第3話

 わたしが結城先生とこの学校で再会してから早三週間。

 先生の人気っぷりといったら、それはもうすさまじいものだった。

 文系男子なのに理系科目もこなせてしまうオールマイティな先生に教えを乞おうと、職員室の先生の机の周りに群がる男子生徒たち。

 そのむさ苦しい連中をかき分けるようにして、ロマンティックな星空トークでその場にグイグイと食い込んでいく女子生徒たち。

 それらの中には、ウチのクラスじゃない子も混ざっていた。

 わたしはというと、学級委員という立場もあるが、それよりも雪という共通の話題を介して、先生と接する回数が増えていったように思う。近況を報告したり、自宅でプリントアウトした写真を渡したりすると、先生は自分のことのようにとても喜んでくれた。

 大人と話をするのはあまり得意ではないけれど、先生はべつだ。大学生で歳が近いからなのか、明朗でさばさばとした性格が関係しているのかはわからないが、先生の前では素直に話ができる自分がいた。

「おっ! ちょうどいいところにいたな、星ちゃん」

 いつの間にか下の名前で呼ばれてるし。

 どうやら、わたしのこの名前を気に入ってもらえたらしい。

 天体に関してもかなり詳しい先生。大学では、天文サークルに所属しているのだそうだ。

「どうしたんですか、結城先生」

 放課後、教室に入ろうと引き戸に手を伸ばしたところで、結城先生から声をかけられた。百合ちゃん先生に頼まれた学級委員の仕事を、職員室まで届けたその帰りのことだった。

「いやあ、図書室の司書さんに頼まれ事されちゃってさ。ひとりじゃ大変だから、仲間を探してたとこなんだ」

「頼まれ事? 本の整理か何かですか?」

「まあ、そんなとこ。今日は全校部活オフの日みたいだし、お願いしてもいいかな?」

「大丈夫ですけど」

「助かるよー」

 こうして、わたしは先生と一緒に、中校舎の四階にある図書室へと向かうことになった。図書室に行くのは、オリエンテーション以来二度目だ。

 司書さんってどんな人だったっけ? なんて考えながら、足を進める。

 道中、先生は、会う生徒会う生徒に親しく挨拶されたり、話しかけられたりしていた。もはやクラス内にとどまらないその人気は、学年の垣根をも軽々と飛び越えてしまっている。

 図書室に到着すると、扉には〝CLOSED〟の掛札が。……こんなの初めて見た。お店みたいだ。

 それを華麗にスルーして入室すると、本棚の隙間からひょいと顔を覗かせた司書さんに手招きをされた。そこは、カウンターの奥に構えられた書庫で、頼みたいことというのはその中にあるようだ。

「悪いわね、結城先生」

「いえ。このあいだ無理言って、本を探していただいたお礼ですよ。それに、強力な助っ人を連れてきたので」

 結城先生に紹介され、ぺこりと頭を下げる。

 薄い茶色のゆるふわロングに、少し垂れた優しい目。司書さんは、その柔らかな外見通り、まったりとした喋り方をしていた。声もまるで鈴のように軽くて可憐だ。

「あら、あなたは……一年生の天宮さん? まあほんと、噂通りねー!」

 そんな彼女に思いがけないことを言われ、つい首を傾げてしまう。

「う、噂……?」

 なんの噂だろう。入学してから今まで、とくにこれといって目立つようなことをした覚えはない。そもそも、入学してからまだ二ヶ月少々しか経っていないのに。

 いろいろと考えを巡らせていると、若干テンションの上がった司書さんが、その〝噂〟とやらについて教えてくれた。

「あなた、吹奏楽部なんでしょ? 部長の佐倉さん図書委員なんだけど、いっつもあなたのこと話してくれるの。『一年生の天宮星ちゃんって子が、演奏も上手くてすごく可愛い』って。ほんと、可愛いわー!」

