水平線からの侵略者 ー東禍論ー

つねあり

第1話 豊葦津国の歴史を紐解く

 神様も知らない物語。


 地球が誕生して約46億年。これは誰もが知っている。


 しかし、今の地球が49回目に誕生したことは誰も知らない。


 これから語るお話は、24回目に誕生した地球で起きた出来事である。


 この物語を知る者。語る者。最早、どこにも存在はしていないが、この物語は紛れもない事実であり、消えて行った歴史である。


 ・・・・・・・・・・・・・・・



 国名 豊葦津とよあしつ


 全長 約3046km(南北・約2687km  東西・約3046km)

 面積 約35万7000平方km

 人口 およそ5088万人   (*49回目に誕生した地球の単位で表示)


 東西南北に約3000kmずつ伸びた長い国土を持ち、5852からなる島々が、まるで弓なりのような形で列をなし形成されている。


 その形は、勇ましく、いななくく馬のように見える。


 中王大陸の東の端に位置し、四方を海に囲まれ、国土の真ん中を山々が背骨のように連なり、木々は繁り、澄んだ水が湧き、海の幸・山の幸にも恵まれ、四つの季節が穏やかに折々と巡る自然豊かな国。


 国としての歴史は3000年。


 豊葦津を統べるの者の名は “天津御子あまつのみこ


 天津御子の一族が代々、この国を統治し、現上人げんじょうびとの天津御子で119代目を数え、3000年もの長き間、絶えることなく血統が今へと受け継がれ、この国の、民の心の拠り所として存在している。


 豊葦津の民はそのことを誇りに思い、天津御子もそんな民を誇りに思っている。


 民は敬愛の意味を込めて、天津御子を“御子みこ様”と呼ぶ。


 天津御子と民の関係は良好で、それはまるで親子のように、お互いを信じ、敬い、労わりながら3000年間、変わることなく続いている。


 何故、3000年もの長き間、良好な関係を築き上げられてこれたのか?

 それは、この国の風土にあった。


 まずは、自然の恵み。

 この豊かな恵みを天津御子の一族が独占することはなかった。有り余るほどの恵みがあったので独占する必要もなく、皆で分け合い育ててきた。


 そして、四方を囲む海。

 四方を囲む潮の流れが、どういうわけかとても複雑で、出航する際には何も問題がないのだが、入航する際はとても難しく、他の国の者では到底、入って来れない自然要塞となっているので、歴史上、他の国から侵略されたことがなく、争いをする必要がなかった。


 天津御子の一族が統べるよりも前の時代、約一万年以上も前から同じ民族が連綿と暮らしてきた長き歴史があり、それ故、この国の民は争いを好まず、話し合いで解決しようとする保守的な性格となる。


 その風土と歴史の上で、天津御子と民の関係が築き上げられたきた。


 これは余談だが、豊葦津の民は保守的という割には、好奇心が旺盛で新し物好き。何でも自分たちで作ってしまい、作るだけじゃなく、それをより良いものもにしてしまう器用さも兼ね備えていた。それに豊葦津は自然に恵まれている分、災害も多い。幾度となく被害に合うのだが、民は自然を恨むことなく、それらを受け入れる。


