風船メール
あっぷるピエロ
第1話
風船メール
それを見つけたのは、何がきっかけだっただろうか。
だけど、×××××は心の隅でそれにすがった。
――そうして静かに、心も言葉も考えも思いも、ぐるぐると回る。
松野シズクは、夕焼けに染まる中学校の校舎の中にいた。
教室の窓からぼんやりとグラウンドを眺めて、そっと息をつく。グラウンドにも、教室の中にも誰もいない。静かで、広い、空間。
校舎の中でも回ってみようか。ふと思いついたら、体は勝手に教室を出て廊下を歩いていた。
こつこつとヒールの音をさせる女性は格好いいと思っていたけど、ぺったんこの上履きではそんな音は出ない。きゅ、きゅ、と靴裏と床が反発しているみたいな音がする。
夕焼けが差し込む渡り廊下を歩いて、真ん中で立ち止まる。沈んでいくオレンジ色の太陽を、目を細めて見つめてみた。ぼんやりと眩しい。
落ちていたゴミを拾えなかった。拾ったらどうしようと思うし、向けられる視線が恥ずかしい。だからみんなと同じように無視して、少しだけ後ろ髪引かれながら通学路を往復している。
電車やバスに乗ったとき、席を譲るのは勇気がいることだと思った。ありったけの覚悟がいるような、勇気がいることだと思う。
できないことが、寂しい。だから感じる必要のない罪悪感を抱えて、ひとり落ち込む。そんなことが、最近あった。
気持ちは、夏休みの宿題をやり終えた八月三十一日みたいな感じ。
悲しくもないし、嬉しくもない。
ちかちかする視界で廊下を見下ろして、シズクはまた歩き始めた。
きっと戸締まりを確認する委員会がもうすぐ回ってくる。
帰ろう、と思ってみれば、すぐに教室にたどり着いた。カバンを手にとって、生徒玄関へむかった。
たった一人、グラウンドにいるのもいいかもしれない、と考えてグラウンドを横断して帰る道を選ぶ。山の上の学校は、グラウンドを横断すると、八十段ぐらいある階段をおりることになる。急ぐと疲れるので、のんびり行こうと思う。
五時のサイレンが鳴った。階段の途中で立ち止まって、シズクは隅っこだけがオレンジ色の空をまっすぐ見た。
「……――」
夕暮れは複雑な色をしている。わかりやすいのは青とオレンジと、群青色。その奥や間に黄緑や赤、紫が混じっている。七色というのは普遍的だ、と呟いてから、普遍の意味はなんだったかなとごちる。
何か送ろう、と考えた。
ときどき学校に遅くまで残って一人で帰るのはそういう時だと、そのときだけ思い出す。そうしてまた忘れるのだ。次にアクションを起こすまで必要のない習慣だから。
カバンから携帯電話を取り出す。小さくて丸い、ピンク色のケータイ。ジュニアケータイというやつだ。
ぱこ、と折りたたみを開いて、メールの新規作成ページを開く。
ぽちぽちと遅くも早くもない速度で文字を打ち込むと、シズクはケータイを両手で持って腕をぴんと上に伸ばし、夕焼けの空に向けた。
「そーしん」
呪文みたいにつぶやいて、ぽちりと「送信ボタン」を押し込む。
十数秒を待って、シズクはケータイをしまい、再びゆっくりした速度で階段をおり始めた。
そのとき、学校指定の白いシューズが軽く石を蹴った。宙を飛んだ石は、遠くで手すりに当たって高い音を立てた。
どこかでキンと高い音がした。
思わず顔を上げて、瀬川ナオトは耳に装着しかけていたヘッドホンを首におろした。
閑静な商店街をくだる高校からの帰り道は、田舎すぎて過ぎていく車の音もまばらだ。太陽はまだ見えるが、光が全てオレンジ色に見える時間帯に、通りすがる人も少ない。
そんな中で聞こえた音は、妙に通路に反響して去っていった。
車が石でも跳ねて何かに当たったのかな、と判断してナオトは最寄り駅までの道を歩き出した。
ナオトは美術部だ。といっても、絵は(うまいかは別として)嫌いじゃない程度、比較的活動が楽そうなのを選んで入部しただけだから、特に専攻もない。毎日、部員に配布されたスケッチブックにらくがきとスケッチを描き連ねて、出展するときには何を描こうかなと考えるぐらい。
人の少ない部活で、必死に描いているのは部長以下一人か二人だろう。あとは、漫画を読んだりアニメ物を描いたり、およそらしくない。
その中でナオトは、まあ真面目程度の覚えをされている。部活はさぼらないし出展のために絵は描くが、正直あまりうまくない。絵の具を重ね塗りするという技術が、まだ理解できていないからだと他人事のように思う。
描きたい物もない。描いても露骨に疑問視される。先輩に、顧問に、同級生に――何故この絵を描いたの?
