追放聖女の恋の行方

花散ここ

1

「ディアスさん、わたしと結婚して下さい!」

「お断りします」


 浅緑あさみどり色の瞳が細められる。見目麗しい彼は柔らかくにっこりと微笑むのに、紡ぎ出されるのは拒む言葉。


「断られるのはこれで何回目でしたっけ」

「十回目。大台ですね、そろそろ諦めては?」

「諦めたら聖女の名が廃ります」

「聖女は全く関係ないですし、そもそもあなたはもう聖女ではないでしょう」

「そうでした」


 そんなやりとりが何だか可笑しくて肩を揺らすと、ディアスさんも呆れたように低く笑う。短く整えられた淡紅色の髪が風に揺れる様は、優しい緑の瞳と相俟あいまって春の花みたいだと思う。怒られそうだから、それは口に出さないけれど。



 * * *


 わたし、ルチナはリーベルク王国で神殿に仕える聖女だった。


 聖女は王国全土を覆う結界である”聖域”を維持し、神殿に併設された治療院で傷付いた人々に癒しの力を奮う事を仕事にしている。

 この”聖域”のお陰で国は平和そのもの。魔獣も”聖域”に弾かれて襲ってくる事もないし、水や土壌が常に浄化されている事もあって作物の生育も毎年順調。人も国も富んでいる夢のような国。


 それに皆、甘えていたのだと思う。

 平和を享受し、それが永遠に続いていく事を当たり前に思っている。それは聖女の尽力があっての事だと、いつしか忘れてしまった人もいるようで……。


 わたしが異変を感じたのは二月ふたつき程前の事。聖女になってから十年、二十歳になってすぐの時だった。

 聖女の資質が認められた人は、神殿で聖魔法を鍛えるために修練を積む。しかし神殿に入らずに聖女と認められる貴族子女・・・・が増えたのだ。


 聖女の肩書きを持つ人は増えるのに、神殿で働く聖女は増えない。聖女への予算が掛かるから、と長年勤めた人から順に退職を促される程だった。


 それはおかしいと思ったわたしは、大司祭へ先触れも出さずに直談判をしに行った。

 そしてそこで見てしまったのは、美しい彫刻のテーブルに積まれた大量の金貨。慌てふためく大司祭と、客人の貴族。一目で豪華だと分かる家具や、美術品で飾られた大司祭の執務室。


 金で聖女の肩書きを売っている。

 そう気付いた翌日には、わたしに追放処分が下された。


 神殿、そして国からも追放すると国王陛下からのお触れである。

 聖女の肩書きを売買する事に国王も噛んでいたのか、それとも大司祭が巧いことどうにかやったのか。そんな事はもうどうでも良かった。こんな腐った場所からはもう離れたかったからだ。


 残された同僚の聖女達には申し訳なかったけれど、わたしの話を聞いた聖女達も国を離れると言っていた。残されるのは肩書きばかりの聖女だけれど、わたしが心配する事でもない。そうしたのは他でもない、国や神殿なのだから。



 追放、聖女の身分を剥奪。そんな重い処分を下されたわたしだが、思っていたよりも心は軽く晴れ晴れとした気持ちだった。

 十歳までは孤児院、聖女の素質を見出だされてからは神殿。わたしの世界は今までその二つしかなかった。でもこれからは違う。自分で好きな場所に行けて、様々なものに触れる事が出来るのだ。貯めておいた給金で旅支度を整えたわたしは、意気揚々と”聖域”の外へ一歩を踏み出した。


 淡い虹色の光を初めて越える。向こう側が歪んで見える”聖域”に恐る恐る身を投じると、何とも表現し難い、ぐにゃりとした感覚に身を包まれた。

 ──刹那。

 わたしに向かって振り下ろされる白銀の刃。それを握る、下卑げひた笑みを浮かべる男。


 命を刈り取る為の剣を避ける事など出来なかった。そんな事、今までにした事がなかったから。狭い世界で生きてきたわたしに、”聖域”の中にいたわたしに、そんな危険なんてなかったから。