 豊葦津の民の順応性は高い。


 天津御子と民の結び付きは強い。


 約2500年前までは天津御子の一族がまつりごと”を司っていたが、一族同士の争いが絶えず、多くの血を流してきた歴史があった。

それを嘆いた時の天津御子・照持てるじが祠に岩の戸を立て隠れてしまう。


 世にいう「お隠れの岩戸」である。


 それ以降、天津御子の一族は政を家臣に譲り、権威だけを持つ存在となる。

 しかし、為政者たちは天津御子を無視することは出来なかった。

 もし、天津御子をないがしろにしたり、追放しようものなら民が黙ってはいない。親を助けない子がいないように決して為政者を許さない。

 為政者は滞りなく政をするためには天津御子の威光にすがるしかなく、民も天津御子が認めた為政者を認め、従った。


 無論、3000年もあるのだから、戦・動乱・飢饉・疫病、色々あった。栄枯盛衰、たくさんの為政者が現れ、消え行くが、天津御子は常に民の、この国の中心にあり続けた。


 天津御子と民の結ぶ付きが強い理由がもうひとつある。


櫛稲田くしいなだ”である。


 櫛稲田とはこの国の主食となる穀物で、暖かい頃に稲を植え、暑さが盛んな頃に大きく育ち、寒くなる前に収穫する。櫛稲田は黄金色の実をつける。その姿からその昔は“黄金実こがねみ”と言われていた。(諸説あり)


櫛稲田を一緒に携え、天上から降臨し、豊葦津を開闢したのが天津御子の祖と言い伝えられている。これはもちろん神代の話だが、豊葦津の民はその言い伝えを信じ、櫛稲田を命のように育ててきた。


 豊葦津の民にとって櫛稲田は神代から続く、神聖で有難い、神様からの贈り物。


 そして、その櫛稲田から宗教が生まれる。


 それが“高御神たかむかみ”である。


 自然崇拝・先祖崇拝を核とした宗教で、日々の暮らしに感謝し、慎ましく生きることを良しとするものであるのだが、一つ、他の国と違うところがある。

 それは経典や戒律がないこと。民の暮らしの中に溶け込んでいるものなので、他の国に例えて言うなら、宗教にということであって、豊葦津の民は高御神を宗教とは思っていない。宗教という概念そのものがない。


 その高御神の最高司祭が天津御子。


 天津御子は民がつつがなくが過ごせるよう祈り、民もまたそんな天津御子に感謝し、祈る。


“高御神”とは即ち“祈り”そのものである。

 

 こうして天津御子と民の3000年にも及ぶ、強くて固い結びつきが今も続く。


 もちろん、他の国とも交流はあった。しかし、訳あって310年間、門を閉ざしていたことがある。


 原因は西側諸国の野蛮さにあった。


 西側には “カールフリード教”という宗教がある。


 このカールフリード教の教えが酷く。核になる教えは“恐怖”。


 偉大なる大教師だいきょうしカールフリードの素晴らしい教えを伝え、その教えで無知な人々を救うという宗教で、その手段として“恐怖”を用いる。

“恐怖”を使ってでも人々を幸せに導かなければならないと固く信じており、

 人々の心に恐怖を植え込んでは 「恐怖を克服しなければ幸せになれない」と脅えさせ 「カートフリード教を信じれば、克服でき幸せになれる。」と洗脳する。

 特に東側諸国の人々は無知で愚かな生き物なので助けてやらなければいけないと考えており、対象相手にしていたのが、弱者や貧困層・病人などである。


 その宣教師たちが海を渡り、東側の国々で“布教”という名目で恐怖を植え付け従わせる。もし、それに抵抗すれば、今度は武力で抑え込み、西側の従属地としてしまう。


 豊葦津の民はその“宣教師”を“宣恐師と言い、“布教”を“不脅”と言い揶揄した。


 西側諸国の傲慢さに嫌気がさした豊葦津は一部の国と貿易をするだけで、国を閉じた。<和寿わじゅ三年>


 これを豊葦津では閉和へいわと呼ぶ。


 閉和が310年も続いたが、元来、何でも作ってしまう性格の民だったので、ない物は作り、ある物はさらに改良していい物にし、怪我の功名か、気がつけば、すべて自国で賄える国になっていた。