知るか、と呟いて転がっていた石を蹴る。一度蹴っただけで、石は道路を落ちて田んぼにダイブした。
「は……むなし」
自重するように言葉を吐いて、空を仰ぐ。家に囲まれてオレンジ色が見えなくなった空。体をぴんと伸ばして、深呼吸を一つ。
「……っは!」
気合い一つ、突然ダッシュ。残り徒歩数分の距離を、全力疾走で駅までの道を走る。硬い道路を叩く靴の音がうるさく響く。
電車が間に合わないわけでも、走るのが得意なわけでも、他に目的があるわけでもなかった。ただ走る。
五十メートルも行かないうちにすぐに息が苦しくなった。胸が一気に心拍を早めて痛い。それでも限界まで体を低くして、空気をかくように走る。
駅前で、多少車が行き交う道路にぶつかった。そこでダッシュは終わった。急ブレーキをかけた指先が痛い。一気に空気が肺に入るのがつらい。視界がゆがみそうになるのがきつい。
大きく肩で息をして、横断歩道の前で立ち止まったままのナオトを、通りすぎる車がいぶかしげに見ている気がする。酸素不足で悲鳴を上げているのか、目の端に涙がにじんだ。
「はー……、はー……」
十分に落ち着いてから、ナオトは左右を確認して道路を渡った。駅まではあと五十メートルくらい。知り合いがいるかもしれないから、足を運ぶ速度をゆるめる。
唐突に走ったのは、無茶でもやけくそでもストレス発散でもなかった。しいていうなら、必要だったのだ。
何をしていいのかわからないときは困惑する。今のナオトがまさにそうで、別に部活で絵が下手だとこき下ろされたわけでも、叱られたわけでもなかった。
けれど、いたたまれない。
真面目に熱中するほど取り組んでなく、ふざけて遊びに使うほど弾けてもなく。
中途半端にいるからこそ、なんにもないような空虚な気持ち。
さみしくない。つらくない。でも、もやもやとした嫌な気持ちが残る。
よくある田舎風景の駅が見えて、その向こうで電車を待つ人に友人がいないのを確認する。誰かと話したい気分ではなかった。
そのとき、制服のスラックスに入れていたケータイが振動した。授業後にわざわざ解除するのが面倒なので、マナーモードのままだった。
取り出すと、小さな画面に【メール 一件 受信完了】という文字が流れていった。
ぱちりとケータイを開く。来たメールを確認。
「…………」
見慣れない名前の、というか初めて見る名前だった。本文は一言。
『ささやかな親切をしてみたい』
題名は、『偽善じゃない善意』。純文学の題名にでもありそうなタイトルだった。
相手が何を示しているのか、わからない内容だった。
返信は出来る。けれど、何を返信すればいいのだろう? 相手は、返事を期待して待っているのだろうか?
ナオトはしばらく画面を見たまま立ち止まっていて、電車の来訪を告げる放送がかかるまで経った時間に気付かなかった。電車がホームに入ってくるのを見てあわててケータイをしまい、構内へダッシュで駆け込む。
がらがらに空いた電車のボックスを陣取り、ケータイを開く。画面はそのままだった。
わけのわからなさに苛立って思いつくまま返信しようと思い、途中でそれをやめた。これでもし論争になったら、ますます疲労が増えるだけだ。
「…………」
しばらく考え、メールを打つ。そしてナオトはアラームをセットしてポケットにつっこみ、窓にもたれて目を閉じた。
地元の駅に着くまで三十分。その間に少しは眠れて、ささくれだった気持ちが収まればいいと思った。
携帯のアラームで目を覚ました。
振動つきの目覚ましだったせいか、びくりと飛び起きて手の先にあったコーヒー缶を倒してしまった。あわててとりあげて、こぼれた液体にティッシュの山を振りかける。積んであったメモ帳と書類にかかってないか確認して、大和ミコトはほっと胸をなで下ろした。
あらためて、椅子の上で体を伸ばす。仕事机に倒れて、そのまましばらく寝てしまったらしい。妙に部屋が暗いなと思って左手の窓を見ると、真っ赤な夕暮れだった。
「おーおー、もう夕方かぁ」
何時に寝たんだっけかな、と記憶を辿る。すぐに意味がないことなのでやめた。重要なのは、今お腹がすいているという事実だ。
「食えるもんなにかあったかなー……」
物がしまわれていないのではなく、物がありすぎてしまえずにごちゃごちゃとしている汚い部屋を見直し、ミコトはインスタント食品が入っている戸棚をあさりにいった。
台所に残っていた食パンをくわえながら、夕食というカテゴリを満たす食品を探す。湯で沸かしてどんぶりにかけるタイプのレトルトがあったので、それを鍋につっこんで湯をため、火にかける。
その間に、スリープモードに入ったパソコンの元へ戻り、適当にキーを一つ押す。ばっちり作業画面が残っていて、ほっとしつつ一部を見直してから保存。印刷しないといけないデータはUSBに保存、明日会社に行って印刷しよう。えーと、このデータはメールで送ればいいな。
仕事の一覧が殴り書きしてあるメモ帳に、二つ三つ横線を引く。よし、あと少しの仕事は土日で片付くな。化粧気のない顔に満足げな笑みを浮かべて、ミコトは腕を組んだ。
大きなあくびを一つ、鍋に火をかけていたのを思い出してあわてて台所に戻る。
ご飯を盛りつけたどんぶりに具を流し入れて、ミコトは少し早い夕食に取りかかった。
ミコトは小規模な会社のプログラマーをしている。メンバーが十人程度しかいない規模なので融通が利くおかげもあり、不満はない。それを信用されて会社からはわりと細々とした要望もつけてくるが、特に問題もない。
ミコトの技術は、わりと中企業大企業でも渡っていける程度に能力はあった。
そこらを蹴って、わざわざ社員の少ないような企業に就職したのは単にそのほうが自由に出来ると思ったからだ。事実、居心地はいいしわりと自由もきく。