 このまま死んでしまうのか。


 目を閉じる事さえ出来なかったわたしの前に、不意に春花のような色彩が舞った。風を受ける淡紅色の髪。陽光を受ける銀刃。その長剣は男の腹をたやすく薙ぎ払い、血飛沫の中で斬られた男が悲鳴をあげた。


 その春花のような人は振り返り、わたしに向かって微笑んで見せた。額には薄く汗が光っている。

 ディアス・ヴァルター。わたしの数少ない知人である。


「……ご無事ですか、ルチナ様」

「え、ええ。……ディアスさんがどうしてここに」

「あなたが国を追放になったと聞きまして。何かお力になれる事があればと追いかけてきたんですが、正解だったようですね」


 ディアスさんは剣についた血を払ってから刃を鞘に戻す。その視線はうずくまって息も絶え絶えな男へと向けられていた。


「誰に雇われた?」


 ディアスさんの低い声にも男は反応しない。眉間に皺を寄せたディアスさんは男の顎を爪先で蹴るけれど、男はただ呻くばかりだ。


 わたしはその男の前に膝をつくと、手の中に回復魔法の術式を展開させた。その光が男に見えるよう揺らしてみると、男の視線が追いかけてくる。


「その怪我だと死んでしまうかもしれません。ここは”聖域”の外ですし、魔獣だって跋扈ばっこしているのでしょう? 血の臭いに引き寄せられて、やってくるかもしれませんね」


 男が息を飲んだのが分かった。自分の死を感じ取ったのか、それとも出血量のせいか、顔が青白くなっている。


「お話してくれるなら癒してあげます」

「あなたは本当に聖女ですか。どこでそんな交渉の仕方を学んだんです?」

「ディアスさんは黙ってて下さい。もう聖女じゃないからいいんですよ、多少悪どい事をしたって」


 確かに、と呟くディアスさんの手は剣の柄に掛けられたままだ。

 男はわたしとディアスさん、それからわたしの手の中にある光へと視線を巡らせてから口を開いた。


「……大司祭だ。”聖域”を出たところで、確実に……殺せと……っ」

「あの屑司祭、本当に性根が腐ってますね」


 この男も金でそれを請け負ったんだから、わたしの中では屑認定なのだけど約束は約束だ。生み出していた光を男に落とすと、治療の魔法陣が一瞬で描かれる。その光が収束していくと同時に、男の傷は塞がっていった。


「ルチナ様を殺したと大司祭に報告しろ。遺体は魔獣に喰われて跡形もないと。いいな?」

「あ、ああ。分かった」

「言葉だけで信じないかもしれませんよ、あの屑司祭は。という事で……」


 わたしは腰に下げていた短剣を引き抜くと、髪を紐で適当に束ねてから切り落とした。耳障りな音がして、わたしの紺碧こんぺき色の髪が空に舞う。


「な、っ……!」

「はい、証拠です。ちゃんと報告して下さいね」


 唖然としているディアスさんには構わずに、立ち上がった男へと髪の束を押し付けた。男はそれを懐にしまうと、未だ顔色が悪いままで頷いた。


「……悪かった。治してくれてありがとよ、聖女様」


 もう聖女じゃないんだけど、それを口にはしないでわたしは男を見送った。

 それにしても頭が軽い! 神殿の神官がやかましかったのだ。『髪は魔力を帯びている。術式を使うのに媒介となる髪は切らないように』と。こんな媒体を使わなくても魔法くらい使えるって、いつも内心で思っていた。


「随分思いきりましたね」

「いいんです。長い髪、白い聖衣はもううんざり。白い服なんて二度と着ないわ」


 そう言うわたしの服装は、黒を基調とした動きやすい旅装束である。冒険者も買い物をする店で一式揃えたから、このまま旅をしても違和感なく溶け込めるだろう。


「ディアスさん、ありがとうございました。おかげで助かりました」

「あなたには傷を癒してもらった恩がありますからね」

「聖女の仕事ですから、気にしなくていいんですけど」

「それでも。あなたがいなければ死んでいてもおかしくなかったものですから」


 ディアスさんは冒険者だ。

 一人で気ままに旅をしていた途中、リーベルク王国の近くにある森から溢れた魔獣の波に飲み込まれてしまったのだという。


 あの時の事はわたしも覚えている。

 他の聖女達と一緒に辺境まで出て、運び込まれてくる負傷者をひたすらに癒したあの日の事。そして……治療後のディアスさんの微笑みに撃ち抜かれて、恋に落ちた・・・・・日でもある。


