あまつそらに

那月 結音

プロローグ

 何かに、誰かにすがりたいと願って伸ばした手は、ただ空を切るだけ——



 これは、わたしが高校一年生だったころのこと。

 当時は、周囲と自分との間に壁を作り、素直に人に甘えることも頼ることもできなかった。

 心を開いた相手に鬱陶しがられ、距離を置かれてしまうことを、極端に恐れていたから。

 

 あの人に、出会うまでは。





 ❈ ❈ ❈





 高校入学を一週間後に控えた四月のある日。

 三ヶ月ほど前から入院している父のお見舞いに行った、その帰りの出来事だった。

 病院に着いたとき小降りだった雨は、一時間もしないうちにその勢いを増し、本降りへと変わっていた。

『卒業式出られなくてごめん。入学式は必ず行くから』

 病室で言われたこの言葉を、頭の中で何度も反芻する。自分の身体のほうがつらいはずなのに、それを微塵も感じさせず、いつも娘のわたしのことを一番に気遣ってくれる父。その優しさに、この日も胸が締めつけられた。

 最愛の父が病に倒れたのは今年の一月。年が明けてすぐのことだった。

 仕事から帰るやいなや、急に身体の不調を訴え出した父のただならないその様子に、慌てて救急車を要請した。

 数分後、駆けつけた救急隊員により近くの総合病院へと搬送されると、そのまま入院となった。

 不安と恐怖に苛まれているわたしに、追い討ちをかけるように医者から告げられた病名——癌。

 目の前が真っ暗になった。

 医者の説明を一緒に聞いてくれていた伯父と、そのときどんな会話を交わしたのか、まったく覚えていない。

 父がいったい何をしたと言うんだ。怒りが込み上げてくるも、誰にそれをぶつければいいのかわからない。これ以上に不条理なことなんて、この世にはないと思った。

 紺色の傘を差している右手に雨粒の衝撃を感じながら、重たい足を家へと運ぶ。雨に散った桜の花びらを踏みつけてしまうたび、胸にぽっかりと空いた穴がさらに広がりをみせた。そのうえ、全身が倦怠感に襲われ、頭頂部で結ったお団子でさえも、今のわたしにはずしりと圧しかかってくる。

 そんなとき。

 不意に目をやった、とある街区公園の一角で、その場にしゃがみ込んでいる一人の男性の姿を捉えた。

 彼はこの雨だというのに傘も差さず、段ボール箱に入った一匹の真っ白なネコを、愛おしそうに見つめている。

 見たところまだ二十代前半だろうが、ネコを優しく撫でるその姿が闘病中の父と重なり、気づけばそちらへと歩みを進めていた。

「あの……」

「ん?」

「これ……」

「……え?」

 振り向いた彼は、その高い鼻や、少し目にかかった長めの茶色い前髪から水を滴らせていた。羽織っている薄いグレーのスプリングジャケットは、湿って黒っぽくなってしまっている。