その代わり、中・大企業で必要とされるコミュニケーションやマナーなど、一部が欠落してしまったようだ。会社にもノーメイク、通勤着はずぼらな普段着。会社が怒らないことが不思議なくらい。たまに女っ気の少なさを嘆いて、同期がヤジを飛ばしてくるがそんなものは一刀両断である。
ミコトは平気だ。他人になんと言われても、自分にだけ通じるプライドがある。だから不安定な周りの人間を不思議に思う。少しつつかれただけで心が折れそうな人間と社会に同情する。
「はー……世知辛い世の中だねぇ」
おばあちゃんのようなセリフを吐いて、もうじき三十路だからまあ別によかろうと自己完結、ミコトはどんぶりをすすった。
食べ終わると、はて昨日は風呂入ったかなと首を傾げてシャワーを浴びた。郵便受けを覗いて、会社から届いた封筒を開いて資料を眺める。部屋のライトをつけ、ベッドの上に資料と紙とペン、本を数冊引っ張り込んで寝ころぶ。
がりがりと紙に文字をいくつも書き付け、本をめくり、紙をベッドから蹴り出す。
そんなことを一時間もしたあと、ふと目を上げたミコトは、机の上で点滅する青い光に気付いて体を起こした。
かけよると、ミコトの黒いケータイだった。受信ランプがゆっくりと明滅している。
「あれまー。会社からかしら……無視してたらやばいよなぁ」
ぼやいて、開く。着信ではなく、メール受信の方だった。何だ? と思いながらメールを開く。
「……ほう」
本文を眺めて三秒後。ミコトの口元がにやりと笑った。彼女がよくやったと言うときに浮かべる、悪巧みが成功したときのような、会心の笑み。同僚が見たら、きっと逆に恐れおののくに違いない。
メールは、転送のマークがついていた。しかし、差出人は知らない人間だ。
本文は、書き足したようにちぐはぐな口調で書かれていた。
一行目に、歳も性別もはかれないように短く一言。これは、文の最初に引用を示す記号がついている。
二行目は、年若い男の子を連想させるぶっきらぼうな言葉で言い捨て……書き捨ててあった。
『したいっていってる時点で、偽善だろ』
文章はつながっていない。上の文に下が答えただけというものだ。このメールがくるまで、ミコトも登録していることをすっかり忘れていた。
「ふむ。こういうのは好感が持てるな。さすがだ。たまには変なこと手を出してみるのもいいな」
ミコトはケータイのストラップに指をひっかけてくるくる回しながら台所に消えた。少しして鼻歌を歌いながらココアを作って戻ってくる。
「したら、少しこの命題につきあってもいいだろう」
休憩にな、と誰もいない部屋に聞かせるように呟いて、ミコトはすっかり日が暮れて真っ暗になった窓の外を見、カーテンを閉めた。
勢いよくカーテンを開けた。
眩しい朝日が入ってきて、目をすがめたあと体を伸ばす。そして、今日もまた仕事かとため息のような吐息をついて長い髪をかき上げ、織川ヒロネは身を翻した。
入社数年を過ぎた今、ヒロネは二十五を過ぎてなんとなく子どもの部分が残ったまま老化したような、怠惰に近い感覚を引きずって微妙な気分だった。
仕事はうまくいっている。特に活躍しているというわけでも、失敗が続くと言うこともない。どちらかというと中企業の情報作業を、一進一退しながら続けている状態だ。仕事にそこまで情熱をかけているわけでもないから、あたりさわりのない社員ということで通っているのだろう。
「やれやれ……」
いい天気に気分が高揚するわけでもなく、ヒロネは身支度を整えにシャワー室へ入った。
自分の形をした氷の像があって、それがやすりでがりがりと削られた感じ。
そんな形に体力も精神力も使い切って、会社を出る。外はすでに日が暮れていた。
「はぁ……」
ため息をついて駅へと向かう。自分でも何がそんなに疲れているのかわからないけど、世の中をナナメに見てすれている、というのがヒロネが自分に下した判断の一つだ。いつからかわからないけれど、自分はあまり素直に物事を受け取れない性格になったらしい。
高校生の頃は、こんな風ではなかったような気がする。いや、大学に入ってからも、すれていた覚えはなかった。就職が、進学が、と口うるさく言われるようになってからだろうか。
会社に入ってからは女子達と群れていたのに、いつの間にか少しだけ距離が空いている。互いに嫌っているわけではないし、トゲを刺しているわけでもない、会社の飲み会には普通に誘われる仲だ。それでも接しているヒロネは何か違和感があってとまどうのだ。
どうして。知らない。自己問答は往復で終わってしまう。それに肩を落とすわけでもなく、ヒロネは普通に会社に通って仕事をし、あがって帰ってくる。
電車でいくつかの駅を過ぎて通うヒロネは、いつものようにすっかり発車時間を覚えた駅にたどり着いた。イマドキのファッションを知らないおじさんたちに侮られない程度、怒られない程度にヒールのある靴で階段をのぼる。コツコツと鳴る靴は、昔は心地よかったが今では自分の足音を強調しているだけのように聞こえてあまり気分がよくない。物事にはなにごともほどほどに。その釣り合いを計るのは難しい。
たった数年前の大学生の頃、まだ学生時代を思いっきり楽しんでいた頃、高いヒールのブーツを履いて颯爽と歩いていた頃。足がくたびれるのも、電車を待つ時間も苦じゃなかった。実家住まいだったあの頃は、夕食は何だろうと思いつつ、小腹が空いて買い食いしながら帰ったものだ。
今はもう、好きなお菓子さえ忘れてしまった。自分は何が好きだったのだろう?
自嘲しかけた笑みをかき消したのは、駅のけたたましい放送音だった。快速の電車が滑り込んでくる。同じように帰宅途中のサラリーマンに混ざって、電車に乗る。実家よりは近い距離に移り住んで、けれど乗る線は同じ。顔ぶれも、変わってないのだろうか?
