似た者どうし

秋本そら

短編小説「似た者どうし」

 ふと確認すると、時刻は夜の十一時過ぎになっていた。今日はここまでにしておこう、と手元の本にしおりを挟む。あまりに引き込まれる内容だったから、少々夢中になりすぎたらしい。明日の朝はパートタイムの仕事があるから、早起きしなければならないのに。

 うんと一つ伸びをしたとき、ダイニングキッチンの引き戸がガラガラと音を立てて開いた。

「あ、お母さん。まだ起きてたんだ」

「まあね、本読んでたらこんな時間になっちゃったのよ。ちかはどうしたの?」

「喉乾いたから、なんか飲もうと思ってさ」

 言いながら部屋に入ってきたちかは、戸棚からマグカップを取り出す。そして、手を伸ばした先は、インスタントコーヒーの瓶。

「この時間からそれ飲むの? やめときなさいよ」

 思わず口を挟むと、ちかは分かりやすく口を尖らせる。

「大丈夫だって、ちゃんと遅刻しないように起きるからさ」

「そういう問題じゃないの。寝不足で実習先の人に迷惑をかけたらどうするの?」

 ちかの細い垂れ目に、諦めの色が浮かんだ。

「……分かった、やめとく。紅茶にしようかな」

「いいんじゃない? あ、ついでに私の分も淹れてよ」

「えー? まあ、いいけど」

 ありがと、と礼を言いながら、壁にかけられたカレンダーを見る。明日の日付につけられた赤丸と、『教育実習初日!』の文字。ちかが学校教員を目指し始めてから、もう五年は経つだろうか。

「……やっぱり不思議よね」

「え、なにが?」

 湯を沸かしているちかが、胸ほどまである黒髪を揺らして振り返る。丸く見開かれた垂れ目には、純粋な疑問の色しかなかった。

「ちかが教員を目指してることよ。しかも、小学校の」

 ――小学校の教員には、あまりいい印象がない。

 だって。

「あのとき、先生方はちかのことを助けてくれなかったでしょう」

「……『あのとき』って?」

 見当がつかないと言いたげな表情。あのときのことは、私もちかも忘れるわけがない、と思っていたのに。

「まさか覚えてないの? ほら、瀬理奈ちゃんとのことよ」

「ああ!」

 ちゃんと記憶には残っていたようで、名前を出した瞬間、ちかは納得したような声をあげた。「懐かしいなあ」と微笑んでいるけれど、あの出来事は、決して笑い事ではない。

「ちか、あのときなにされたか覚えてる?」

「なんとなくはね。荷物持ちさせられたり、当時仲良しだった杏子と遊ばせてくれなかったり」

 そう言うちかは、コンロの火を止め、お湯をマグカップに注いでいる。こちらに背を向けていてどんな表情をしているかは見えないけれど、声は苦笑いしていた。

「はい、紅茶」

「ありがとう」

 出来たばかりで白くもわもわとした湯気をあげるそれを、すぐに飲む気にはなれなかった。コースターの上にしばらく置いておくことにして、ティーバッグをなんとなく上下に揺らす。ちかが椅子に腰を下ろしたところで、口を開いた。

「――で、瀬理奈ちゃんの話をしてたんだっけ。当時は毎日泣きながらちかが帰ってきたから、もうどうにかしなきゃって思って、先生に頼ったりもしたんだけど」

「きっかけは小三のとき、私のクラスに瀬理奈ちゃんが転校してきたことだったよね。当時は仲良くなれない子はいないと思い込んでたからさ、瀬理奈ちゃんとも仲良くなろう! って意気込んでたな」

 ……なんかはぐらかされた気がする。

 でも、ちかの言う通りだった。

『あのね、今日、転校生の子が来たの! 宮川瀬理奈ちゃんっていうんだって』

 あれはたしか、瀬理奈ちゃんとちかが出会った日。いきいきとそう語るちかの目はとても嬉しそうで、まさかこの後に辛い出来事が待っているなんて、私もちかも、思っていなかった。