「七海先輩が?」

 吹奏楽部部長の佐倉さくら七海ななみ先輩は、わたしと同じホルン奏者で、文武両道・才色兼備の素晴らしい人だ。憧れている後輩も少なくない。

 そんな先輩が、入部してまだ日の浅いわたしのことを、こんなふうに、それも自分の知らないところで評価してくれていたなんて、正直びっくりした。

「佐倉さんだけじゃないのよ? みんな噂してるわ、あなたのこと。成績も優秀なんですってね」

「え? いえ、そんな……」

 本当にそんなことはないと思ったので、首を横に振ってみせたのだが、わたしのこの言葉に被せるように、結城先生が口を開いた。

「そうなんですよ! このあいだの中間だって、な?」

「ゆ、結城先生!」

 五月の下旬に行われた中間考査。どこをどう間違ったのか、一学年二百八十人中、総合でベストスリーに入ってしまった。普段壊滅的な数学が運良くそこそこの点数を取れただけで、あれはただのまぐれだ。そう、まぐれ。

 ……それよりも、公表されていないはずの結果を結城先生が知っているとは、これいかに(犯人は百合ちゃん先生なのだろうけど)。

「あらあら、二人はとっても仲がいいのね。それじゃあ、仲良くお仕事してもらいましょうか」

 完全に司書さんと結城先生のペースに乗せられてしまった。なんとなく腑に落ちないと思いながらも、気を取り直してこのミッションと向き合うことに。

「ここに置いてある本を年代別にして本棚に片してほしいの。比較的新しいものばかりだから手前の本棚に入れていってね。あ、それと面倒なんだけど、作者さんの名前で五十音順に並べてくれるとありがたいな」

 息つく間もなく、つらつらと、ひととおり説明する司書さん。顔の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに振る舞ってくれてはいるものの、彼女からの注文はいい具合に多かった。

 聞いただけでお腹いっぱいになりそうなほどに。

「わかりました。……星ちゃん、連れてきといてなんだけど、時間大丈夫か?」

 苦笑いしながら、そうわたしに問いかける結城先生が可愛くて可笑しくて、つい噴き出しそうになるのを必死でこらえる。

「大丈夫ですよ。夕方結花と約束してたんですけど、結花の都合でそれがなくなっちゃったから、フリーなんです」

「そ、そうか。良かった~。安請け合いしたものの、さすがにこの量を見たら少しビビッたよ」

「これはひとりではとてもじゃないけど大変ですね」

「だよな~」

 長机の上に所狭しと積まれた対戦相手たち。ざっと六、七十冊はあるだろうか。

 今まさに戦場に赴かんとするわたしたちに「事務長さんに呼ばれてるの」と言い残し、手をひらひらさせながら、司書さんは事務室へと行ってしまった。

 引き受けてしまった以上は仕方がない。わたしと先生は、この大量の本を、まず年代別に分類することから始めた。

 司書さんの言っていたとおり若い本ばかりで、古いものでも刊行されてまだ十年ほどしか経っていない。どの本も、色褪せてもいなければ、傷んでもいなかった。

 次に、作者名で五十音順に並べていく。しかし、この作業を開始してすぐに、わたしは手を止めてしまった。

 原因は、何気なく手にした一冊の本。

「どうした、星ちゃん」

 先生に名前を呼ばれ、はっとする。

「え! あ、いえ……」

「ん? ……あっ! 星ちゃんが今持ってるその本、俺読んだことあるよ」

「えっ、本当ですか!?」

 先生のこの言葉に驚いて、思わず詰め寄ってしまった。

「ああ。国立天文台の天宮あまみやあきら博士が書いた本だ。専門的な内容をわかりやすく書いてあるから、俺みたいな学生でも無理なく読めたよ。最初は俺の恩師の薦めで読んでみたんだけど……今ではすっかり天宮博士のファンだな」

「そう……なんですか」

 その本のページを、滑らせるように、パラパラとめくる。カバーを折り返した袖の部分には、著者の顔写真が掲載されていた。

「どうした? 急にボーっとしたりして。天宮博士の本がどうかし……ん? 天宮? あまみ……!! ひょっとしてっ!?」

 どうやら、この本の著者とわたしの関係に気づいたらしい結城先生に、わたしは静かに首を縦に振った。

「わたしの……父です」

「じゃあ、天宮博士は……」

「亡くなりました。二ヶ月前に」

 そう。わたしが今手にしている本の著者である天宮晃は、二ヶ月前に亡くなったわたしの父だ。

 父は、アメリカの大学院を卒業し、宇宙工学博士・天文学博士として、しばらくはあちらで研究を続けていたのだが、母との離婚を機に帰国した際、その頭脳を買われて国立天文台の研究者に引き抜かれることとなった。