がたんごとん、と電車が揺れる。吊革につかまって席が空くのを待つ。疲れたと思いながら、口に出したらさらに疲れる気がして、ぼやくのもやめる。
ああ、そうだ。起こそうとするアクションの結果を考えて、それに意味がないと気付いたとき。それがさらに自分の居心地を悪くするとき。そんな計算をいつからか始めた。それから、だんだんと何かを諦めていったのだ。
夢を見ることも、楽しもうとすることも、泣きたいと思ったことも。
がたん、と大きく電車が揺れた。人の波も一様に揺れる。
ポケットに入れていた携帯が鳴った。ずっと昔に好きだった曲が、昔のまま歌を口ずさむ。
周囲の客が、振り向きはしないけれど意識を向けてくる。たびたび電車の中で携帯が鳴るたび思ったことが、今自分に向けられている。どうして今日はマナーモードになっていないのだろう。
ポケットから携帯を引っ張り出したときには、曲は切れていた。その短さでわかる、メールだ。
誰からだろう。開いて――きょとんとした。
本文を読んで、差出人を見て、記憶をひっくり返す。しばらくして、ようやく思い出した。――なんて懐かしい。
まさか、と思いつつもう一度本文を見る。転送マークがついている。回覧板のように、一言ずつ書いて回しているようだ。最後の一文は、挑発するように小難しい言い方で書かれていた。
『すれた答えだ。親切に目をとめるだけで心優しいというのに。ま、ささやかさの程度が難しいがね』
意外すぎて、驚くことも怒ることもなかった。思わず笑ってしまいそうになる。ほほえましい家族の口論を見ているかのようだった。
ヒロネも同じく転送を選び、メールを作成する。どう答えようか悩んでいると、前の方で若い男性がおばあさんに席を譲っていた。素直に、すごいと思った。
指が軽快にボタンを叩く。なんだか、手にすくい上げられないくらい些細なことで問題が解決してしまったような気がして、不思議な気持ちだった。
久しぶりに、帰りにコンビニ寄っていこう。何か、お菓子を買ってみよう。ケーキ、キャンディ、ガム、スナック菓子。眺めてみれば、自分が好きなお菓子も思い出すだろう。
降りる駅に到着した電車を降り、髪をなびかせて颯爽と歩く。
コンビニに立ち寄って、ヒロネは可愛いパッケージのチョコレートを手に取った。
うまいがやたら可愛いパッケージの封を勢いよく開けて、チョコレートを口に放り込む。
昼下がりの町中は人が少なくて、息抜きに丁度いい。もぐもぐと口を動かした工藤ジュンは、デイパックを肩にかつぎ直して駅から滑り出た。
大学が昼前に終わると、こういう時間帯に地元につけるから気が楽だ。学生やサラリーマンがわらわらと行き交う電車は、嫌気を越して鬱になる。昼食の時間を半分過ぎたころは、電車の中も一両に二、三人しかいなかったりして開放感があり、楽しい気さえする。
「うっし。さあて、本屋でも寄って買えるかー」
月刊雑誌の発売日が明日辺りだったはずだ。希に一日早く店頭に並んでいるので、ゲットして帰ろうとジュンは自転車を回収して道路を渡った。
こういうとき、地元に駅があると楽だ。友人の中には駅まで車ではるばる三十分も乗ってくる奴がいるのだ。大学まで通学時間二時間。とてもじゃないが真似できない、尊敬する。
本屋は駅に近いが、帰る方向とは微妙に逆だ。まあこの距離なら、と橋を渡って坂を下りる。しゃー、と軽快にタイヤが回る音がする。風を切る音は気持ちが良く、先日ゲームを手に入れたばかりだしお小遣いも入ったし、うきうきの気分でジュンは本屋の自転車置き場に乗り入れた。
鼻歌交じりに手に入れた雑誌を自転車のかごにつっこんで、ジュンは再び駅前に戻った。お腹がすいているなと思い、駅前のパン屋で何か買っていこうかと方向転換する。
「お」
そこに、先程は見かけなかった集団がいた。
かなりの規模だ。旗を立てそろいの上着を羽織って、手には箱。目につく赤い羽根が何を示しているが、わからないやつもいないだろう。
「募金にご協力おねがいしまーす」
年齢もばらばらな人たちが一列に並び、声を上げている。自分も過去に地震被災地の方に募金を、とかやったことあるから何とも言えないが、一列で並ばれると妙な威圧感がある。これはちょっと、通りにくい。
といっても自転車だから、と突っ切っていく。耳の側で声がする。「募金に」「ご協力」「……しまーす」
パン屋の前で止まってから、後ろを振り返る。時々行き交う人に、またも彼らは声をかけていた。やるなら朝早くやればいいのに、とか思ったが、きっとやっているだろうから無駄なことは言わなかった。
パン屋に入って、いちごの形をしたパンと紅茶メロンパン、コロッケパンを買って店を出る。自転車に腰掛けながらコロッケパンを口にくわえようとして――
「……」
これからジュンが帰る道の方向にもずらっと五、六人並んで、募金活動をやっていた。二手に分かれたグループだったらしい。
パンを袋につっこむ。自転車のかごに入れようとして、潰れそうだからやめ、デイパックに放り込む。それから、そっと財布の位置を確かめた。
一昔前に、募金を語った詐欺があったとテレビでやっていた。あんなのは奇特な例だろうが、募金がどれだけ現地に効果を示しているか、こちらには全くわからないのだ。
不安になるとまでは言わない。ただ、妙な気分がするだけだ。
だけど、募金というのは善意の塊の象徴みたいなもので、それを蹴ることの方がしくしくと罪悪感がする。後ろ髪引かれる気持ちという方が正しいか。
