走る

あんどこいぢ

走る

ユウマは最近、彼の住所になっている元放置宇宙船、現地球圏連邦第 8354 宇宙天文台の操作マニュアルを、わざわざ紙媒体にハードコピーして読んでいる。もとのファイルはこの船の、というかこの宇宙天文台のメインコンピューターの HD に、readme などと一緒にさりげなく置かれていたものだ。

ワープ航法の実験成功から四世紀強、人類のサイボーグ化も進み、いまどき体内にネット接続用コネクタを埋め込んでいない者などそうそういないのだが、ユウマはその数少ない集合の一要素だった。しかし何か信念があって、というわけではない。否。中学校時代、級友たちにからかわれただけでなく、教員数人からも「お前のような奴が一人いるでけで、授業が進めにくくなる」などと言われたことを、実はしつこく根に持っていたりする。とはいえ断じて、それは政治的信念ではなかった。

ただこの操縦マニュアルの件に関しては、当該天文台のメインコンピューター、さらに彼女(船が彼女と呼ばれるのに倣い、船のメインコンピューターも通常そう呼ばれているのだが……)の背後にひかえている地球圏連邦政府も、多少不穏なものを想定しないわけにはいかなかった。

特にこの数日、ユウマはそのハードコピーを寝室に持ち込み、ベッドに腰かけて読んでいることが多いのだった。

そのため彼女はオーディオセットのスピーカーを使い、彼とコンタクトを取らなければならなかった。因みにその声は、いまや古典となっている 2D アニメの声優、ハルコ・ミモリの声から、同じく 2D アニメの声優、コトノ・フタウラの凛とした声に変わっている。ユウマはその変更も、古風な PC 端末のキーボード入力という手段で行ったのだ。


「ピーピング・トムさん。また私の秘密の日記、盗み読みしてるの?」

「ピーピング・トムとは古風だなー。それにreadme には、こっちも必ず読んどくようにって、書いてあったけど?」

ユウマは両腿の上に広げていた四つ切りの紙束を、軽く揺すった。もっとも彼女はプライベートエリアである寝室のカメラは一応切っているので、当該動作そのものを観るということはなかった。ただし生体データはモニターしているので、会話がちぐはぐになることはなかった。

「この天文台のマニュアルなら、あなたのマイページのところにちゃんとリンクが貼ってあります。それだって私には、ちょっと恥ずかしいんですけど……。いまどき PC 端末から私にアクセスし、その上ルートディレクトリまで覗きにきちゃうひとなんて、絶対いませんよ」

「だよなー。中世期末期のネット黎明期に、GUI が導入されただけでユーザーがディレクトリ構造見なくなったって、それ以前のユーザーが嘆いていたもんなー。優越感混じりで──」

「またまたまたー。どうしてあなたはそういうヘンなファイル、視ちゃうんですか。それも確か、pdf ファイルでしたね?」

「またまたまたー。結局俺は、あなたの上で、何もかもやらなければならないんだから、それぐらいちゃんとチェックしてるでしょ? ePub ですよ、ePub」


彼はただの PC ヲタクなのだろうか? それも相当時代遅れの……。

一応その肩書きは地球圏連邦第 8354 宇宙天文台台長で、同機関教授ということにもなっているのだが、それがただの名目に過ぎないことは、この元宇宙船のメインコンピューターにも、彼女が所属している地球圏連邦政府の担当者たちにも、言わずもがなの話だった。以前彼は、火星でニートだった。

とはいえそれだけに、監視、管理の対象としてのスティグマもいろいろと負っているのだった。彼は一見のほほんとしている。どうやら単刀直入に訊いてみるしかないようだ。

「ねえユウマ、あなたひょっとして、私を宇宙船として走らせてみようなんて気でもあるの?」


一瞬の間。

だが AI である彼女にとってはたった一秒でもかなりのデータ量だ。生体データへのサーチを深める。心拍数、発汗、脳波。特に問題はない。監視カメラによるチェックが対策の候補として上がってきたとき、彼はボソリと言った。

「もしそうならやっぱ、あなたを横領したことにでもなっちゃうのかな?」

「さっ、さあ……」

彼女が口ごもってしまったのは、決してプログラムの結果ではなかった。ディープラーニングで得た大量のデータのなかから、彼女自身意外なデータが浮き上がってきて、それがそのまま、回路に走り出てしまったのだ。彼女は気を取り直したような演技をする。こちらは宇宙船としてロールアウトしたときから、標準で入っているデータだ。

「とりあえずあなたには、ここの台長としての責務があります。また見学者への対応として、コミュニケーターとしての責務も果たさなければなりません」

「見学者? そんなの本当に来ると思うの? 最低でも八千三百五十四ある宇宙天文台のなかの一つに……。わざわざ……」

「……有人のものは、そんなにはありません」

「そう。本当は無人の天文台で済むはずなんだよ。ヒトなんか介在したら、かえってデータにノイズが入るし……。それにレポート提出しなくたって、特にお咎めなしだってゆうじゃない? 火星の地価も高騰してたし、やっぱそれで……」

「そっ、そんなことは……。確かにレポートを怠る台長さんたち、多くて……。そっ、それだけにあなたのレポートは……」

また妙なデータが回路を走り回っている。何が問題なのだ? 何が?


横領? この言葉がなぜ?


彼女はその言葉のサジェストワードを検索してみた。最初ネット上を……。そして次に、彼女自身が溜め込んでいる内部データの海を……。もっともその記憶領域は当然クラウド上にも広がっているのだが……。


誘拐? 同義語でも対義語でも、当然同音異義語でもないようだが、なぜこんな言葉が?


でも確かに私は、台長は私を誘拐すると言うべきだったのだと、判断しているわけだ。

と、そのデータが不意に、オーディオセットのスピーカーにまで走り出しそうになる。

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