 生前は、アメリカでも日本でもいくつか本を執筆している。この本は、五年ほど前に、こちらで書かれたものだ。

「そう、か。……すまない、星ちゃん。俺が手伝いなんか頼んだから」

 いつも明るく陽気な結城先生の顔が、見る見るうちに翳ってしまった。

 嫌だ。先生には、そんな顔してほしくない。

「大丈夫ですよ、気にしないでください。それに、家に帰れば、父の本なんて家じゅうにあるんですから。……わたしのほうこそ、すみませんでした。暗くなってしまって」

 いつもの先生に戻ってほしくて、わたしは平静さを強調した。ほんの少しだけ、語気に強がりを詰め込んで。

「父が亡くなって、ようやく気持ちに整理がつけられたんですけど……久しぶりにあの人に会ったからですかね。自分でもよくわからないんですけど、なんだか落ち着かなくて」

 止まっていた作業を再開させながら、結城先生の顔を見ることなく、ここ最近の自分の心境を吐露する。

 あの夜以来、母のことを先生に話したのは、このときが初めてだった。

「……お母さんは、日本語が話せないのか?」

「はい。母はアメリカ人で、ほとんど外に出たことがない人なので。……おかげで、わたしは英語が堪能になりましたけど」

 自嘲気味にこう話すわたしに、結城先生は黙って耳を傾けてくれていた。

「実はわたし、アメリカ生まれなんです。父はそのころ、向こうで研究をしていて。……わたしが九歳のときに両親が離婚して、それで日本に帰ってきたんです。離婚の原因は、母のわたしへの暴力でした」