一度は素通りしたのに。でも、このまま振り払うことは、自分の一部が嫌な気持ちを残すと訴えている。
「…………」
ジュンは自転車から降りて、財布の中から小銭をいくつかつかみ取った。
自転車を押して、募金箱を並べる彼らに近づく。素通りしても顔を変えない彼らはどんな気持ちなのだろうと、別のことを思った。
箱の口に、小銭を投げ入れる。明るい声で「ありがとうございます」の言葉。隣のお姉さんが赤い羽根を差し出してくる。胸につけるような、例のあれだ。
つける場所がなかったけどとりあえず受け取って、自転車を押して通り過ぎる。そうして角を曲がってから、自転車にまたがった。
自己満足だ。そう思った。善意の塊のような行為を無視することが、とても嫌な気持ちにさせる。だから後からでもいい、投資すれば相殺させる気がする。それだけ。
はあ、と微妙な気分になって時間を確認するためにケータイを引っ張り出した。画面を開いて、メールが届いているのに気付く。
開いてすぐにわかった。ジュンは頻繁にこういうメールを送っている。でも、来る確率の方が少ない。とても珍しい。
中身は、不思議なことにリレー形式になっているようだった。ブログとかにあるバトンのようだと思う。これもまた珍しい。最後の言葉は、きびきびとした女性が打ったような素直な言葉が書かれていた。
『電車で、席を譲る子を見たわ。すごいと思うけど、出来る気がしない。ささやかじゃないわね』
確かに、と苦笑する。尊敬するし凄いと思うけど、とても自分には出来ないと思う。
ジュンは自転車ごと歩道のすみに寄って、返信……もとい、送信のメールを打ち始めた。
ぱちりと音と立てて携帯を閉じ、チョコレートをまた一粒口に放り込む。そして、勢いよく自転車をこぎ始めた。
甘い味が口に広がるのを感じながら、このまま全力で家までこいでやろうとペダルを踏み込む。どこからか転がってきた空き缶が、自転車に当たってカン、と跳ね返った。
カラカラと誰かに蹴られた様な空き缶が転がってきたので、それを拾い上げた。
「もう。きちんとゴミ箱に捨ててほしいですね!」
頬をふくらませてそんなことを言ってみる。周りの音は賑やかで、近くに客もいないので誰にも聞こえないはずだ。聞かれていたらそれはそれでお上に注意されてしまうから、言えたものじゃないけれど。
空き缶を分別ゴミ箱に入れて、緒方アオイは持っていた長いほうきとちりとりのセットを持ち上げて、テーマパーク内を移動した。
規模は小さな、けれど手頃な値段で利用できる市内のテーマパークは、平日に子連れの親子がやってくるほか平日も恋人同士でやってくる若者がけっこう多い。
繁盛な事はいいことだと、アルバイトでテーマパーク内を掃除しているアオイは、通りすがるお客に笑顔を向けてゴミを運んだ。
バイトといっても、アオイの場合年季が長いため自給はバイト連中の中でもかなり高い。留学するためのお金を稼いでいるのだが、季節休日平日関わらず働いているため給料はそこそこで、正社員からの顔覚えもめでたい。アオイとしてはこういう賑やかな場所で、それなりに挨拶をするような関係が一番やりやすいのだ。会う人会う人に明るい性格だと慕われ、もはや太鼓判が押されるぐらいだ。
ちりとりのゴミを、回収場所に一度出してもう一ヶ所回ろうかと思って時計を仰いだら、予想より針が三十分ほど先に進んでいた。あわててカートとゴミ袋を持ち出して、テーマパーク内のゴミ箱を回り始める。顔見知りのアトラクション業務員がときどきにこりと笑ってくれるのがすばらしい。アオイも負けずににこりと笑って、ゴミ袋を取り換えて回った。
「緒方さん。悪いけど、タオルと飲み物をアトラクション業務員に届けてくれない?」
「いいですよ! どこですか?」
「一番端なんだけど」
「はい! わかりました、お預かりします!」
はきはきと元気よく。父と母から習った教えを遵守して、アオイは差し入れを持っていくつかのアトラクションを回った。
真昼を過ぎた頃、従業員がやっと交代で弁当をかきこむ段になって、アオイは一足先にあがりになった。午後からは後輩たちが数人入るため、ぽっかりと休みになったのだ。
「アオイちゃん、いつも頑張ってるからね。たまにはのんびり休憩しなよ?」
「あはは、気をつけまーす」
作業服を片付け、道具もしまって一通り机を拭き終わったあと、アオイは頭を下げて「お先に失礼します」と仕事場を出て行った。残った人たちが、「いい子だねぇ」と呟いているなんて思ってもいない。
晴れた日は直射日光に当たり続ける仕事なので、暑くてしょうがない。帰り道でコンビニに立ち寄り、好きなアイスを一本買った。昔、キャラ物の形にアイスを作る道具があったなぁなんて白い雲の浮かんだ空を見ながら思い出した。
封を切って、オレンジ味のアイスキャンデーを食べる。食べている間に、アオイがつったっているコンビニの前を、車が二四台通り過ぎていった。
食べ終わったアイスをコンビニ前のゴミ箱に捨てて、自分のカバンからビニール袋を取り出した。家までは徒歩の距離だ。商店街ではなく住宅地を通って帰ろうと、アオイは方向転換した。
表通りは煉瓦造りの通りがあったり、きちんと整備されて広々とした道路があったりすっきりとしているが、裏通りはアスファルトがしかれただけで表面はぼこぼこ、草があっちこっちに生えているなんて様子がざらにある。
そこはよく学生や通勤のサラリーマンが通ったりもするので、ゴミが落ちていることも多々あり。
「……」
