走馬灯
高麗楼*鶏林書笈
第1話
港を出た船は波をかきわけ走って行った。
致遠は遠ざかる母国を眺めながら不安と期待に胸を膨らませた。
国費留学生に選ばれた彼は、唐に向かって旅立ったのであった。
十二歳になったばかりの、まだ少年である彼が何故遠い異国の地に行こうと思ったのだろうか。
致遠の父親は下級官吏だった。身分制が厳格な新羅では、下級官吏の子息はどんなに頑張ったところで中位以上の官職には就けないのである。
致遠は幼い頃からとても賢かった。文字などもすぐに覚えてしまった。
父親はこのような息子のために師匠を付けて本格的に学問をさせた。
教えたことを海綿が水を吸収する如く身に付ける致遠を師匠はとても愛しんだ。
学問がある程度に達した時、師匠は父親に
「御子息に教えられることは私にはありません。新羅にも御子息を教えられるほどの人物はいないでしょう。しかし、このまま学問を中断するのは惜しいことです。ちょうど政府で唐への留学生を募集しています。この機会に唐へ行き学問を深めては如何でしょう」
と提案した。
「それは良い考えですね」
父親は即座に賛成した。留学すれば帰国後、よい官職にも就くことが出来る、息子の将来のためにもなるのである。
こうした経緯で彼は船上の客となったのであった。
文字通りの順風満帆で幸先がいいなと致遠は思った。何度も唐に往来しているらしき乗客は「こんな波のいい日は珍しい」と感心していた。
ところが、瞻星島近くに来ると船は進まなくなってしまった。間もなく空は真っ暗になり稲妻が走り雷鳴が轟いた。続いて上空から一枚の白絹が降ってきた。そこには次のように記されていた。
日月懸於天而天何懸之耶
「龍神の問い掛けだ。これに答えぬ限り船は進まないだろう」
船員の一人が困惑した口調で言った。
紙を囲んだ乗客たちは、どう答えたらいいのか分からず思案した。
その時、一人の少年が進み出て紙の前に座った。致遠だった。
彼は手にしていた包みの中から筆記具を取り出した。硯で墨をすり終えると、筆を手に取り、白絹の余白に
山水載於地而地何載耶
と一気に書いた。
すると白絹は宙に舞い上がり、そのまま天空に吸い取られていった。
と同時に周囲は明るくなり、船は進み始めた。
どうやら致遠は龍神の問いに正解を出したようである。
「あのような年少な者が、大したものだ」
「ああ、将来が楽しみだな」
船内の人々は口々に致遠を褒めたたえた。だが、彼はただ空を眺め白絹の行方を考えるばかりだった。
その後、船は龍が天を駆けるように進んでいき、あっという間に目的地にたどり着いた。
机上にうつ伏していた孤雲は頭を上げた。書物を読んでいるうちに眠ってしまったようである。
「あれから、もう数十年たったのだな」
先ほど見た夢を思い出しながら、彼は感慨にふけった。
唐に着いたのち、都の国子監で学んだ彼は科挙に合格し、唐の朝廷に出仕した。青少年時代を過ごした唐での思い出が脳裏を走馬灯のようによぎった。
三十歳になる少し前に彼は祖国に帰り、その後、新羅の朝廷にも出仕した。
時の王・真聖女王は彼の能力を高く買い重用したが、他の官僚たちは身分の低い彼を嫌った。女王の期待もあり、彼自身も国のためにと当初は尽力した。だが、周囲の非協力や女王の退位により、彼は宮仕えに失望し朝廷を去った。
孤雲と名乗るようになり、ここ海印寺に隠棲してからも既に長い歳月が経った。
こうして思い返すと、自身の人生はまさに馬が走り去るように、あっという間に過ぎていったように思えた。
こんな短い期間にも関わらず、後世に伝えたいことは多くあった。
彼は筆を取ると紙の上を走らせた。
走馬灯 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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