「……」

「それからは、父が男手ひとつでわたしを育ててくれました。だから、わたしには母とのいい思い出なんて、全然ないんです」

「……このあいだ、お母さんはどうして?」

「わたしをアメリカに連れていこうと。……いまさらですよね」

 伯父は、迷いに迷ったすえ、父が亡くなったことをエアメールで母に連絡した。離婚しているとはいえ、黙っておくことには抵抗があったのだろう。

 葬儀の日取りなど詳しいことは知らせていなかったため、母が参列することはなかったが、その後しばらくしてわたし宛に手紙が届いた。

 アメリカに連れて帰るから——と。

 急にそんなことを言われて納得できるはずもなく、わたしは母からのその手紙を破り捨てた。この期に及んでいったいなんのつもりなのか……理解に苦しむ。

 それから、何度か同じ内容のものが届いたけれど、すべて無視し続けた。その結果、ついに痺れを切らせて直接やってきたのだろう。

「一緒に住んだって、きっと毎日あの調子ですよ? 昔と何も変わってないんです、あの人は。……あっ、ごめんなさいっ! こんな話してしまって……」

 我に返り、また随分とくだらない話をしてしまったと反省した。……みっともない。

 だけど、こんなわたしの話を、先生は最後までちゃんと聞いてくれていた。

「いや、もとはといえば俺の責任だし。話してくれてありがとう」

 さらには、こんなことまで。

「……そう言われてみれば似てるな」

「え?」

「天宮博士と星ちゃん」

「そう、ですか?」

「似てる似てる。星ちゃんはお父さん似だ」

 結城先生のこの言葉を聞いた瞬間、わたしの中で何かが音を立てて弾けたと同時に、目の前が明るく拓けた。

 先生に言われて初めて、わたしは他人ひとからそれを求めていたのだと気づく。

 同情でも哀憐あいれんでもない言葉。いなくなってしまった父との繋がり。

 ——また、胸が熱くなった。

 わたしの瞳に映っていた結城先生の笑顔は、とてもとても綺麗だった。


 ❈


 あっという間に金星の光る時間になってしまった。

 一時はどうなることかと思ったが、なんとか無事に書庫の整理を完遂したわたしと結城先生。事務室から戻ってきた司書さんに挨拶をして、帰宅準備に取りかかる。

 「お礼に」と、司書さんからペットボトルのお茶を一本ずつ頂戴したのだが、その程良い冷たさが、疲労した身体をリフレッシュしてくれた。

 この時間になると、すでに昇降口は施錠が済んでしまっている。よって、靴を手に持ち、まだ開いている職員用の玄関へと向かった。

 先生は、そんなわたしを待ってくれていた。

「すっかり遅くなってしまったな。本当にごめんな、星ちゃん。でも、ありがとう。助かったよ」

「いえ、わたしのほうこそすみませんでした。その……あんな話をしてしまって」

 図書室でのやり取りが、頭から離れない。もっと別の話だってできたはずなのに。よりにもよって、あんな暗い話題を提供してしまうなんて。

 だが、後悔の念に苛まれ、一瞬口をつぐんでしまったわたしに対し、明るい口調で先生はこう言った。

「どうして謝るんだよ。謝る必要なんかないだろう? ……君があの天宮博士のお嬢さんだってことには驚いたけどね。だけど、なるほどとも思うな」

「何がですか?」

「改めていい名前だと思ってね。『星』ちゃん」

 目元に茶目っ気をたっぷり含んで、笑いながら先生はそう言ってくれた。つられて、わたしも目を細める。

 この日、結城先生に話せたことで、今まで胸につかえていたものが少しだけ取れたような気がした。

「星ちゃんは徒歩通かな? あの距離だと」

「はい。遅刻しそうなときは自転車使いますけど」

「じゃあ、送ってくよ。そろそろ薄暗くなってきてるから」

「え? 大丈夫ですよ。ほんと、すぐですもん」

 結城先生の申し入れを丁寧に断る。せっかくだけど、その申し出を受けてしまえば、また迷惑をかけることになると思ったから。

 けれども、それは先生によって、先生らしく制されてしまった。

「いや、今の時期明るいからって安心してたら危ないから。星ちゃんみたいな子はとくに注意しないと」

「あ、危ない……?」

「っそ、危ないよ。だから送っていきます」

 ここで、とある疑問がふと浮かんだ。それを解消するべく、少々控えめに尋ねてみる。

「先生は徒歩なんですか? 前にあの公園から電車で二駅って……」

 あの日、雪を拾った公園から自宅までの距離を聞いていたことを思い出した。

 もしそうだとするなら、学校からだと遠回りになってしまうのではないだろうか……。

「ん? ああ。教育実習期間中は、高校が職員寮を提供してくれてるんだ。さすがは有名私立進学校……至れり尽くせりだよ」

 なんと。実習生にまでそんな気の利いたシステムを採用していたとは……なかなかやるではないか、ウチの高校。

 職員寮なら同じ方向だ。家からだと、確か歩いて五分くらいのはず。

「そうなんですか。じゃあ、お世話になりついでによろしくお願いします」

「いやいや、今日世話になったのは俺のほうだから」

 黄昏時。

 ちらほらと街灯が点き始めた路地を、わたしと結城先生は並んで歩いた。

 周りの民家から漂ってきた温かい夕飯の匂いが、鼻孔をくすぐる。その中でも一番印象的だったのが、香ばしいカレーの匂いだった。

 よし、今日のメニューはキーマカレーにしよう。そうしよう。

「ん?」

「……え?」

 と、しばらく歩いたところで、急に先生が立ち止まった。驚いて、ついわたしまで歩みを止める。

 先生がスーツの胸ポケットから取り出したのはスマートフォン。マナーモードにしているのだろうそれは、先生の手のひらで「ブー、ブー」と音を立てて震えていた。

 様子をうかがうかぎり、どうやら着信らしい。だが、先生はいっこうに応えようとはしなかった。

 それどころか、迷うそぶりなど微塵も見せることなく、ブチッと切ってしまったのだ。

 それはそれはものすごい勢いで。

「えっ! 大丈夫なんですか? 急ぎの用事とかじゃ……」

「ああ、大丈夫。あいつの用事、全然たいしたことないから」

 語調はいつもと変わらなかったが、液晶を凝視しているその顔は、なんとも無表情だった。

 友だちからだったのかな……?