「ルチナ様はこれからどうするんです?」

「このまま旅に出ようかと。国を出るのも初めてですし、折角なので様々なものを見てみたいと思うんです」

「そうですか。……では次の街までご一緒しましょう」

「えぇと……とうとうわたしと結婚する気になったとか?」

「違います」


 玉砕するのはこれで七回目。

 いつもの事だとディアスさんは軽くあしらっている。わたしとしては本気なんだけど、この人はわたしの気持ちに応えてくれる気はないらしい。


「さて、行きましょうか。ルチナ様の行きたいところまで」

「その前に、ルチナ”様”というのはやめて下さい。わたしはもう聖女ではない、ただの旅人なんですから!」


 わたしの声はどこまでも広がる青空へと吸い込まれていくようだった。

 自由の代償に、危険な事も沢山あるだろうけれど。それでもわたしの気持ちは上向いている。

 そんなわたしを見て、ディアスさんはただ笑った。わたしが一目で恋に落ちたのと同じくらい、柔らかくて素敵な笑顔だった。



 * * *


 訪れたのは隣国の辺境の街。

 道中の魔獣は全てディアスさんが斬り伏せてくれて、危険なんて何ひとつなかった。しかしわたし一人だったら、中々危なかったかもしれない。身を守る結界は張れても、攻撃魔法は初級のものしか扱えないのだから。魔法書を買って練習しようと心に決めた。魔力だけはあるから護身に必要なものくらいは使えるようになるだろう。



 辺境の街はとても賑やかだった。

 至るところで演奏会が開かれていて、街中に音楽が響き渡っている。


 二頭立ての馬車が石畳を闊歩する軽快な音まで音色を奏でているようで、わたしは笑みが浮かぶのを抑えられなかった。


「すごい! 綺麗な街ですね!」

「中央には大聖堂があります。ステンドグラスが有名ですから、見に行ってみますか」

「ぜひ!」


 ディアスさんと共に訪れた白亜の大聖堂は、本当にステンドグラスが美しかった。解放されたその場所は信者だけではなく観光客も多く訪れているようだ。


 大きなパイプオルガンが奏でる荘厳な音色に、胸がいっぱいになるようで、わたしは浮かぶ涙をこっそりと拭った。隣に座るディアスさんには、もしかしたら気付かれていたかもしれないけれど。


 魔導具店の立ち並ぶ通りを物色したり、初めて屋台で食べ物を買ってみたり。切りっぱなしの髪をお店で整えて貰ったり。

 そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ去って、燃えるような夕陽が遠くの山向こうへと沈んでいく。


 わたしとディアスさんは高台に上って、そんな町並みを眺めていた。

 こうして俯瞰ふかんで見ると、建築物は白壁で纏められているのが分かる。その白が夕陽の赤と金で染め上げられる様は圧巻で、わたしは目を離す事が出来なかった。

 美しい、と一言で表すには足りなくて。でもそれ以上の言葉を足しても蛇足にしかならなくて。

 見上げた空は夜と夕の混ざる不思議な色。細い月が朧に浮かび上がっている。


「……ディアスさん、ありがとうございました。この街まで連れてきてくれて」

「どういたしまして。これからはどうします? この街に住みますか?」

「いいえ。まだ一つ目の街ですもの。この街はとても美しいけれど、わたしはまだ色々なものを見たいんです」


 夕陽に照らされて、ディアスさんの髪が金色に染まる。光を受ける頬が美貌を際立たせてとても綺麗。


「そうですか。では俺もお供しましょう」

「え、実はわたしの事が好きだったとか? だから一緒に居たいんですか?」

「危なっかしくて見ていられないだけですよ」

「と言いながら実は?」

「もっと色気を出してから言ってください。お子様に手を出すほど飢えていません」


 睨んで見せてもディアスさんは低く笑うばかり。

 そんな横顔まで格好いいと思うあたり、わたしも大概だと自分でも思う。


 見下ろす街には灯りが灯り始めている。まるで星空を映した鏡のようだった。



 * * *


 竜車に揺られては町に泊まり、また竜車で移動する。

 乗り合いの竜車に乗るのは初めてで、それも楽しい経験だった。一緒になったおばさまに果物を頂いたり、ディアスさんに見惚れる女の子と一緒になって、彼の事を見つめていたり。ディアスさんには額を小突かれてしまったけれど、視線が鬱陶しいってのは中々に暴言ではないでしょうか。



