大好きです』


 そのあとの記事は、なんだか目が滑ってしまって読めなかった。

 手が勝手にスクロールを続け、なんでこれ以上動かないのだろうと思ってようやくスクロールバーが下にたどり着いていることに気付いた。

 何度も目を瞬いて文字を凝視する。それは、いつかの榊が語った言葉そのままのように見えた。毎回けなげに文章を変える榊は、自分がいつ何を書いたかなど覚えていないに違いない。記事が書かれた日付は一月以上前だった。ほとんど毎日更新しているようだし、適当なことを書いているようには見えない。そこまで考えて、きっちりとは言えないけど頭を整理して、大きく息を吐いた。

「…………」

 何を考えるでもなく考えて、ふいに遠野は思わず頬をゆるめた。

 明日、彼に伝えに行こうかなと思う。


 ねえ、君の言葉は、確かに世界に届いているよ。



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