 豊葦津の文化・文明が一気に花開いた時代となった。


 しかし、そんな時代に終わりを告げる事件が起きる。


 <元希げんき七年>

 海岸に一発の砲弾が着弾する。

 幸い死者はいなかったが、この一発の砲弾が事態を一変させた。


 撃って来たのは西側の船だった。

 経由地として門を開けろと言ってきたのだ。

 潮の流れが複雑で入って来ることはなかったが、海の向こうから砲弾が飛んで来ることなど誰も想定しておらず、こちら側から攻撃する方法がなかった。


 これを巡って豊葦津では“開和かいわ派”と“閉和派”の対立が勃発する。


 しかし、これが西側のやり口だった。

 内乱を起こし、どちらの陣営とも協力関係を作り、武器や金を与え、国内が疲弊したところで入り込み、従属地にしてしまう。

 たとえ、どちら側が圧勝したとしても、莫大な借金をかたに領土を奪い、従属地にしてしまう。どのみち関わった時点で免れない運命になっている。悪事千万。どうしょうもない輩たち。


 その汚い西側のやり口に気づきいた者がいた。

 国守くにもり筆頭 思金おもかね 鏡之心きょうのしんである。


 思金は西側の協力を断り、内乱の火を消し、力では西側に勝てないとわかると交渉による話し合いだけで事態を収取させ、閉和派を説得し、開和へと舵を切る。


 思金の活躍により、血を流さず、土地を奪われず、西側と対等な形で平和裏に終わらせることができた。


 これには諸兼もろかね天津御子もいたくく喜び、それ以降、思金 鏡之心は天津御子の側従長そくじゅうちょうとして使え、豊葦津の近代化に注力する。(その後も、側従長の役職は代々、思金家が世襲していくこととなる。)


閉和派や民に“西側の圧力に屈して開和したのではないか?”と恨まれ、命の危険を感じたこともあったが、天津御子の助けもあり、次第に非難の声は消えて行き、やがて、豊葦津は国を挙げて、近代化に邁進して行くこととなる。


 もちろん、思金が開和へと舵を切ったのには理由があった。


 それは、西側諸国との圧倒的な力の差である。特に武力では太刀打ちできないほどの力の差があり、いつ西側が牙を向き、従属地にされるかわからない。一刻も早く豊葦津を近代させることが急務と考え開和へと踏み切った。


 が必要だった。


 西側は驚愕した。

 まさか西側と対等に交渉をする国が東にあるとは夢に思わなかったからだ。


 西側は豊葦津を注視するようになる。


 元来の好奇心旺盛も相まって、豊葦津は僅か30年足らずで近代化に成功し、みるみるうちに力をつける。


 思金は西近代化したわけではなく、近代化をするために西としただけである。


 しかし、西側は恐怖した。

 どこにあるのかもわからない。名前を聞いても知らないような小さなの国が近代化し、西側と肩を並べようとしている。


 西側諸国は震えた。


 何故、西側諸国がし、豊葦津国をし、し、のか?

 それには理由があった。


東禍論とうかろん”である。


 いつの頃からか、西側諸国では「西の重ねた罪を裁きに東の風に乗って大魔王が現れる。」という話しが、まことしやかに信じられていた。


 おそらく、西側諸国の人々の中に東側の国や小国に対し行ってきた今までのことが、歴史の片隅でそれを罪だと感じ、拭いされなかったのだろう。それが、いつしか迷信という影になり、人々の心の片隅に現れ、大きく肥大し、それが豊葦津の成長と重なり合った。


 しかし、豊葦津には関係のない話。

 色んな国々と穏やかに交流・貿易ができればそれでよかった。


 西側諸国の禍が的中する。


 <光現こうげん二年 国西こくさい暦 1811年)>

 北の大国・ロウジアンと海戦し、豊葦津が勝利する。というが起きる。

 ロウジアンとは、豊葦津の上、北にある軍事大国で、豊葦津を従属地にしようと幾度となく攻撃を仕掛けて来た歴史があり、豊葦津にとって“第一敵国”の国であった。


 その大国・ロウジアンがの小国に負け、その後、ロウジアンで民衆が蜂起し、ロウジアンが消滅する。


“東の小国が北の盟主に勝ち、国を消滅させた”

