第一話

01: SSS - 01

 全てを失くした、と思っていた頃のことをサイラスはまだかろうじて覚えている。

 ソールズベリ子爵家の嫡男として生まれ、自由と安全と栄華を保証された日々だった。厳格だが筋の通った父。貞淑でいつでも優しかった母。そんな二人の人柄によるものなのだろう。使用人たちも皆、気さくで思いやりがあって、サイラスのことを慈しんでくれた。

 あの頃の記憶は優しくて、けれど思い出すと切なさが胸を締め付ける。

 幸せ、だったのだろう。満ち足りていて穏やかで柔らかな時間だった。

 あの夜、あの大火の夜さえ来なければサイラスはきっと幸福の尊さを知ることもなく、ただ漫然と人生を過ごしていただろう。サイラスが九つになった年の春、ソールズベリ子爵家の屋敷、財貨、その全てを飲み込んだ炎の向こうに父母と別離した。父にも母にも兄弟はいない。サイラスが子爵家を継ぐのが道理だったが、どこからか話を聞きつけた縁戚を名乗る男がよくわからないうちに子爵家を相続した。屋敷の焼け跡から出てきた金庫――ソールズベリ子爵家の当主たる証を仕舞った小箱を開ける鍵を持っていた、というのが決め手だった。サイラスはそんなものがあることすら知らない。サイラスが全てを失うことが決まるのにそれほど時間は必要ではなかった。

 親も家も、財産も人脈も。全てを失ってサイラスは市井に放り出された。

 そのことを呪うだとか、嘆くだとか、振り返って固執するだとか、そういう類の気持ちはもうない。

 全てを失ったと思った。だからこそ、サイラスは今、自由に学者の道を歩いている。

 シジェドでは幾つかの地方都市に王立学院がある。主には貴族の子弟の為の学習院だが、建前上、平民の為の枠が用意されていた。一定以上の学力があれば入学試験を受けられる。合格ラインよりも更に高く設定された点数を越えれば奨学生として無料で講義を受ける権利を与えられる。家格も財力も関係がない。ただ、純粋に学問に向いていればその長所を伸ばしてくれる。

 王都・ジギズムントには思い出があまりにもたくさん残りすぎていて、自分の気持ちを整理出来なかったから、サイラスは縁戚が僅かの同情で与えてくれた荷物をまとめて学術都市・ソラネンへと移住した。ソラネンの王立学院の入学試験は文句なしの満点合格だ。当然、奨学生に認定されて衣食住と学ぶ権利を保障された。

 それが今から十年前の出来ごとだ。

 それ以来、サイラスはソラネンで天才学者の道をひたすらに歩いている。


「それで? 今度はいったいどこの依頼を受けてきたのだ、リアム」


 そんなサイラスにもいつの間にか友人と呼べる間柄の相手がいた。

 リアム――ウィリアム・ハーディという名の北国から流れてきた年若い傭兵は年にふた月ほどソラネンの街に滞在するのが通例だ。旅をしているのか、と問うとこの国を巡回して人助けをするのが趣味だと断言したから、サイラスはこのお人好しの傭兵と交流を持つことを容れた。ただ、リアムは本当にふた月きっかりしかソラネンの街に滞在しない。まるで暦のような男だった。

 サイラスが今朝早くに王立学院の研究室に顔を出すと、部屋のあるじよりも先にやってきていたらしいリアムが廊下で座っている。リアムが来たということは今年もまたサイラスの慈善活動が始まる、ということでもある。

 詳しいことを聞くのに廊下というのも物悲しい。

 サイラスは研究室の中へリアムを招いた。

 書架の森と化しているサイラスの研究室にも応接という概念が僅かに残っている。小さなテーブルが一つと簡易の椅子が二脚。ただ、サイラスが暦をきちんと確認していなかったから、応接セットの上にも書類が山積みになっている。それらを適当な――と言いつつ後で復元可能な位置に移動させてリアムに煮豆茶を出した。サイラスは煮豆茶があまり得意ではないのだが、シジェド国民の大半を占めるアルカソリオ系民族はこの茶がことのほか好きらしい。学会などで他地方を訪れるともれなく煮豆茶が振る舞われた。そういう一般常識を踏襲して出した茶をリアムは苦笑いで受け取る。曰く、お前って本当に律儀なやつだな、だろう。

 自分の分の香草茶を淹れながら、リアムの今年最初の慈善事業について尋ねると彼は闊達に笑って答えた。


「地下水道の定期点検、だ」


 ソラネンの地下には広大な地下水道が広がっている。地下水道はソラネンの南側を流れる河川へと合流するまでにある程度の浄化処置が行われるが、それでも地下には様々な生き物やモンスターたちが跋扈する。ある程度の間隔で定期点検を行う必要があった。

 リアムは今日、それを引き受けてきたのだと言う。


「ということは害虫駆除か防鼠処置ということか。ならばお前と私だけでも十分だろう」

「セイならそう言うと思った」

「買い被ってくれるな。私は、お前の頼みを聞いているだけで騎士ギルドからの依頼なら引き受けん」

「でも最終的には騎士ギルドへ報告に行くまで付き合ってくれるだろ?」

「回収した素材がほしいだけだ」


 地下水道に跋扈する有害な生物は大まかにわけて三種類だ。

 害虫の類、害獣の類、それから無機物系のモンスター。この三種類の生物からは学術研究に必要な素材が採取出来る。ただし、採取した素材を持ち帰るには派兵元のギルドに習得申請をしなければならないという決まりがあったから、一部の商人たちは素材を高額で取引しようとした。もちろん、善良な大半の商人は適正価格で露店に並べているが、サイラスの研究費にも上限があり、素材の全てを商人から買っていたのでは遠からず破綻する。

 だから。

 素材を直接回収出来る地下水道の定期点検は、サイラスにとっても決して損な提案ではないのだ。


「で? いつ行ける? 俺はもういつでもいいけど」


 今すぐでもいいし、昼飯を食ってからでもいい。サイラスの都合が付くまで待つ、と言外にあってリアムのこういった自己中心的な優しさのことが嫌いではないとサイラスは再認識する。

 サイラスの職業は学者だ。古の魔術の解読と再構築を専攻としており、駆け出しの魔術師よりもよほど魔術を使いこなしているという自負がある。地下水道に赴くのに必要な術式は頭の中ですぐに正答が出る。ただ、魔術と言うのは媒介を必要とする。その素材がこの部屋の中の備蓄では不足していた。

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