『瀬理奈ちゃん、ここの近くに住んでるって言ってたから、杏子ちゃんも誘って一緒に遊んでくる』

 このときは『仲良くなれるといいわね』『いってらっしゃい、気を付けてね』とちかを笑顔で送り出したのだけど。

 そして、最初の数日は何事もなく過ぎて行ったのだけど。

 そんな日々は、突然終わりを迎えたのだ。

「最初は杏子ちゃんと遊ばせてくれなくなったんだっけ?」

「そう。『今までちかは杏子と二年間遊んできたんだから、今度はうちが杏子と二年間遊ぶの。だから、ちかは杏子と一緒に遊んじゃダメ』って」

 瀬理奈ちゃんと杏子ちゃんは性格の相性がよかったのか、仲良くなったようだったけれど……ちかとはどうも馬が合わなかったらしく、仲間はずれにし始めたのだ。

「なんでそんなことを言われたのか、分からなくってさ。何回も『これからは三人で遊べばいいじゃん』とか『この先二年間杏子ちゃんと遊べないなんて嫌だよ』『ずるい』って言って。でも、瀬理奈ちゃんは取り合ってくれなかった」

 聞き覚えのある言葉に、どきりとした。

 ちかが仲間外れにされたと聞いたときは本当にびっくりして、どうしたらいいだろうかと私なりに考えて、こんなアドバイスをしたのだ。

『これからは三人で一緒に遊べばいいじゃん、って言ってみたら?』

『うん、そうしてみる』

 そのときは笑顔で、ちかはそう言ったのだけど……私の言葉も、ちかの努力も、結局は無駄に終わってしまった。

 そして状況は、徐々に悪くなっていったのだ。

「あるときは一緒に遊んでくれると思いきや、ただの荷物持ちにされて、遊びに入れてもらえなかったりとかさ。『いつまで持ってればいいの?』って訊いたら『ずっと』って返されて、本当に悲しかったよ」

「そんなこともあったわね。私は『それは遊んでるって言わないし、そんなことをさせる子は友達とは呼べない』って、ちかに言った覚えがあるわ」

 このときからだったと思う。ちかと瀬理奈ちゃんが友達になれないと感じるようになったのは。そして、ちかに『無理に仲良くなる必要はないのよ』と諭すようになったのは。

「お母さんには止められたけど、絶対に友達になるんだ、って頑なだったんだよね、私も。だから、瀬理奈ちゃんに近づくことをやめられなかった。もしかしたら、今日こそは笑いかけてくれるんじゃないか、仲間に入れてくれるんじゃないか……ってさ」

 たしかに、当時のちかはそういう子だった。絶対に理想が現実になると信じて疑わない、ちょっとまっすぐ過ぎる、どこか独りよがりな子。

「……いつだったかしらね、ちかが涙を見せるようになったのは」

「うーん……私は覚えてない。でも『一緒に帰ろう』って誘っても、悪口で返されるようになったのは忘れられないな」

 ああ、そんなこともあった。

『瀬理奈ちゃんに、お前みたいなクズと誰が一緒に帰るかよ、って怒鳴られた……』

 泣きながらそう訴えるちかは、とても苦しそうで。

 ちかのことを慰めた後、冷静になろうと大きく深呼吸を繰り返してから、学校に電話をかけたのだ。

 当時の担任に繋いでもらい、今までのことを、そしてついさっき言われたという言葉のことを伝えた。これで学校側が、担任が動いてくれれば。そう、思った。

 けれど、受話器の向こうの声は、期待に応えてはくれなかった。

 事態は、なにも動かなかったのだ。

 その後も繰り返し電話をかけて、助けを求め続けたにもかかわらず、変化は起こらなかった。私の声を、ちかの苦しみを、ないものとしてみなされたも同然だった。

 それでもまだ、救いはあった。

 進級が近くなったとき、『せめて娘と宮川さんのクラスを別にしてください』と頼み込んだところ、しぶしぶではあったが了承してくれたのだ。

 これで物理的に二人の距離は広がったはずだ。これで状況が少しでも良くなれば――。

 そんな願いは、早々に打ち砕かれてしまった。

「四年生になっても、状況は変わらなかったのよね」

「そうだったね。クラスは変わっちゃったけど、私がずっと瀬理奈ちゃんに近づこうとしていたから、結局変わらなかった……って感じかな」

 そう。物理的な距離は簡単に縮まってしまった。三年生のころに比べたら『ほかのクラスの教室には入ってはいけない』というルールのおかげで一緒に過ごす時間は減ったものの、廊下や昇降口、そして学校外では、簡単に近づくことが出来たのだ。