 この現実が“東禍論”という悪夢を見るには十分な出来事だった。


 この時、豊葦津の民も“東禍論”の迷信を知るが、民は誰も信じなかった。

 当たり前である。近代化した西側諸国がこんな迷信を真に受けるわけがない。


 それが“迷信”というものだ。


 豊葦津はロウジアンと戦わなければいけない状況だったので、仕方なく戦っただけであって、西側を裁くという考えが最初からなく、ましてや、西側を従属地にしようなどという考えは豊葦津にはない。そんな歴史がないのだから発想すらない。


 だが、西側諸国が疑心暗鬼に陥るのには、それほど時間はかからなかった。


「明日にでも東の国が攻めて来る。」

「従属地になるかもしれない。」


 西側諸国が行ってきた歴史が豊葦津に投影され、西側の国々に、家々に、人々の心に黒い渦となって入り込む。


 そこで人々の救いになったのが “カールフリード教”である。

 カールフリード教は“恐怖”を核にする宗教。

“東禍論”と非常に相性が良かった。“東禍論”の恐怖の広がりと共にカールフリード教は西側を席巻して行く。人々はカールフリード教に救いを求めた。“恐怖”が幸せを導いてくれると信じて。


 カールフリード教は瞬く間に西側諸国で最大の宗教勢力となる。

 そして、時代と共に変容して行く。


 それ以降、西側諸国は豊葦津に対し露骨な嫌がらせをしてくるようになる。


 武器・燃料の規制強化。関税の見直し。排斥運動。数々の攻撃を豊葦津に仕掛けて来たが、豊葦津は健気に耐え、話し合いで解決しようと根気よく国西社会に訴えかける。


 そして、悲惨な事件が起きた。


 <明冠めいかん七年 国西暦 1834年> 

 ノルジョントン号衝突事件。


 漁船26隻にイングランテ船籍の貨物船・ノルジョントン号が衝突し、漁をしていた漁師17名が亡くなるという痛ましい事件が豊葦津沖で発生した。


 原因はノルジョントン号の常軌を逸した進路変更にあった。

 普段通らない海路を通り漁船と衝突。しかも、溺れている漁師を救助せず、見殺しにして去って行ってしまった。


 豊葦津の内府ないふはイングランテ国にノルジョントン号の船員の引き渡しを要求するが、イングランテ国は証拠不十分とし、船長以下全員に無罪判決を下してしまう。


 これに対し、豊葦津の民は怒り、政の長である伊藤いとう 毛利もうり 総首そうしゅに抗議した。


 時の天津御子もこれには、いき道理を隠せずにいた。直接ではないが伊藤の耳にも入り、伊藤は豊葦津と国西社会の板挟みにされるが、それでも、伊藤は粘り強く国西社会に訴えかけた。


 しかし、西側諸国はそれを黙殺する。


 国人こくじん差別である。


 この時、民たちは“東禍論”が迷信でないことをを知る。


 <明冠九年>

 度重なる国人差別と、この事件を機に豊葦津は二回目の閉和を宣言する。


 元々、自分たちの国で賄えるだけの力を持っていたので、最初こそ混乱が生じたが、その内、段々と慣れ、閉和が日常的になっていった。


 豊葦津の民は順応性が高い。


 その日常も束の間。

 が豊葦津を襲う。


 <善翔ぜんしょう十一年>


 日差しも暖かくなり、命の息吹が生き生きと萌る季節。新しい一日が白々と明けはじめた時間。

 豊葦津海を挟み、北の旧ロウジアン国からほど近いいし加賀洲かがしゅうに、が突如、襲来する。


 とはという化け物のことである。


 しかし、“ヨモツ”は正式名称ではない。俗称である。

 本当の名前は誰も知らない。ある日、突然、現れた。いつ、どうやって来たのかわからない。襲撃された民たちの証言によると「あまが震え、晴れていたのにいかづちが響き、轟いた。」という。