 そうして辿り着いたのは砂漠の国。

 大きな泉を水源として、それを囲むように街が出来ていた。


 それにしても暑い。陽射しは焼けるように強く、乾いた風が砂を巻き上げている。

 あまりの暑さに襟元を寛げていると、売り子をしていたおねえさんに店の中へと引きずり込まれてしまった。


「こんな格好していたら暑いでしょう。この地方に来たなら、それなりの格好をしないとね」


 悪戯に片目を閉じるおねえさんの可愛さに、わたしは頷く事しか出来なかった。

 そしてあっという間にわたしは着替えさせられていたのである。


 この地方の民族衣装だというそれは、透ける程に薄い生地で作られていた。わたしの髪のような深い青色の布地に金糸で刺繍がされている。

 ゆったりとした裾に向かって広がるズボン。爪先が尖った靴にも細やかな刺繍がされている。

 上衣は肩と腹部が露になって、こんな薄着をしたのは初めてで恥ずかしい気持ちもある。しかしおねえさんに「恥ずかしいと思うから恥ずかしいのよ」と言われては、そういうものかと思ってしまった。膨らんだ袖は手首できゅっと絞られていて、動きやすい。

 それに黒いフード付きのローブを羽織ると、街を歩く人々と同じような服装になった。


「ディアスさん、どうですか?」

「お似合いですよ」

「ありがとうございます。色気たっぷりじゃないですか?」

「衣装はね。色々と足りていません」


 それはわたしも分かっている。


「詰めますか」

「やめなさい」


 軽口にお互いが笑ってしまう。

 聖女だった頃はこんな衣装を着るなんて考えた事もなかった。戒律に厳しい神官が見たら卒倒してしまうかもしれない。


「あなた達、どこから来たの?」

「リーベルクの方からです」

「聖女の王国ね。いま大変なんでしょう?」


 わたしを着替えさせてくれたおねえさんが、煙管から紫煙を吐き出している。

 大変、とは。不思議そうにわたしが首を傾げると、おねえさんも同じように首を傾けた。


「聖なる結界に綻びが出ていて、魔獣が侵入しているとか。あなた達は運のいい時に国を出たかもしれないわね」


 ”聖域”に綻び?