 ときどき、ふと思い出して考えてしまう。二人をなんとかして引きはがそうとしたことは、本当に正しかったのだろうか、と。

 もしかしたら、ちかの「仲良くなりたい」という思いは、クラスを分けることでさらに強くなってしまったのではないだろうか。そして、瀬理奈ちゃんへのアプローチは続き、瀬理奈ちゃんの嫌がらせもエスカレートしてしまったのでは……。

 いや、クラスが一緒でも、結果は同じだったのかもしれない。

 結局、ちかが近寄ることをやめるか、瀬理奈ちゃんがちかを傷つける行為をやめるかしなければ、ずっと状況は変わらないままだっただろうから。

「あれは四年生のときだったのかな。一緒に遊ぼうよって瀬理奈ちゃんと杏子に声をかけて、仲間に入れてもらえるかと思いきや、突然走って逃げられたの。二人でどっちかの家の中に閉じこもっちゃって、ピンポン押しても『うるさい』『帰れ』って言われたり、無視されたりして。で、ずっと家の前で立ち尽くしてると、二人の楽しそうな声が聞こえてくるんだ。……すっごくみじめで、悲しくて」

「あったわね、そんなこと。防災無線のチャイムが鳴って、ちかが帰ってきたと思ったら、顔が涙でぐしゃぐしゃになってたんだもの。どうしたのって訊いたら、ずっと杏子ちゃんの家の前に立ってたとか、そんな事ばかりで」

 あのとき私は、ずっと泣き続けるちかを抱きしめて撫でながら、怒っていた。

 どうしてちかは、こんなに傷つかなければならないのだろう。

 ちかがされていることは、もはや嫌がらせの域を超えているのではなかろうか。

 そう考えた私がとった行動は、以前と同じだった。瀬理奈ちゃんの担任に今までのことを全て伝えて、事態の改善を願ったのだ。三年次の担任とは違う人だったから、今度こそは、と思ったのだけど……。

「結局、先生への相談も無駄に終わったのよね」

 最後まで、瀬理奈ちゃんの担任は、なにもしなかった。

「ああ、そういえばあの頃のお母さん、よく学校に電話かけてたね」

「どうにかしなきゃって、私も必死だったから」

 まあ、実際には空回りしてばかりだったのだけど。

 ――今でも思う。

 もし三年次の担任や、四年次の瀬理奈ちゃんの担任が、動いてくれていたら。

 そうしたら、ちかの流した涙はもっと、少なかったかもしれないのに。

 あんなに苦しい思いは、しなくて済んだかもしれないのに。

『瀬理奈ちゃん、どうして仲良くなってくれないんだろう……。杏子ちゃんも最近は、ちかとなんか遊ばないんだから、って……』

 そう言って大号泣しながらも、服の袖で乱雑に顔をぬぐい『一緒に遊ぼうよ、って言ってみる』と外へ飛び出していくちかが、自ら傷つきに行くちかが、とても痛々しかった。

「……そういえば、杏子ちゃんは当時、ちかのことをどう思ってたのかしら」

 それは、ふと降ってわいてきた疑問だった。

 結局、瀬理奈ちゃんとの関係は長く続かなかったけれど、杏子ちゃんとは再び仲良くなって、少なくとも小学校卒業までは一緒に出かけたりもしていたのだ。

 つまり、杏子ちゃんは、もしかしたら。

「杏子には、謝られた」

 ちかはそっと、小さなため息を落とす。

「四年のときはほら、瀬理奈ちゃんと違うクラスだったけど、杏子とは同じだったからさ。ひどいことを言われた翌日とか、教室で会うと『昨日はごめん』って、一言だけ言われることとか、たまにだけど、あったよ」

 呆れたような、笑っているような。そんな声と表情をしていた。

「怖かったんだってさ、瀬理奈ちゃんのことが。手紙に書いてあったんだ。『ちかのことを悪く言わないと、あたしまで悪口を言われちゃう』『心の底ではごめんって思ってるから、許して』って」