 それ以外、わかっていない。


 ちなみに“ヨモツ”とは豊葦津の言葉で“穢れた” “醜い”と意味で、

“神聖なものを穢す”という意味合いも含まれている。


 その名前の由来はその姿にある。


 腹だけが異常に膨れているが、他の部位は痩せこけていて、所々、ただれ、腐敗し、強烈な異臭を放つ。


 どうやらを付けている者やを付けているの者もいるがよくわからない。隠すそぶりがないので、おそらく羞恥心はない。


 髪の毛も長い物。短い者。薄い者。ない者。色々で、肌の色も赤や黒ずんだ者。濃淡様々。背に低い者。高い者。見た目は民たちと変わりはないが、とにかく気持ちが悪い。


 そのヨモツが石加賀洲に数万匹と現れ、占拠してしもう。


 しかし、ヨモツが民を攻撃・襲撃した報告はない。

 どうやらヨモツは民を襲うことはないようだ。


 ならば、石加賀洲はどうして占拠されてしまったのか?


 それはヨモツの異常な習性にあった。


 ヨモツは何でも食べる。民以外、何でも食べる。

 家畜・穀物・草・根。

 民が食べる物はすべて食べる。民が食べない物もすべて食べる。一日中、食べている


 そのせいで、異常に腹が膨れている。

 それでは、そんなに腹が空いているのかというと、そうでもない。

 腹が裂け、口から食べた物を吐き出したまま死んでいるヨモツもいる。


 そして、そのヨモツをヨモツが食べる。


 生きるために食べてるのではなく、死ぬために食べてるように思えた。


 ヨモツは集団で生活するが集団で行動はしない。

 バラバラなのにアッチコッチで塊となって行動するから予測がつかない。

 その上、ヨモツは言葉を発しない。意思疎通ができない。わからない。


 いざ攻撃を仕掛けると突然、豹変して狂暴になる。

 普段は集団で行動しないヨモツも命の危険を感じると協同体制になり、一斉に攻撃をしてくるのだが、何か形が決まっているわけではなく、個々で攻撃して来るので、豊葦津陣営は攻撃するにも守るにも対策が上手くいかない。


 つちから這い出して来たような化け物。

 今までにない、まったく新しい敵と遭遇した豊葦津。


 そんな異様な姿を、習性をした化け物が数万匹、どこからともなく地下水のように湧き出て来たのだから、石加賀洲の民はたまったものじゃない。慌てふためき逃げ惑い、あっという間に石加賀洲がヨモツに占領されてしまい住めない状態になってしまった。


 慌てふためいたのは民だけではない。内府も慌てふためいた。


 突然、謎の化け物が襲来し、対策が遅れるのは幾分、同情するところもあるのだが、後手後手になった一番の理由がヨモツの付いていたにあった。


 とは、ヨモツの横や後ろに一緒に付いて歩き回る生き物のことである。


 最初は“親子か?”と思ったのだが、どうやらそうではないようで、あとで違うことがわかり、今では分類上、違う種として扱われている。


 色の濃さはあるが全員緑で小柄、切り傷のような細い目。話すことはできないようだが、ギャーギャーと騒いでウルサイ。そのオマケがずーっとヨモツの近くを付かず離れず行動する。


 この化け物たちが仲がいいのかというと、それが違う。


 ヨモツはこのオマケを威嚇する。殴る。蹴る。でも食べない。

 ヨモツが唯一、食べない生き物。

 毒があるのか?それとも、ただ単に味が不味いだけなのか?まったくわからないが、このオマケを食べることはない。

 