 やっぱり保たなかったんだ。


 分かっていたはずなのに、それは思った以上にわたしの心を突き刺していった。

 何も言葉を返せなくなったわたしの手を、ディアスさんが引いてくれた事だけははっきりと覚えている。



「大丈夫ですか?」

「……ええ。分かって国を出たんですけどね、ちょっと……色々思ってしまいますね」


 ぼんやりとしていたわたしを、ディアスさんが小さな泉の傍に座らせてくれる。この泉は街の中心にある泉と繋がっているようだ。空を映す水鏡に白雲が流れていく。


「追放したのはあの国だ。自業自得です、あなたが気にする事ではない」

「屑司祭も国王も、貴族達がどうなろうといいんです。でも、あの国の人達を思うと割りきれません。一緒に働いていた聖女達がどうなっているのかも……」


 しかしわたしに出来る事もない。追放されたこの身では、リーベルクに足を踏み入れる事さえ許されない。

 小さく溜息をつきながら、わたしは泉へと手を入れた。思ったよりも冷たい水の感覚に一瞬たじろいてしまう。濡れた手を引き抜こうとした時だった。


「……え?」


 泉が光を放つ。

 踊るように飛沫が舞い、まるで噴水のように水が溢れていく。


「奇跡だ!」

「水が溢れているぞ!」


 人々が集まってくる中を、ディアスさんに手を引かれてわたしは裏路地へと駆け込んだ。

 未だ濡れた手をぎゅっと握りしめられて、わたしはディアスさんの顔を見上げた。


「……聖女の祝福、ですね」


 困ったようにディアスさんが笑って、きっとわたしも同じような表情をしていたと思う。

 追放されても、身分を剥奪されても、わたしは──聖女なんだ。



 * * *


 次の国をずっと行けば、海へと辿り着けるらしい。

 砂漠の国から次の国へ。その国境線上にある街まで竜車で訪れたわたし達は、のんびりと歩いていた。


 どちらもリーベルクの事には触れない。聖女の祝福の事にも触れない。


「そういえばディアスさんはどちらのご出身で?」

「冬の国ですよ。雪しかない厳しい場所です」

「雪! いいですねぇ、一度行ってみたいです」

「来たらいいじゃないですか。この時期なら少しは雪も落ち着いているでしょうし」

「それはディアスさんのお嫁さんとして?」

「観光です」

「なんだ、残念」


 可笑しそうに笑うと、ディアスさんがわたしの頭をぽんと撫でる。

 応えてくれる気がないのに、どうしてそんなに優しい眼差しを向けてくれるのか。わたしといつまで一緒に居てくれるのか。それを思うと胸が苦しい。


「ルチナ様!」


 不意に掛けられた声に足を止める。一気に警戒心を増したディアスさんがわたしをその背に隠してくれた。

 ”様”付けでわたしを呼ぶ人なんて……とディアスさんの背からそっと覗き込むと、リーベルク王国の紋章を付けた三人の男の人がいた。

 一人は兵士、一人は魔導師、そしてもう一人は見たことがある──辺境伯のご令息だ。


「やっと見つけました。ご無事でよかった……!」


 往来にも関わらず、三人は勢いよくその場に跪く。

 側を歩いていた人達が一斉に離れていくけれど、好奇の視線は向けられたままだ。


「どうかリーベルクへお戻り下さい。あなたの力が必要なのです」


 ご令息の声は悲痛に満ちていた。

 ”聖域”が破られるような事があれば、一番に被害を受けるのは辺境の地だ。きっといま大変な思いをしているのだろう。


「彼女はいわれのない罪にて追放された。しかも大司祭が放った刺客に命も狙われたんだぞ。そんな彼女に戻れというのか」

「大司祭は捕らえられている。その罪を明らかにする為にも、国の為にもルチナ様のお力が必要なんだ」


 冷たいディアスさんの声にも怯まずに、ご令息は声を張る。

 その後ろでは兵士と魔導師も懇願するような視線をわたしへと向けていた。


「あの……聖女達はどうしていますか」

「”聖域”を維持する為に手を尽くしてくれていますが、魔力切れを起こしている方も多く……”聖域”はもう保たないでしょう」


 あの優しい同僚達は逃げなかったのか。

 国を守る為に、聖女の勤めを果たそうとしたのか。


「彼女は戻らない。行きましょう、ルチナ」


 ディアスさんがわたしの腕を掴み、その場を離れようとする。そんなわたしの逆腕をご令息が掴んだ。


「お願いです、ルチナ様」


 わたしが何かを言うよりも早く、その手はディアスさんによって振りほどかれた。わたしを抱き上げたディアスさんは勢いよく駆け出して、縦横無尽に裏路地を走り抜けていく。

 こんなにも彼と触れ合うのは初めてなのに、わたしの心が浮かれる事はなかった。先程のご令息の言葉が、頭の中をぐるぐると巡るばかり。拳を強く握り直すと、カサリと紙が擦れる音がした。