ふん、と鼻息をついて気合い充分。アオイは大きなゴミだけ拾いながら帰り道を辿った。定番的な空き缶はわりと少ない。どちらかというと、紙パックのジュースやペットボトル、箱のお菓子の抜け殻やパン菓子の袋などがよく落ちている。
最初は目に留まる程度、次から気になるようになって、さらにゴミがあるとイライラしてくるようになった。だから「捨てるのならば拾ってやろう!」とばかりにゴミを拾い始め、掃除係という仕事場との共通点もあって、すっかりアオイの習慣になった。
もちろん、集めたゴミは途中のコンビニできちんと分別して捨てる。そこまでやって、アオイは誰ともなしに自慢げに胸を張るのだ。
「さて、今日の夕ご飯は鶏肉のささみです! 楽しみだっ」
一人呟いて、親が帰ってくる前に下ごしらえぐらいやっておこうと、さっきまでよりずっと軽く早い歩調で家に向かう。その途中、携帯がカバンの中でピリリリ、と鳴った。
「お?」
いつもなら仕事中の時間だ、かけてくる相手もいないはず。あせあせとカバンをおろして中を探る。すでに音は止んでいて、見ると新着メールが入っていた。
「おお!」
珍しいこともあるものだ、と思わず大きな声で感激を叫ぶ。珍しい、とても珍しい。こういうメールを何ヶ月待ったことか。アオイは携帯を開いたまま歩き出した。
「ふむふむ」
名前はついていなかったが、転送マーク付きでそれぞれの文がご丁寧に改行されていたのでストーリーを汲むのは簡単だった。数えてみると、すでに四人に回ってからこちらに届いたらしい。皆それぞれにテーマみたいなものについて書き込んでいるようだった。
最新の文字までスクロールしてみる。メールの初めと比べると、長い文章が誠実な言葉で書かれていた。
『募金はささやかな親切なのかな? 一度通り過ぎてしまって、罪悪感みたいなものができてしまった。もう一度その人達に会ったから、今度は募金をしてみたけど、親切というより、自己満足な気分。でも、これもいいかなと思う』
「あはは、なかなかいい人だ」
感想を呟いて、アオイはにっこりと笑った。名前も顔も、何処でどうやって住んでいるかも、歳さえわからない相手達に向けて。
「よし、じゃああたしも便乗しよーっと」
だいぶゆっくりの速度で歩きながら、カチカチとボタンを操作し文章を打ち込む。
「送信、と」
決定ボタンを押し込んで、アオイは携帯をしまった。次に来るのは何ヶ月後だろう。何が来るのかわからない。それでも、
「楽しみだなぁ」
呟きながら、カバンにつっこんでいた手紙を思い出して引っ張り出した。懸賞に応募するため書いたものだ。忘れて帰るところだったと胸をなで下ろし、アオイは小走りで近くのポストまで走った。
「住所へ~……届けっ!」
念じながらはがきをポストの口に投げ入れる。手紙は赤い箱に飲み込まれ、中で小さな音をたてた。
かたん、と手紙が落ちる軽い音がした。
古くて歪んだ郵便受けを開け、届いていた手紙を取り出して宛名を確認。自分に二通、妻に一通。業務の用事と広告メールだった。
岡名ナツメは手紙を持ってリビングに戻り、テーブルに完成していた朝ご飯を並べた。時刻は午前八時。子どもはとうに学校へ出発していて、用意された朝食は二人分だった。
「リエコ、食べられるよ」
「はあい、行きます」
調理場で今日のメニューの下ごしらえをしていた妻は、ナツメの呼びかけに答えて戻ってきた。
朝食はトーストとレタス、トマト、チーズのサラダ。ベーコンエッグが一つずつ。
「仕事で凝ったもの出すのに、自分たちが食べるのは質素なものってのも不思議ね」
妻は今までにも何度か口に出した疑問を繰り返し、美味しそうにトーストをかじった。
「ホテルとかの従業員が、まかない料理だすようなものだろう?」
ナツメの返答も、今まで通り。
「ええ、そうね。文句なんてないわ、おいしいもの」
言って、ミルク入りのマグカップを持ちあげた彼女は、ふいに夕食はカルボナーラにしようかしらと首を傾げた。
「おいしそうだね」
こんな会話も日常茶飯事だ。ナツメは微笑を浮かべて妻に答え、サラダを口に運んだ。
ナツメは、実家の隣に建てられた喫茶店でカフェを営んでいる。看板名はナツメの父が、母に結婚記念日に送ったという花の名前だ。堅気な父だったのに、こんなけなげで可愛い花を知っているとは思わなかった。
カフェは大型のスーパーマーケットの後ろで表通りには接していないから、疲れるほどの忙しさは襲ってこない、いい敷地に経っている。だからこそ夫婦とときどき子ども、アルバイトが一人二人で回せる店なのだ。てんてこ舞いの経営よりずっと気が楽だし、知った人が気に入って何度も通ってくれるせいか、経営に不安はない。ありがたいことだと、ナツメは店のエプロンをしながら思った。
開店は午前十時から、夕方六時まで。時間としては短いかもしれないが、このカフェほど規模の小さいところでは丁度いいくらいだろう。紅茶を基本に出しているお店なので、どちらかというと夕食系の重いものよりブランチ系の軽い食事ばかりだ。メインはデザートになるのだが。
店を開けると、何分かして一番目の客が入ってきた。ナツメにモーニングサービスのセットを頼んで、新聞を読み始める。続いて、もう一人。時間を空けて、二人ペア。
昼頃には食事のためにぽつぽつとやってくる人が増え、そして午後に入るとデザート目当てにやってくる人が増える。甘いパンケーキやワッフル、スコーンなどにジャムをセットにしているので、比較的女性が多い。もちろん男性も頼む人はちらほらいるが。