 それではオマケのほうが一方的にヨモツに付いているのかと言えば、これも違う。

 オマケはオマケでヨモツを騙し。欺き。裏切る。

 色々な浅知恵を使って食べ物を横取りしようとする。


 何故、一緒にいるのか?当初はわからなかったのだが、それが遅れの原因となった。


 石加賀洲奪還作戦で豊葦津陣営が優勢だった時がある。


 優勢と見るや、そのオマケが豊葦津陣営に協力しはじめた。

 戦力になったかというとならない。

 ヨモツと同じように騙し。欺き。裏切る。

 どうやらこのオマケは強い方にくっ付く習性があるらしく、豊葦津陣営に混乱が生じただけで、対策が遅れに遅れた。


 ヨモツが優勢になるとヨモツ側に付いて行く。このオマケは強い方に付くというのがのようで考えて行動しているわけではないらしい。


 このオマケをいつも“”にいる“”というところから、

 “傍子ぼうし”と呼ばれるようになった。


 困ったことにヨモツよりも、この傍子の方が質が悪かった。


 その質の悪さは繁殖能力の高さにあった。

 ドンドン産む。半年も経てば成長する。またドンドン産む。

 成長すると言っても、二足歩行か四つん這いかの違いしかないのだが、とにかくあっという間に増える。一気に増える。一年でおよそ4倍にもなる。


 ちなみにヨモツには繁殖機能が確認されているが繁殖能力はないようだ。


 異常なほどの食欲を持つヨモツと異常なほどの繁殖能力を持つ傍子。


 両面作戦を強いられた豊葦津陣営は掃討する手立てが見つからず、ただ時間をいたずらに使うだけだった。


 攻撃しようにも形の違う化け物を相手にしなくてはならず、もし、攻撃して、この化け物たちが洲外に出てしまったら、ますます被害が拡大する。しかし、このまま放置をしてもドンドン数が増えて、洲外に溢れ出すのは時間の問題。


 決定的な打開策が見いだせないまま区域が広がり、今では石加賀洲と隣接する洲の一部が退避区域となってしまった。


 内府は苦肉の策として、石加賀洲から出さないようにするためエサを与え、動きを止める作戦に出る。


「ヨモツ・ヒラサカ作戦」


“ヒラサカ”とは豊葦津の言葉で、“境界線”を表し、“あの世とこの世”という意味合いがある。


 この作戦は当然のように大不評で民からの不満が爆発する。


「ヨモツを囲っているのか?それとも我々が檻の中にいるのか?」

「侵略者に優しい内府」

 新文しんぶんはこぞって内府を批判した。


 それに、内府は“ヨモツを刺激しないように”と当初、良い食材のエサを与えていたのだが、それがバレてしまい、「侵略者に良い食材を与えるとは何事か!」という至極当然な批判が吹き荒れ、さらに民の怒りを買うこととなる。


 今では腐った物。食べ残し。残飯を与えている。


 しかし、これが有効な策でないことは誰でもわかる。

 侵略された土地に侵略者を飼っているだけで、無策と言っても過言ではない。


 そのため、この2年で、内寺内府・米浦内府・若月内府と続けて総辞職をする。


 豊葦津の混乱は日が経つに連れ深くなる。


 最後の望みを託し、総首に任命されたのが 都築つづき 貫一郎。御年75歳。


 都築はロウジアン海戦で豊葦津を勝利に導いた東木とうぎ八典はちのり艦長の懐刀として共に戦った英雄であり、ロウジアン海戦を知る数少ない生き証人でもある。


 期待していたのは民だけではなかった。


 現上人の天津御子も大いに期待していた。

 都築とは祖父の統煕おさひろ天津御子の御代からの付き合いがあり、幼少の時から親しくしていた。


 都築は年齢を理由に辞退することもできたが、民の願い、なにより天津御子の期待を裏切ることはできず、“最後の御奉公”として、総首要請を受託する。


 これにより第32代 総首 都築 貫一郎 内府が誕生した。


 この内府が倒れることは、豊葦津が終わることを意味する。

 それは天津御子も民も都築もわかっている。


 こうして、ヨモツ・傍子掃討/石加賀洲奪還作戦がはじまる。


都築は 思金 阿礼を統合参謀長官に任命。


思金に掃討/奪還作戦の全権を託す。






























































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