 翌日、周囲を警戒しながらもわたし達は街に出ていた。旅支度を整える為だ。

 冬の国はとても寒いから、とディアスさんが微笑んでいる。その微笑みに救われて、支えられてきた。でも彼はどんな思いで、わたしに笑いかけてくれるのだろう。


「ルチナ、これはどうですか」

「……旅支度では?」


 わたしが不思議そうな声を出しているのは、ディアスさんの手に握られているのが髪飾りだからだ。淡いピンクの大輪の花。春を思わせる優しい色合いだ。


「短い髪にはきっとこういうのが似合いますよ」


 わたしの問いには答えずに、その花をわたしの髪に飾ってくれる。青い髪に咲く花飾りは確かに良く似合っていると、自分でも思う。

 満足そうに笑ったディアスさんは手早く会計を済ませてしまった。


「それは俺からの贈り物です」

「求婚の?」

「ただ似合うと思ってですよ」


 何度したかも分からないやりとりなのに、胸が苦しい。


「ふふ、ありがとうございます。大事にしますね」


 そっと髪飾りに触れると、指先に熱が灯ったような錯覚さえ感じるほどだ。嬉しくて、幸せで、少し悲しい。


「さて、旅装を一新しましょうか。厚着をしないと、冬の国に辿り着く前に遭難してしまいますからね」

「いえ、ここでお別れです」


 わたしの言葉に、ディアスさんの顔から表情が消えた。

 代わりにわたしは笑って見せた。


「わたしは国に戻ります」

「あなたがそこまでする理由はない。”聖域”が消えても国が滅ぶわけじゃないんだ。まだ見ていないものが沢山あるだろ。俺はあなたにまだ──」

「──わたしは聖女だから。それが理由です」


 ディアスさんの顔が歪む。

 目の奥が熱くて声が震えそうになる。それを押し殺しながら、わたしは笑った。


「ありがとう、ディアスさん。この思い出があれば、この先に何があっても頑張れると思えたんです」

「俺はそんな為にあなたと一緒にいたわけじゃない。思い出作りなんかじゃ……!」

「さよなら。……大好きでした」


 隠し持っていたを強く握りしめる。

 昨日、辺境伯のご令息から密かに渡されていた、転移陣を記した魔符だ。魔力を流したそれは魔法陣を発動させて、光が溢れた。その光に飲み込まれたわたしは、辺境伯子息達と合流して、国へと戻る事になった。


 最後に見たディアスさんは悲痛な顔をしていて……そんな顔をさせたのが自分だという事に、胸が苦しい。

 胸の奥が軋む。痛いと、寂しいと心が叫ぶ。

 本当はずっと一緒に居たいけれど、この恋は叶わない。別れが少し早くなった、ただそれだけ。

 そう、それだけ。



 * * *


 リーベルク王国に張られた”聖域”は今にも崩れてしまいそうな程に脆くなってしまっていた。綻びも多く、小さな穴が大きくなってしまうのも時間の問題か。


 魔力だけは人よりも多かったわたしが抜けた事で、維持するのも大変だった事だろう。

 それなのに残っていた聖女達は、わたしが戻ってきた事を叱責したのだ。折角外に出たのにどうして戻ってきたのだと。自分達も魔力切れで今にも倒れそうになりながらだ。


 彼女達と協力して、”聖域”を張り直す。虹色の光が溢れて”聖域”がいつもの力を取り戻す。

 神官や、王宮から来ていた魔導師や兵士達は大喜びをしていたけれど……この国はいびつだ。沸き上がってくる気持ち悪さに、吐き気がした。



 翌日、王城へと呼び出されたわたしは、旅装のまま向かった。神殿の神官は渋い顔をしていたけれど「わたしはもう聖女じゃないですし」と言えば、黙るしかなかったようだ。

 国に戻ってはきたけれど、追放刑や身分剥奪が撤回されたわけではない。まぁ……この呼び出しは、それに関する話になるんだろうけれど。


 案内された謁見の間。

 灰褐色の壁には赤布に金糸で鷹の紋章が刺繍されたタペストリーが飾られている。その王家の紋章を背にした玉座に座るのは、国王陛下。白く豊かな髪には権威の象徴である冠が載せられている。


「聖女ルチナよ、此度の件ではそなたに辛い思いをさせてしまった。聖女の力を騙り、民より寄付金を奪い取る悪党だったとの報告を真に受けて、追放刑を承認してしまったのは王である私の落ち度だ。謝罪をし、出来うる限りの償いをしよう」


 跪いたまま、わたしはその言葉を受け入れた。

 

