第1話
タイムリミットの八時三十分まであと七分。代わり映えのない騒がしい朝の登校風景。
普段通り昇降口へと入り、普段通り靴を履き替えていたところ、肩を叩かれたと同時に横から声をかけられた。
「ひかり~、おっはよ!」
「
わたしの名前は
で、こちらの見るからにフレンドリーな女子は、中学時代からの親友、
ふわふわとしたセミロングの髪に、クリクリとした犬のようなつぶらな瞳。人懐こい結花の性格は、人見知りのわたしとはてんで真逆だ。
私立
制服は、男子が学ラン、女子がセーラー服と、全国的に見てもおそらく珍しい。衣替えを済ませた今、男子は白いカッターシャツに紺色のズボン、女子は白いセーラー服に紺色のスカートを着用している。男女とも胸ポケットには校章が刺繍されており、女子の胸元には、ブルーのリボンが飾られてある。
「今日から教育実習の先生が来るらしいよ!」
「そうなんだ。教育実習ってことは、大学三年か四年だね」
「そだね。かっこいい男の先生だったらいいのにね~」
「わたしはどうでもいいよ」
「なんだよなんだよ、ひかりぃ! 夢がないぞ、夢がっ!」
そう言ってキャラキャラと笑いながら、結花はわたしの背中をバシンと一発しばいた。思わず仰け反り「痛いっ!」と叫ぶ。ジンジンと広がる痛みは、結花の手のひらをかたどっているに違いない。
中学のときから、彼女のスキンシップはかなり激しかった。廊下を歩いているといきなり後ろから乗りかかられたり、(いつも高い)テンションが(さらに)上がると抱きついてきたり……この他にも、その方法はいろいろ存在する。
先日、高校初めての中間テストも終わり、総体で運動部が激しく燃え盛っている六月。
吹奏楽部に所属しているわたしは、「どこかの運動部が全国大会にでも出場すれば忙しくなって嫌だな」などと、はなはだ可愛げのないことを考えていた。結花の情報によれば、ここの運動部は、そこそこ成績が良いらしい。
また、同じく結花の情報によれば、今日から教育実習生が来るとのこと。わたしはこういう情報にすこぶる疎いので、いつも彼女から言われて初めて知ることが多い。
実習生に関しては、べつにそんなに期待もしていないし、興味もない。どうせ二週間もすればいなくなる、たったそれだけの付き合いなのだから。
まったく……自分で自分に呆れてしまうほど、わたしは本当に可愛げがない。
教室に入ると、もうすでに、まだ見ぬ教育実習生の話で持ちきりだった。女子はイケメンの男性実習生を期待しており、男子は男子で、もちろん美人の女性実習生に期待をしていた。
「うわ~、みんなすごいね~!」
「いや……すごいってか、怖すぎるよ」
この熱気についていけず、わたしは静かに窓際の自分の席に着いた。窓ガラスに映った自分を見て、なんて辛気くさい顔をしているんだろうと自嘲する。
白いセーラーの襟に沿って伸びている黒い髪。そういえば、今年に入ってまだ一度も美容院に行っていない。前髪は自分で切ったりしているけど、後ろはそのままだ。いつの間にやら、背中の中程の長さにまでなってしまっていた。
梅雨に入ったということもあり、窓の外では、しとしとと雨が降り続いている。校庭の隅にできた水溜りに雨粒が落ちては、途切れることなく波紋を作っていた。
今日みたいな日は、決まってあの日のことを思い出す。
机に肘をついて物思いに耽っていると、ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴り、それからしばらくして担任が入ってきた。
白いブラウスに黒のセミフレアパンツを身に纏ったそのスタイルは、今日も今日とて抜群である。
ひとつにまとめた長い髪。口元の色っぽい
「はい、席つけー。出席とんぞー」
しかし、この口調からもわかるように、非常に男勝りで威圧感がある。目つきも悪い。……が、校内でも大変人気の高い先生のひとりで、担当科目である数学の教え方の定評は確固たるものだ。
「欠席者ゼロ、と。ウチのクラスは優秀だな。ほんじゃあ、ホームルームを始める。……の前に。もうみんな知ってると思うが、今日からウチの学校に何名かの教育実習生が来ている。で、一年生ではこのクラスと隣のクラスに一名ずつ来ることになった。さっそく紹介したい。入ってくれ」
百合ちゃん先生に呼ばれて教室に入ってきたのは、黒のダークスーツに身を包んだ、ひとりの男性。
その姿を見た瞬間、わたしは息を呑んだ。
「おはようございます。今日から一ヶ月間お世話になります、
なんと、噂の教育実習生は、あの日ずぶ濡れになっていた彼だった。
端正な顔立ちに、細身ではあるが、適度に引き締まったスポーティな体格。加えてあの高身長。期待通り、否、それ以上のルックスに、女子生徒の心はがしっと鷲掴みにされてしまったようだ。
教室内が、一気にパステルカラーに染まる。
男子生徒はというと、女性実習生ではないことに多少がっかりしたみたいだが、女子生徒同様そのルックスと、さばさばとした物言いに、なかなかの好感を示していた。
それにしても一ヶ月か。思ったより長いんだな。
「結城先生は世界史担当だ。大学でも非常に優秀で、海外でのボランティア活動の経験も豊富だそうだ。いろいろ話を聞くといい」
「……神崎先生、それは評価しすぎです」
「まあいいじゃないか。あー、それから天文学にも精通しているらしい。興味のあるヤツは教えてもらえ」
一瞬、百合ちゃん先生の声が、遠く聞こえた。