 無表情の中にうっすらと滲んだ嫌悪感を払拭するように、「やれやれ」と先生。はあ、とひとつ溜息を吐き、スマホを胸ポケットに戻そうとした。

 そのとき。

「うおっ!?」

「!?」

 なんと、またスマホが震え出した。

 そんなことあるはずないのに、さきほどよりも振動の激しさが増しているような気がする。……震えている、否、暴れている。

 なぜだろう。スマホが憤慨しているように見えるのは。

「ほんとに大丈夫ですか?」

 やっぱり着信を拒否した先生に、オロオロしながら問いかける。

「ああ。あとでこっちからかけ直すよ」

 眉を下げながらそう言って、ようやく大人しくなったスマホを今度こそ仕舞い込むと、先生は再度歩き始めた。倣って、わたしも足を進める。

「大学のご友人……ですか?」

「うん、まあ。……俺が教育実習に行ってるの面白がって、しょっちゅうかけてくるんだよ」

 聞いてみると、着信の相手は、大学の同級生らしい。終業となるこの時間帯に、ほとんど毎日かけてくるとのこと。

 なんだか歯切れが悪かったし、呆れ顔だったけれど、本気で嫌がったりはしていないようだ。

 先生とその人、本当は仲いいんだろうな。

 ……なんて心の中で笑みを漏らしながら、なんとなく頭上に視線を移す。

 そこに広がっていたのは、雲ひとつない紫紺に染まった空。

 一筋の飛行機雲が、濃紺に向かって、まっすぐ伸びていた。

「今の時季、こんなに綺麗に星が見えるなんて珍しいですよね」

 飛行機雲の尻尾を視界の端に収めたまま、わたしは思ったことを口にしてみた。

「ほんと、梅雨なのにな。……星ちゃんは、星見るの好き?」

 わたしに同意を示してくれた先生。そして、唐突にこんな質問をされた。

 懐かしい記憶を手繰り寄せながら、わたしはこの問いに答えた。自分で自分の表情が穏やかになっていくのがわかる。

「好き……ですね。父が父だったので。よくいろんな観測スポットに、ドライブがてら連れていってもらいました」

 忙しい時間の合間を見つけては、父はわたしを夜空のもとへと連れ出してくれた。

 少し標高の高い場所で、降り注ぐ星の光を浴びるたびに、それに手を伸ばしては感動したことを思い出す。

 どんなに望んでも、どんなに願っても、もう二度と、叶うことはないけれど。

「そっか。俺は天文に出会ったのが大学に入ってからだったから、なんだか羨ましいな。もっと早くに出会いたかったよ」

 同じく結城先生も空を見上げながら、想いを口にしてくれた。

「そう、なんですか?」

 上げていた顔を横に向ける。先生は、まだ上を向いたままだ。

「ああ。実は俺、天文にのめり込んでから、まだ二年くらいしか経ってないんだ」

「それなのに随分お詳しいんですね」

「今のサークルの恩師のおかげ、かな」

「さっき話してくれた、父の本を先生に薦めてくれた方ですか?」

「うん。水無瀬みなせ朋彦ともひこ教授といってね。……本当に、学生思いの優しい人なんだ」

 先生は、今まで空を仰いでいた目を、今度は下へと向けて一呼吸置くと、静かに話し始めた。

「……俺は、水無瀬教授に出会うまで、ろくな大学生活を送ってなかったんだ。高校時代、必死で受験勉強して今の大学入って……一年のときはそれなりに勉強したけど、あとが続かなくてね。二年のときなんて、ほとんど大学をサボってた。自分でもよくわからなかったんだ。何がしたかったのか」

 正直、意外だった。

 誰しも悩みがあって当然だ。嫌になるときだって、投げ出したくなることだってある。

 でも、先生からそれらをイメージすることはできなかった。失礼かもしれないけれど。

「そんな時期に教授に出会って、天文に出会って、ようやく自分自身を見つめ直すことができた。……本当に、教授は俺の恩師なんだ」

 今自分がこうしていられるのは教授のおかげなのだと、先生は言葉を続けた。それと同時に咲かせた鮮麗な笑顔。

 三週間、先生のいろんな笑顔を見てきたけど、このときの笑顔が一番素敵だった。

 子どものわたしにもよくわかった。先生が、その水無瀬教授のことを、心の底から尊敬しているのだということが。

「素晴らしい方なんですね、とても」

「ああ……ってごめん! 俺、ベラベラ喋りすぎたかな……」

「そんなことないですよ。それを言うなら、お互いさまです」

「……星ちゃんは、不思議な子だな」

「へ?」

 突然こんなことを言われてしまったものだから、なんとも素っ頓狂な声で返事をしてしまった。

 わたしが、不思議……?

