駆けていく

いちご

第1話 駆けていく


 私の人生において一番の出来事といえば、まず間違いなくあなたと出会えたことであろう。


 弁が立つ方でもなければなんの面白みもない私のことをあなたがどうして選んでくれたのか。

 今この時でさえ信じられずただただ疑問に思うばかりだ。


 何度も断られた挙句のお見合いに私はなんの期待もしていなかった。あなたは両親とともに萌黄色の振袖を着て現れ、私の顔を確認すると「あれ?」といった風に小さく首を傾げた。


 これはまた縁がなかったことにされるのだろうとピンときた私は出された茶菓子の饅頭を口に頬張りながら不貞腐れていたのだ。


「ここは庭がとても素晴らしいんですよ。幸四郎、お嬢さんを案内してさしあげなさい」


 穏やかな物言いで父から促されれば否やは言えず。私は「はい」と返事してすっと立ち上がった。あなたはゆっくりと腰を上げ、慎重に足を踏み出し――座布団の端に足を取られて転倒した。


「大丈夫ですか」

「っ、はい!」


 うつむいたあなたの項や耳が薄っすらと朱に染まっていて私の中の欲望を掻き立てたが、無かったことにされる相手にこんな感情を持たれては迷惑だろうと飲み込んだ。

 あなたのご両親は必死に謝り、あなたを「粗忽ものだと」叱ったが、私にはとても愛らしく映ったことを告げるべきかどうか悩み結局口にはしなかった。


 あの時ちゃんと伝えていればと今ではそう思う。


 ふたりで庭を歩きながら交わした言葉は「とても綺麗ですね」と「そうですね」だけだった。

 それでも同じ歩幅でゆっくりと眺めた庭は今までの見合い相手と一緒に歩いた景色とは違うように見えていたのだから既に手遅れだったのだろう。


 あなたが断らずにいてくれてどれほど私が歓喜したことか。

 あなたが「幸四郎さん」と呼ぶたびにどれほどの幸せを感じたことか。

 

 あなたは知らないのだ。


 そして私も知らない。

 あなたがどんな思いで初顔合わせの時に「あれ?」という顔をしたのかを。


 聞いておけばよかった。


 白無垢姿の匂い立つような美しさ。

 三つ指ついて「よろしくお願いいたします」と恥ずかしそうに微笑んだ可憐さにあなたを守らねばという純粋な決意を固めて。

 

 結実したかに思えた命は儚く消え。


 肩を震わせ泣くあなたにかける言葉が終ぞ浮かばず、ただ肩を抱き一晩中無力さに打ちのめされたあの日のことを私たちはずっと引きずっていた。

 口には出さずとも伝わるものがある。


 目を逸らしていても「逸らしている」という事実がそこへ意識があるのだと知らしめるのだから。


 それでもあなたは懸命に明るく振る舞い、そして私もいつも通りを心がけて過ごした。元より言葉が少ない男である。必要最低限の会話だけで事足りた。

 まあそう思っていたのは私の方だけだったのだが。


 あなたの中の不安や悩みに寄り添えなかったのは私の罪であり、三下り半を突き付けられてあなたに去られたのは当然の罰であった。


 致し方なし。


 粛々と受け入れ、淡々と日々を過ごしながら時折あの日見た庭園のまばゆい美しさを思い出していた。


「幸四郎さん」


 少し弾むようにして私の名を呼ぶあなたの声を懐かしむ。

 後悔で胸が苦しい。


 なぜ引き留めなかった。

 どうして帰って来てくれとあなたの実家へ泣きつきに行けなかったのか。


 目覚めた時にあなたが腕の中にいる温もりが恋しい。

 腹を押さえて子どもができたと報告したあなたの幸せそうな顔。

 何気ない会話や一生懸命作ってくれていた手料理。

 ふたりの家。

 あなたと私の数年を。


 走馬灯が駆け抜けていく。


 幸せにできたはずの人。

 私に愛を教えてくれた人。


 後悔ばかりの人生の最期にあなたの姿を見られるのだから。


 なんとも贅沢な死である。


「子どもが生まれたら”幸”の字をつけてあげたいの。だって」


 あなたから幸せをたくさんもらったから、この子にもたくさんあげたいじゃない?


 嗚呼、嗚呼―—。


 駆けていく。

 すり抜けて。


 永遠に。






 

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駆けていく いちご @151A

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