「ちょっと待って。手紙なんてもらってたの?」

 そんなこと、聞いた事がない。初耳だ。

「うん。持ってこようか?」

 返事を聞くことなく、ちかは席を立ってダイニングキッチンから去っていく。あわてて呼び止めようとした私の声は、届かなかった。

「もう、ちかったら……」

 呟いて、ふと目線を下にやると、そこには紅茶の入ったマグカップが。そういえば、まだ一口も飲んでいなかったっけ。せっかく淹れてもらったのに、と口をつければ、広がったのはしっかりとした渋み。いや、苦みと呼んでもいいかもしれない。冷めていることもあってとんでもなく飲みづらいし、美味しくない。

 やってしまった。ひとまず、ずっと入れたままだったティーバッグを慌てて流しに下げたはいいものの、カップの中身はどうしようか。薄めて温めればなんとかなるか、と水を少し注ぎ、電子レンジで加熱したところで、ちかが戻ってきた。

「これだよ、杏子からの手紙」

 飲みやすい濃さになった紅茶を口にしてから、差し出された封筒を受け取る。パステルカラーを基調としたキャラクターもののそれには、たしかに『いぬいちかさんへ』『ずーとごめんね』『佐藤杏子より』の文字があった。「ずーと」は「ずっと」と書きたかったのだろうか。

「読んでもいい?」

「うん」

 ちかの許可をもらってから、手紙を取り出す。封筒から出てきた便箋には、黒々とした鉛筆の文字がぎっしりと詰まっていた。


 ちかさんへ

 口ではひどいことばかりゆってるけど、こころのそこではごめんねとおもっているから。ゆるして。せりなのゆうとうりにしないとおこられちゃうの。ちかのわるぐちをゆわないと、あたしもわるくゆわれそうだから。

 でも、せりながいっしょにかえりたくないってゆうのは、それはそのひとにいやなことをされたからだとおもうよ。それはなおさないとダメ。ほかの子とあそぶときはたのしそうなのに、あたしたちとあそぶときはくらいかおをするのもよくないよ。

 せりながちかにいやがらせをするのは、ちかがしつこすぎるからだよ。あいてがいやがってることはやっちゃダメ。ちかがいじめられるようになっちゃうから。すこしづつなおしてみてね。


「……これもらった当時はさ、わがままだなあって思ってたんだよ」

 平仮名と誤字だらけの手紙を読み終わったとき、ちかはそんな言葉を口にした。

「そもそも荷物持ちにされたり仲間外れにされるだけだったのに、むこうは『遊んでる』って認識だったのとか、そんなんで楽しめるわけがないのに『暗い顔をするのはやめて』なんて、できるわけがないじゃん、そんなの自己中な考え方じゃん、って」

「たしかにそうよね」

 便箋を見ながら頷いていると、ちかは「でも」と言葉を継いだ。

「今は、わがままだなんて一言で済ませちゃいけない手紙だと思ってる」

 その声が、今までよりも少しだけ重たく聞こえて、顔をあげた。

 ちかは、静かに笑っていた。でもその垂れ目は真剣そのもので、少し怖い。

「高校生の頃……五年前くらいになるのかな。進路で迷ってた時期に、部屋を片付けてたらこれが出てきて、懐かしくなって読み返したんだ」

 こちらに差し出された手。手紙を返してくれということかと思って渡せば、ちかは無言で便箋を見つめ、文章を目で追った。

「やっぱり自分勝手だとは思ったけど、それだけじゃなかった。無理矢理仲良くなろうとした私にも、非があったんだなって。そう、気がついた」

 口元の笑みが、深くなる。

「気が合う人も、合わない人もいて、瀬理奈ちゃんは後者だった――ただそれだけ。なのに、友達になれない人なんていないって信じ込んで、頑なになって、瀬理奈ちゃんの気持ちなんて考えずに付きまとっちゃって。今考えると、そんな独りよがりな人がいたら、嫌がらせの一つや二つはしたくなるよなあって、そう思ったんだよね」