 広間には国王陛下の他には文官らしき人、それから王の身を守る兵士が並んでいる。

 壁側に立っているのは辺境伯。疲れた顔をしているのは、やはり魔獣の襲撃のせいかもしれない。

 それから……両手両足に枷をつけられた、大司祭の姿もあった。


「ルチナ様、あなたが戻って下さったおかげで”聖域”は保たれました。辺境に生きる民の命も救われた事、本当にお礼を申し上げます」


 辺境伯が頭を下げる。

 その言葉に小さく頷くも、わたしは胸の奥に燻るもやっとした感情が気持ち悪くて仕方なかった。


「陛下、恐れながら発言をしても宜しいでしょうか」

「構わぬ。好きに話してよい」


 片手を挙げて発言の許可を求めると、穏和な笑みと共に陛下が頷く。


「ありがとうございます。……わたしは”聖域”を張る手伝いをしたに過ぎません。称賛されるべきは”聖域”を保っていた聖女達です。わたしではありません」

「うむ。聖女達にも報奨を取らせよう」

「それから……不敬を承知で、聖女の立場から申し上げます」


 一度言葉を切ったわたしは、深呼吸を繰り返した。

 どうせ追放された身だ。恐れる事はない。


「わたしはこの国を離れてから、様々な街を見て参りました。当然、”聖域”などない国です。魔獣の襲撃もありますし、土壌や水が豊かなところばかりでない場所もありました。しかしその街の人達は、無いものを別のもので補うなど工夫をしながら生活を豊かにしています。”聖域”に頼らずとも、国は成り立つのです。

 もしかしたら、聖女の力が急に失われるような事があるかもしれません。未来永劫変わらない事などありえない。ひとつの力に頼りすぎる事など、本来ならばあってはならないのではないでしょうか」


 わたしの拙い言葉にも、陛下は幾度も頷きを返してくれる。その瞳にはわたしを蔑むような色はなく、どこまでも真摯な眼差しだった。


「そなたの言う事は尤もだ。私も今回の件で、この国が”聖域”にどれだけ依存していたのかを思い知らされた。だが今すぐに”聖域”を無くすのは無理だという事も承知してほしい。国民の理解を得るにも時間が掛かるだろう。しかし”聖域”無くとも成り立つ国を、というのはこれから考えていかなければならない事であるな」


 広間に集まる人の中には難しい顔をしている人もいる。それはそうだろう、豊かな暮らしを手放す事は難しい。だが、聖女達に依存するこの国の歪さをいつか理解してくれたらいいと願う。


「そなたに下された処分は全て取り消そう。また聖女として、勤めを果たしてくれるだろうか。”聖域”の在り方について、そなたを含めた聖女達の意見を聞いていかなければならぬ」