天文学——できることなら、今はあまり耳にしたくなかった単語だ。
高校に入学して間もなく、父が亡くなった。
入院期間中、一時帰宅と入院とを何度か繰り返してはいたものの、父は入学式に出席してくれた。あの日の約束を、守ってくれた。
だが、無情にも病状は悪化し、その後わずか二週間で帰らぬ人に。
あとになって、父が入学式に出席できたのは、先が長くはない父の強い希望を主治医の先生が汲んでくれたからなのだと知った。
父は、国立天文台の研究室に所属する博士だった。
仕事のことを話す父は本当に楽しそうで、そんな父のことを、わたしは幼いころからずっと誇りに思ってきた。きっと、まだまだ働きたかったはずだ。
大好きな父。父が愛した天文学。
わたしはすごく複雑な気分になった。
「天宮」
「……へ? あ、はい」
悶々とそんなことを考えていると、突然百合ちゃん先生に名前を呼ばれた。虚を衝かれ、なんとも間抜けな返事をしてしまう。
「結城先生、あいつがこのクラスの学級委員の天宮だ。何かあったら、あいつに言ってくれ」
「あれ? 君は確か……」
彼もどうやらわたしに気がついたようで、わたしの顔を凝視してきた。
「なんだ、知り合いか? じゃあ話は早いな。さっそくだが天宮。このあと結城先生に校内案内を頼む。 ホームルームはここまでだ」
あいかわらずの強引さで、グイグイと話を進めていく百合ちゃん先生。
ちょっと待ってよ。まだ心の準備ができてないよ。……などと心の中でバタバタしていると、わたしの席まで結城先生がやってきた。
天を仰ぐように、その顔を見上げる。
「よろしく、天宮さん」
「あ……よろしく、お願いします」
こうして、急遽一時間目に設けられた自習の時間を利用し、わたしは結城先生に校内を案内することになった。心の準備は完了しそうになかったため、観念し、二人で廊下へと向かう。
この学校の主な建物は五棟。どのコースで案内するのが一番効率的か思案した結果、とりあえず今自分たちがいる南校舎からスタートし、中校舎、北校舎、体育館、そして歴史記念館の順に回ることにした。
三年前に校舎を全面的に建て替えたばかりということもあって、昇降口を入ってすぐのホールに吹き抜けがあったり、窓に備えつけられたシェードが自動式だったりと、近代的な雰囲気を随所に醸し出している。
並んで歩いていると、結城先生の身長に改めて圧倒された。わたしとの差は、おそらく三十センチくらいあるだろう。
「あのときはありがとう。ほんと助かったよ」
「あ、いえ……」
「それにしても驚いたな。まさかここで会えるなんて」
そうでしょうとも。わたしもですもの。
こんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、先生の怒濤の質問攻めが始まった。
「あのネコは? 元気?」
「はい、とても」
「なんて名前にしたの?」
「雪、です」
「おー、なるほど。あいつ真っ白だったもんな」
すぐさま見抜かれてしまった。
真っ白だから〝雪〟だなんて、我ながら実に安直だったと思うけれど、ほかに浮かばなかったため、それに即断した。
「ところで、天宮さんは下の名前……これなんて読むの? セイ?」
手に持っているクラス名簿を眺めながら、結城先生にこう尋ねられた。ある意味お約束だ。
「ヒカリです」
わたしの名前は振り仮名をうっていないと、絶対と言っていいほど読めない。〝星〟と書いて〝ヒカリ〟。昔は、もっとわかりやすい名前にしてくれれば良かったのに、なんて不貞腐れたこともあったが、今では父が付けてくれたこの名前を、とても大切にしている。
「へー! いい名前だね」
「……え?」
思わず、目を丸くした。
正直、こんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもみなかったから。
今まで名前に関しては、「変わった読み方だね」とか、「難しいね」といった、けっしてポジティブとはいえない反応をされることのほうが圧倒的に多かったのだ。
「あ……ありがとうございます」
だから、結城先生のこの言葉は、素直に嬉しかった。
「あっ! なあ、天宮さん。雪の画像とかない?」
と、ここでいきなり話題を雪のほうへと戻された。スピーディーな展開に、必死でついていく。
「え? ありますけど……」
「また、見せてもらってもいいかな?」
なるほど、あれだけ雨に打たれながらもずっとそばに寄り添っていたのだから、気にならないはずがない。それに、こんな無邪気な顔で言われてしまえば、断ることなんてできなかった。
「はい。パソコンに入ってるので、また持ってきますね」
「ありがとう。……あっ、そうだ! あのときの傘、返さなきゃな」
わたしの快諾ににこりと笑ったかと思うと、急にあの日受け取った傘のことを思い出し、慌てた様子の先生。
その目まぐるしい表情の変化が、なんだか子どもみたいで可笑しかった。
「気にしなくていいですよ。持っていてください。この時期は必需品ですから」
あの傘は、わたしの中ではもう完全に先生のものだ。あげたことを後悔したことなんて一度もない。
「ほんとに? なんか悪いな。……じゃあ、ありがたくいただきます」
「はい」
この一時間、まるで人見知りであることを忘れてしまっているかのように、わたしは結城先生と会話を続けながら校舎を回った。
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