「あ、いや、悪い意味じゃなくて。俺と六つも違うのに、すごく話しやすいと思って。なんて言うんだろう。年齢のわりにしっかりしてるのかな、やっぱり」

「どう……なんだろ。あまり意識したことなかったです。わたし、大人の人と話するのあまり得意じゃなくて。……あっ! 先生がどうっていうんじゃないんですよ? ……むしろ、わたしからすれば先生のほうが不思議です。わたし、年上の人に自分から生い立ちとか話したの、先生が初めてだもん」

 周りの大人を信用することには抵抗があった。

 わたしのことを知ると、ほとんどの人が、当たり障りのないありきたりな同情の言葉を並べて、わたしとのあいだに無難な関係を築こうとするだけ。わたしの本当の気持ちなんか知ろうともしないで、わたしがどういうふうに思っているのか勝手に決めつける。

 とはいえ、そのことに怒りを感じたことはない。わかってほしいだなんてただのエゴだ。けれど、やっぱり悲しかった。

 だけど、結城先生は違う。こんなわたしと一対一で接してくれ、わたしの話を聞き、気持ちをちゃんと理解してくれた。

「先生のほうが、不思議です……」

 感情が高まりすぎて、逆に消え入りそうな、か細い声になってしまった。なんとなく、隣を歩いている先生の顔が見れない。

 そうこうしているうちに、あっという間に家に着いてしまった。

 家の前に立ち、門扉に手をかけようとした、そのとき。

「あ、そうだ」

 わたしは、あることを思いついた。

「ちょっと待っててください。今、雪連れてきますから」

「え?」

 わたしが渡した雪の写真を、先生は手帳に挟んで持ち歩いている。せっかくだから、今日こそは直接雪と会わせてあげたい。そう思った。

 急いで玄関の鍵を開け、家の中へと駆け込み、無造作に鞄を放り投げて雪を呼ぶ。すると、雪はリビングのほうからものすごいスピードで走ってきたかと思うと、勢いを弱めることなくわたしに飛びついてきた。

 なんだかご満悦な様子の雪を抱え、先生のもとへ。

「先生!」

「ニャー!」

 わたしが先生を呼んだのと、雪が鳴いたのとは、ほぼ同時だった。

「おっ、写真で見るよりも成長してんな。 雪っ!」

 名前を呼ばれ、わたしの腕からするりとしなやかに降りると、雪は一目散に先生のところまで走っていった。そうしてそのまま腕に抱かれると、嬉しそうに、その顔を先生の胸元に擦りつけていた。

 一緒に暮らしてはいないが、雪の中で先生は特別な存在なのだろう。あの雨の中、ずっとそばにいてくれたことを、今でも覚えているに違いない。

「ほんと、良かったな。星ちゃんに連れて帰ってもらえて」

 雪の両脇を抱え、先生は自分の鼻先と雪のそれを突き合わせた。ペロッと、雪が形のいい先生の鼻を舐める。くすぐったそうに目を瞑ると、先生は声を出して笑った。

 そんな情景を目の当たりにし、自然と頬が緩む。

 しかし、雪をわたしの腕へと戻した先生の次の言葉によって、わたしは一気に冷たい現実へと引き戻されてしまった。

「実習期間中にもう一度雪に会えて良かったよ。……安心した」

「あっ……」

 そうだ。先生が学校にいられるのは、あと一週間だけ。

 もう〝先生〟と〝生徒〟という関係ではなくなってしまう。そうすれば、もう先生とは会えなくなってしまう。

 そんなことを考え出すと、さらに不安に拍車がかかった。

「じゃあ、また来週。今日はいろいろありがとな」

「あ、いえ……こちらこそ、ありがとうございました」

 大きく手を振りながら、先生は職員寮への道を歩いていった。

 わたしもどうにか笑顔を作って手を振ったけど、先生が向きを変えたあとは、その背中を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

 来週、結城先生との関係が終わってしまう。それは、わたしにとって、なにより恐ろしいことだった。

「……っ」

 雪を抱いた腕の力を、ギュッと強める。


 ああ、そうか。

 わたしはきっと、結城先生のことが——好きなんだ。

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