「……承知致しました」


 こうなるかもしれないと、予測はしていた。国に戻ると決めた時点で覚悟していた事だ。

 また狭い世界がわたしの全てになるだろうけれど、きっと今までとは違う。


「それから……大司祭の地位にあったアロイスは処刑される事になるであろう。聖女の身分を売買した罪は重い。貴族も処分を受ける事になるが、それも重いものになる」

「そう、ですか……」


 驚く程になんの感情も浮かんでこなかった。

 枷を嵌められて項垂れているその姿を見て、哀れむ気持ちも爽快な気持ちもない。


 ふと、大司祭が顔を上げた。落ち窪んだ瞳にはぎらりと憎悪の光が宿っている。


「……ルチナ、お前のせいだ」


 掠れた声は怨嗟の響き。

 ぞくりと背筋が震えた。立ち上がったわたしは、一歩後ずさる。それを見ていた兵士も大司祭の枷に繋がれた鎖を強く引くが──大司祭が自分の口に手を入れるのが早かった。

 唾液まみれの濡れた紙に光が灯る。それが魔符だと気付いた時には、黒い炎がわたしに襲い掛かってこようとしていた。


 短くなった髪が熱波に揺れる。

 人の顔を模した炎が、わたしを飲み込もうと大きな口を開く。その顔が愉悦に歪む。


 まるで時間の流れが変わったかのように、兵士や辺境伯がこちらに向かってくるのがひどく遅く見える。


 その瞬間、光の奔流と共に春花が舞った。

 銀刃が炎を切り裂く。耳障りな悲鳴を残して炎が消える。


 揺れる淡紅色の髪。振り返ったその人は、浅緑色の瞳に安堵の色を宿していた。


「……あなたは本当に、目の離せない人ですね」


 ディアスさんは剣を片手に持ったまま、逆手でわたしの事を抱き締めると、深い息を吐いた。とくんとくんと伝わる鼓動が早い。疲れたように呼吸が乱れている。

 どうして彼がここにいるのか、とか。助かった安心感だとか。色々な感情が胸の中で騒がしい。それでも再び会えた嬉しさに、わたしはディアスさんの背に腕を回した。


 大司祭を捕らえる怒号が、どこか遠くで聞こえるようだった。



 * * *


「ディアスさんはどうやって転移して来たんですか?」


 あの後、神殿に移動したわたし達は中庭にいた。花壇で咲き誇る花達が、春風を受けて心地よさげに揺れている。


「その髪飾りに俺の魔力を印付けておいたんです。雪道を進む中で遭難した時に探しやすいようにと付けたものなんですが」


 ディアスさんが贈ってくれた花飾り。なんとなくそれに触れてみたけれど、魔力で印が付けられていたなんてちっとも気付かなかった。


「あとは転移魔法を使える魔導師を探して、この国に戻ってきたってわけです」

「どうして……? あのまま進めば故郷だって近かったのに。来てくれたおかげでわたしは助かりましたけど、でもディアスさんが戻る理由が……」

「目が離せない、と言ったでしょう」


 わたしの好きな優しい微笑みを浮かべながら、ディアスさんが頬に手を伸ばしてくる。

 ひんやりとした手が、火照った頬に気持ちいい。


「あなたと一緒に過ごす楽しさを知ってしまって、一人だときっと物足りなくなりそうなんです」

「えぇと……わたしが勘違いする前に、そういう言い方はやめましょう。……わたしの気持ちと、ディアスさんの気持ちの温度が違うのはもう知っていますから」


 向けられる眼差しが、声色が優しくて。泣きたくなるのを堪えて、わたしは笑って見せた。何かに縋りたくて、自分の腕を抱きながら。


「もう、恋を追いかけるのはやめたんです」

「俺が狡いというのは自覚していますが、あなたも大概だ。あれだけ俺の気持ちを掻き回しておいて、自分だけ気持ちにけりをつけたとでも? あなたが俺から逃げるというなら、今度は俺が追いかけるだけだ」


 わたしの腕を両手で掴んだディアスさんが、真剣な顔でわたしを見つめる。浅緑色の瞳が色濃くて、今にも溺れてしまいそう。


「結婚しましょう。あなたが聖女じゃなくなったら、また一緒に旅をしましょう」

「本気ですか。あんなにわたしが口説いても靡かなかったのに?」

「あなたのあれ・・は口説きじゃなくて求婚です。あんなに求められて絆されないのが無理でしょう。元々、俺はあなたに惚れているんだから」

「ちょっと待って。初耳です」

「好きでもない人を追いかけていくと思いますか。一緒に旅をすると思いますか」

「もっと早くに言ってくれたら良かったのに!」


 心からの叫びに、ディアスさんは可笑しそうに肩を揺らす。

 その腕に強く抱き込まれると、紡ぐはずだった文句も春風に消えてしまったようだ。誘惑に抗えず、わたしは両腕を背中に回した。触れあう温もりにくらりと眩暈がする。


「わたし、この国でも行った事がないところが沢山あるんです。連れていってくれますか?」

「もちろん。あなたが望むならどこへでも」


 触れ合うままに顔を上げると、笑みを浮かべるディアスさんと視線が重なる。その瞳には確かにわたしへの想いが宿っているのが感じられて、わたしの鼓動は早くなるばかり。


 ディアスさんの唇が額に触れる。それから耳、頬へと滑り落ちてくる温もりがくすぐったいのに愛しくて、拒む事なんて出来るわけがない。


 花嵐がわたし達を覆い隠す。風に遊ばれる花びらが芳香と共に舞い上がる。

 離れた唇の温もりが既に恋しいけれど、出来なかった呼吸を取り戻すように浅く短い息を吐いた。


 幸せを形にしたら、きっとこんな春の色。

 春の人はわたしを見つめて、優しく微笑んだ。色に溢れた花風の中はわたし達だけの世界だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

追放聖女の恋の行方 花散ここ @rainless

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