 その言葉はあまりにも衝撃的で、意外だった。まさかちかから、そんな発言が飛び出してくるなんて。

「だからって、嫌がらせをしていい理由にはならないじゃない」

「ならないよ。そんなの、当然じゃん」

 思わず口を挟めば、速攻でツッコミが返ってくる。それに安堵しつつも、相変わらず目が怖いちかに、どう話しかけていいのか分からなくなった。

「でも、やってることはある意味同じだったんだよ。私も、瀬理奈ちゃんが嫌だって言っていたにもかかわらず、ずっと声をかけ続けていたんだから。お互いに、自分のことしか考えてなかったことに、この手紙は気づかせてくれた」

 まあ、遅すぎたんだけどね。そう呟いて、ちかは便箋を封筒にしまい込む。

「だから」

 まっすぐに、ちかが私を見つめてくる。

「私ね、このままで終わりたくないんだ。せっかく気がついたんだから、それを伝えようと思ったの。かつての私たちみたいな児童に」

 ――ああ、そういうことだったのか。

 私は小学校の教員に不信感を抱いていたから、ちかが教育学部に行って教員免許を取りたいと言ったときはかなり驚いたのだけど。

 そうではなかった。

 過去の経験を生かすために、先生になろうとしているのだ。

 ちかのことを、見つめ返す。

 真剣なのには変わりなかったけれど、強い光を宿したその目はもう、怖くなかった。

「……そう。そういうことだったのね」

 一言答えて、ふと時計を見上げた。

「なら、明日の教育実習のためにも、早く寝ないとね。案外時間も経ってるみたいだし」

 私の言葉に、ちかはポケットからスマホを取り出すと「うわ、ほんとだ!」と素っ頓狂な声をあげ、手紙を握りしめて席を立った。

「おやすみ、お母さん」

「おやすみ」

 慌ただしくダイニングキッチンを出ていくちか。残されたのは私と、飲みかけの紅茶。そして、ちか愛用のマグカップだけ。

「まったく、ちかったら。自分が飲んだものくらい片付けなさいよ……」

 残った紅茶を飲み干して、二つのコップを流しで洗う。

「あっ」

 その最中に、一つ思い出した。

「ちかは覚えているかしら、どうしてあの出来事が収まったのか。ちかの担任に相談したら、ようやく対応してくださったこと」

 そう。声を見て見ぬふりをしたのは教員だったが、手を差し伸べてくれたのもまた、教員だった。

『そうだったんですね。今まで全く気付かず、本当にすみません。ちかちゃんや宮川さんと話をしてみます』

 個人面談の際、藁に縋る思いで話をしたあの日。ちかのクラス担任は、本当に申し訳なさそうに、そして真剣に、そう言ってくれたのだ。そして数日後には、ちかが泣きながら帰宅することも、自ら傷つきに行くような行動をすることもなくなった。

 ――ちかの記憶に、あの先生との『話』は残っているのだろうか。

 水切りラックにマグカップを置いて、手を拭いてから、一つ伸びをする。

「……どちらにしろ、今のちかならきっといい教員になるわ。周りのことをよく見れるようになったし、独りよがりでもなくなったし」

 昔は少し思い込みが激しくて、自分のことしか目に入ってないようだったのに。

「ちかを変えたのは、瀬理奈ちゃんやあの手紙だったのかもしれないわね」

 あの子のひどい仕打ちは許せないけれど、その点に関してだけは感謝してもいいのかもしれない。

 さて、寝よう。明日は朝からパートタイムの仕事があるのだ、私も寝坊なんてできない。

 ふわり。大きなあくびを一つして……消灯。

 闇に飲まれたダイニングキッチンを、後にした。








 この小説は、私の経験をもとに書いたものです。

 実際に無視をされたり、仲間外れをされたりという記憶は、もうかなり薄れてしまってはいますが、いまだに私の中に残っています。この小説を書きながら思い出したこともありました。

 様々なアドバイスをいただきながらこの小説を書くことで、私はようやく、あの頃の自分を客観視できたような気がします。ある意味この小説は、過去を昇華するためのものでした。


 あの日々がなかったら。彼女らがいなければ。

 私は自分の自分勝手で独りよがりな一面のことを、知ることができなかったのかもしれません。


 まだ、あの日々に、彼女らに、素直に「ありがとう」とは言えません。

 けれど、いつか心の底から、感謝できる日が来るように。


 中川あき

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