連日訪れる客足は、そこまで変動がない。わりに静かな店だし、出る食事からも把握できるが、大多数が騒ぐお店ではないのでそういったお客はまず外観の雰囲気からすでに敬遠してくれるようだ。適度に明るくゆったりとした曲が流れているのも、植物が多いのも趣味だが、今のところけちをつけられことはない。
夕方、五時頃になって学校帰りらしい学生の子が店に入ってきた。一人だ。制服から察するに、近くの中学生だろうと見えた。
イマドキの中学生は学校帰りにお店に立ち寄るのかと年寄りじみたことを思ってから、休日によくやってくる女の子だと気付いた。いつも、日曜あたりに一人でやってきてテーブルにノートをしき、紅茶とデザートを注文して閉店間際までいる子。中学生だったのか。
何をしているかを聞いたことはない。だが、シャーペンを必死に動かしノートに書き付けている姿は、勉強かどうかわからないが頑張っているんだなという気がしていた。月に一度は昼食を頼んで、朝早くからすみのテーブルを陣取っていることもあるのだ。それだけ頑張ることがあるのだろうと思い、そっと応援していたことを思い出す。
女の子は、いつもの指定席に座ると、「バナナミルクティー、ください」と告げた。このカフェはポットで出すので、紅茶を頼むにも七百円はする。中学生が気軽に頼むには高いだろうと思うが、少女はどうやら見栄を張って胸を張って、大人でいたいようだ。背筋を伸ばし、大きなテーブルに手を置く。
注文を受け取って調理場に下がると、少女はすぐにカバンから紙束とペンシルケースをとりだした。いつもの光景……とは少し違った。白いページに文字を増やすのではなく、書かれた紙をめくっては何事か書き付けている。
妻に目を向けると、にこりと笑って残った生地を使ってワッフルを作り始めた。この時間帯になると、客はあまり入ってこない。お得意様に、これくらいの褒美なら許されるだろう。
先に出来上がったのはワッフルだった。クリームとストロベリーソースがかけられた模様のついたお菓子。妻がサーブしに行き、ノートの隣に置く。少女が驚いた顔で頭を上げた。
「どうぞ。サービスです」
少女は一度首を振ったが強い否定はなく、ワッフルの香りにやられたのか、しばらくして頭を深く下げて礼の言葉を呟いた。
目を戻して、紅茶を煮る鍋にバナナを入れミルクを入れ、味の最終調整をしていると、ラックにかけていた携帯がふいに鳴った。
「リエコ、出てくれないか」
妻に頼むと、少女に出すポットとカップを用意していた彼女はするりとそれをとった。
「あら、止まった……メールみたい」
「何て?」
尋ねると、携帯を操作していた妻があら、と顔をほころばせた。
「何?」
「前に、あなたが説明してくれたメールだわ。わあ、楽しそうね!」
火を止めてポットの前に動かすと、妻が代わってくれた。ポットに紅茶を移し始める隣で、ナツメは開かれたメール本文に目を通した。勢いのいい最後の文に、妻が微笑んだことは容易に想像がついた。
『やるってことがすごいのです! 私は時間がある日はゴミ拾いしながら帰りますよ!』
ナツメも思わず喉の奥で笑った。店内のBGMのおかげで、少女に変な目で見られるようなことはなかったようだ。
ワッフルをつまみ、紙をめくる少女を何とはなしに眺める。そして、ナツメも先駆者を見習ってメールを打った。送信すると、妻がパッチワークのポットカバーに包んだポットとカップを用意して待っていた。礼を言って、少女の元に運ぶ。
「いつもここで頑張っておいでですね」
ポットを運びがてら声をかけると、少女は顔を赤くして「え、いや、あ、あぅ……」とぼそぼそ声を出して沈黙した。
「あまり根を詰めないように。がんばってください」
ここまで必死になる夢があるのだろう。見ていて微笑ましい。ナツメは自分が将来の夢を応援されたときの頃を思い出して、笑顔を向けた。
「ありがとうございます……」
少女は深くうなずいて、紙束を動かした。
ナツメは、小さなお嬢さんに紅茶を渡すため、そっとテーブルの上にソーサーとカップを置いた。
目の前に置かれたコップを持ち上げ、松野シズクは甘い香りのするココアをすすった。
友人がよく利用するという一般的なチェーン店の珈琲喫茶は、予想に反して賑やかと言うより騒がしく、年齢層もばらばらな人たちが昼食雑談その他に利用しているらしく、店はめまぐるしく回転している状態だった。忙しそう、ということはつまりゆっくりできないことだとシズクは判断している。
苦手な物は出された場合は片付けるけど、自分からは手をつけないと決めている。中学生のシズクには珈琲は大人の飲み物、というよりただの苦い物、として認識されている。ジュースもそこまで好きではないので、無難にココアを選んだ。
「何食べる? 何でもいいよ?」
ここへ連れてきた友人の姉が、からからと笑ってメニューを広げる。友達はすぐにこれがいいあれがいいと指さし始めるが、すべて却下されているのは彼女たちのコミュニケーションなのだろうと思う。
「じゃ、あたしハンバーグセット」
「ほい。シズクちゃん、何食べる?」
「……じゃあ、トーストサンドイッチ」
「オッケー。んじゃうちは、ビーフストロガノフにでもしてみっかー」
メニューがたたまれ、賑やかなテーブルの音声が舞い戻ってくる。シズクは再びココアに口をつけた。
何故ここにいるのかと言えば、お姉さんの服の買い物に付き合った友達が、二人だと嫌だと駄々をこね、成り行きでシズクが同行する形になったのだった。バイトもしている年の離れた姉は大学生らしく、いくつかお供の中学生に買ってくれもした。