 わたしは、自分が差していた傘を、ずぶ濡れになっている目の前の彼に差し出したのだが、彼は少し驚いた様子でかぶりを振ると、この申し出を断った。

「いいよ、君が濡れちまう」

 彼のこの反応は、当然といえば当然だろう。けれど、わたしは傘を持っている自分の右手を、彼の顔の前にずいっと突き出した。

「大丈夫です。わたし、バッグの中に折り畳み傘があるから」

 雨に打たれるのが嫌なわたしは、いつも折り畳み傘を携帯している。とはいえ、通常の傘に比べて小さいそれでは、十分に雨を凌ぐことができないため、あまり気乗りしない。

 が、この際仕方ない。

「いいのか? ありがとう」

 躊躇いがちにわたしの手から傘を受け取ると、彼は眉を下げて申し訳なさそうに笑った。

「……そのネコ、どうするんですか?」

 バッグの中から水色の折り畳み傘を取り出して、カチッと開く。そして、彼の隣に腰を下ろすと、持っていたコットン素材のハンドタオルで、濡れたネコを拭いてやった。

 生後かなり経っているのだろうか。〝仔猫〟と呼ぶには、そのネコは少し大きい気がした。

「……俺、マンション暮らしだから飼えないんだよ。だけど、ほっとくと飢えと寒さで死ぬのは時間の問題だからな。なかなか離れらんないんだ」

 だからって、ずぶ濡れになりながら、いったいいつまでこうしているつもりなんだ、この人は。

 見るかぎり、この場所には、十分や二十分といわず滞在していそうだ。

 雨の強さが、さきほどよりもさらに増してきた。昼間にもかかわらず、徐々に体感温度が下がっていく。あたりには、人気ひとけもない。

「……わたし、連れて帰ります。このネコ」

「えっ? 大丈夫なのか、そんな急に決めて。親御さんとかは……」

 この発言に、彼はわたしの家の事情を案じてくれた。誰に相談することなく即決したわたしを心配しているのだろうことは、すぐにわかった。

「大丈夫です。お父さんも、動物は大好きだから」

 可哀想なこのネコをどうにかしてあげたいと思っているのは事実だ。父が動物好きなことも。

 とはいえ、なぜとっさにこんなことを言ってしまったのか。実は、自分で自分に驚いたりしている。

 肝心の父は、家にいないというのに。

「そっ、か……ありがとな」

 自分のネコでもないのに、彼はわたしにお礼を言った。この一言で、彼の人となりを垣間見ることができた気がする。

「良かったな、お前。家族ができて」

 嬉しそうな声。小さな頭を撫でながら笑った彼の表情は、まるで幼い少年のようにきらきらしていた。

 家族——そうか。わたしは、このネコに今の自分を投影してしまっていたのかもしれない。

 父子家庭のわたしは、唯一の家族である父が入院している現在、家でひとりきりの生活を送っている。といっても、もともと仕事が忙しい人だったので、それ自体は珍しくない。

 しかし、今の状況はこれまでとは違う。ひとりでいることに加え、いつどうなるかわからない父の容体を憂慮し続け、家で怯える毎日を過ごしているというのが実情だ。

 わたしのことを気にかけ、頻繁に連絡をしてくれる伯父夫婦にも本当に感謝しているが、負担になりたくないとの思いから、なかなか甘えられずにいた。もはやこれは、ある種わたしの〝癖〟みたいなものだ。

 折り畳み傘を脇で支え、段ボール箱ごとネコを抱えて立ち上がる。すると、わたしにつられて彼も立ち上がったのだが、その身長の高さに思わず目を見開いた。

 ……足の付け根の部分が、異常に高い。

 しゃがんでいるときは気づかなかったが、おそらく百八十センチはゆうに超えている。ともすれば、百九十センチ近くあるかもしれない。

「ところで、君ンってここから近いの?」

「……」

 いまだ身長のことを驚愕中なのにあいまって、唐突な彼のこの質問に、一瞬思考が停止してしまった。けれども、そんなわたしの頭が再起動するよりも早く彼が言葉を続けてくれたおかげで、その真意は理解することができた。

 なんだか誤解されてしまったみたいだけど。

「あっ、いや、変な意味じゃなくて! やっぱこの傘返すよ。折り畳み傘じゃ、十分に防げないだろ?」

「……あなたの家は近いの?」

「俺ン家? 電車でここから二駅なんだ」

「じゃあ、そのまま差して帰ってください。わたしの家すぐそこだから。その傘、あげます」

「いいのか?」

「はい。これ以上濡れたら、風邪引いちゃいますよ」

「サンキュー。……優しいんだな」

 そう言って、わたしの頭をくしゃっと撫でたその手のひらは、とても大きくて温かかった。触れられた部分が、しだいに熱を帯びていくのを感じる。

 彼は、「じゃあな」と、この天気とはまるで正反対の屈託のない笑顔で手を振ると、踵を返して行ってしまった。

 その場に残されたのは、わたしと一匹の真っ白いネコ。愛らしい声で「ニャー」と鳴きながら、宝石のような青い双眸で、わたしのことを見つめてくる。

 今日からこの子とともに生活していくのだと思うと、とたんに愛おしさが込み上げてきた。自然と顔が綻ぶ。

「今日からわたしたち家族だよ。よろしくね」


 降りしきる雨の中。

 この子——ゆきが、わたしと彼を繋いでくれた。

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