シズクとしては、休日は家でごろごろしている方が好きなのだが。
「きたー」
運ばれてきた食事を前に、礼儀正しく手を合わせて「いただきます」。すぐに手を出しながら、姉妹があれこれと議論しだす。右から左に聞き流して、シズクはサンドイッチをほおばった。焼き立てで温かい。もぐもぐと口を動かして味を噛みしめていると、ふ、と一瞬テーブルがかげった。
窓に接したテーブルにいたせいか、首を向けるとすぐに外が見えた。車が止まっている駐車場。向こうに道路とコンビニ、パチンコ屋。そのまま目を上に向けると、太陽に薄く雲がかかっていた。
道理で暗くなったわけだ、とごちてまたサンドイッチにかぶりつく。
日が出ると暑いのに、陰ると急に肌寒く感じる。こういう変化がシズクは嫌いだ。暑くて荷物が増えるのも嫌、寒くてかたかたと震えるのも嫌。気温は人に優しくない。
友達がハンバーグをフォークで刺して、すごくおいしいと胸を張って語っている。シズクはもう一切れを掴んで口に運んだ。
パンの隙間から、とろけた卵の黄身が出ていた。半熟の目玉焼きだったようだ。たれないようにかみついてから、ふといつかの夕焼けを思い出した。
オレンジ色の夕焼けの中、一人グラウンドを横断して帰ったあの日。送ったメールに返信はなく、けれど期待もしていなかったからしばらく忘れていた。
また何か送ってみよう。いつか、自分に届くことはあるのだろうか。
姉妹の会話を無視して窓の外に目をやっていると、膝の上でカバンが震えた。サンドイッチを皿におろし、ふきんで手を拭いて、カバンを開く。
丸いケータイは健在で、ピンクのたまご型を開く。家族以外からは(ケータイの使用範囲を限定されているから)あまりこない着信を見ると、デスクトップにメールのアイコンがついていた。ボタンを押すと、メールを開く一歩手前のページに移動する。
見てみると、一度か二度しか来たことない例のメールだった。今までに返信はしたことがないが、これはどうだろうとメールを開く。
「…………」
周りで交わされている会話が遠くなった。自分の呼吸が一瞬止まったのが自分でわかった。
この、メールは。
『ささやかな』『偽善だろ』『心優しいというのに』『できる気がしない』『親切なのかな?』『すごいですよ!』
誰だろう。誰だろう。数が多い。これはきっと、一人ひとり書いた人が違う。
どうして。なんで?
驚きながら感動しつつ困惑している気分で、シズクはじっと文字を見つめた。お姉さんに不思議がられたが、手を振って返事を返す。それから転送マークに気付いた。まさか転送されて回っているなんて。それに自分がたどり着くなんて。
メールを下までスクロールしてみる。
最新のメッセージは、紳士的で穏やかに優しい言葉が書かれていた。
『偽善という範囲も難しいですから。本当に見せかけだけでなく、そうありたいと願っているなら、それはきっと、本当の善になりますよ』
それぞれの人が、シズクが適当に投げた言葉の意味を考え、返答をして回している。リレーのバトンのように。そこで、自分の元に返ってくる確率など、何パーセントだろうか。
嬉しくて、さみしくて、困惑して、感動して。シズクはしばらく画面から目を離せなかった。
シズクが画面に目を落としている長い間。その間の一瞬に、どこの誰が飛ばしたかわからない風船が、するすると空へ上がっていった。とても短い時間でシズクに影を落としていったが、シズクは気付かなかった。
風船はのぼる。どこまで行くのかわからないけれど、ふくらまされた体から希望の空気が抜けるまで。風が運ぶままに。人は不安定な物に不安を抱くのに、ときどきとても矛盾した行動を起こす。
いるかどうかもわからないものに、自分の夢や幸せを祈ったり。
どこへ行くのかわからないものに、希望を詰め込んだり。
松野シズクが、
瀬川ナオトが、
大和ミコトが、
織川ヒロネが、
工藤ジュンが、
緒方アオイが、
岡名ナツメが、
きっかけも忘れて参加したウェブサークル、『風船メール』。
アドレスを登録すれば、送信も出来るし受信も出来る。ただし相手の指定は出来ず、受信の時もランダムに選ばれるまで待つだけ。届いているかどうかもわからないメールの物語。
それはまるで小学生が空に離した風船レターのようで。返事がくるなんでかけらも可能性を考えず、けれど夢だけ見ていた遊戯のような。
戯れでも、好きなことでも、愚痴だったり、相談だったり、叫びたいことだったり。そのために風船メールがあった。
シズクは、友達とその姉に再三つつかれてあわててケータイを閉じた。閉じる前に、そのメールを保存指定にすることを忘れずに。
返信しよう。送信かもしれない。答えは何を書こう。
わくわくした。ドキドキした。綺麗な絵柄のレターセットを買ったときのように。友達から手紙が届いたときのように。
いつか、ずっと昔に送った花の種をつけた風船レターを思い出す。まさか拾った人がいるなんて思わなかったのに、返事が届いたことがあった。とても嬉しくて、何度も友達や先生と驚きあった。
シズクは笑みをこぼしながらケータイを閉じて、食べかけのサンドイッチを掴んだ。帰ったら絶対に文字を打とうと決めて、シズクは大きく口を開けてサンドイッチにかぶりついた。
風船メール あっぷるピエロ @aasa
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