今日が僕らの命日だとしたら

碧瀬空

悲劇の序章


 僕、浪川透夜と由野縁は、婚約関係にある。

 あと一ヶ月もすれば、挙式だ。

 婚約指輪も渡せたし、

 今日のデートで付けてきてくれるかな。


 待ち合わせは十時十分、少し早すぎただろうか、

 今は九時四十分だ。


 初デートで行った喫茶店が

 僕らの待ち合わせ場所になっている。

 壁に寄りかかり、腕時計で確認してみるが、

 十時十分はまだ遠い。

 何もない自分の左薬指を眺めながら、

 そう遠くない未来を妄想しては、

 にやにやしていた。



 すると、前方から聞き覚えのある声の主が、

 パタパタと向かってくる。

 しかし、胸を弾ませて見上げて目にしたのは、

 トラックが彼女に体当たりし、吹っ飛ばされ、

 宙に舞う彼女の姿だった。


 重力に引き戻され、地面に叩きつけられた彼女の身体は、

 トラックに轢かれ、悲痛な音を上げていた。



「うわぁぁぁ、轢いちまったよ……」



 どこからか、そんな声が聞こえてきたが、

 もうどうでもよかった。

 どんな理由であれ、悪意がないにしろ、関係ない。


 目の前には、到底、息なんてできそうにない

 状態の縁が横たわっている。

 犬に引き裂かれたぬいぐるみみたいにぐちゃぐちゃだ。

 手足がおかしな方向を向いていて、

 身体を覆い尽くすほどの紅い紅い血潮の海。


 せっかくの綺麗なコートとワンピースが台無しだ。



「あぁほら、そんなところで寝そべっていたら、

 風邪を引いてしまうよ」



 僕はふらふらと縁の躯に歩み寄り、

 抱き抱えようとする。



「あれ、おかしいなぁー。上手くだっこできないや。

 縁、ちょっと太ったんじゃないの!?」



 周囲の人が僕を可哀想な目で見てくる。



「ねぇ、縁。起きてよ、起きてってば!

 ほら、縁が好きなケーキ屋さんに

 連れて行ってあげるから…………

 ねぇ、お願いだよ――」



 生温かった液体が

 少しずつ冷え固まっていくのを感じた。

 頬に貼り付いたそれは、乾いてしまって、

 上手く拭えない。

 なんとか持ち上げている上半身も、

 だんだんと腕に重みがのし掛かってくる。

 温かくて柔かったはず縁の身体、

 冷たくて硬くなっていくよ。

 まるで、ロボットみたいに

 ――嫌だ、そんなの嫌だ。



「ごめんね、縁。待っててね、

 今、目を覚まさせてあげるから」



 そう言い残し、

 僕は何も映じなくなった縁の瞳を見つめ、

 もう一度だけ抱き留めてから、その場を去った。





 既に僕は気が狂っていたのだろう。


 救急車を呼ばなかった。

 いや、それすらも頭に

 浮かばないほど冷静さを欠いていた。




 僕が向かった先は、曰く付きの祠だった。

 なんでも、願いが叶う代わりに

 重い代償を取られるらしい。

 いかにも、怪しげな噂だ。

 ただそれでも、僕はそれに縋るしかなかった。


 あんなに、身体がずたずたじゃ、

 普通の方法ではまず助からない。

 だから、その祠に願うほかなかったんだ。



「っは、はあ、やっ、と着いた……」



 僕は祠の前で、

 倒れ込むように土下座をしながら、懇願した。



「どうか、どうかお願いします。

 縁を、僕の婚約者の命を救ってください

 ……どんな代償だって払いますから――」



 言葉にして、ようやく突きつけられた現実に、

 時差が生じた涙を溢れさせた。

 その哀しみの水分は、

 やがて小さな祠に降り注がれた。


 ポチャン、水滴が垂れる音はすれど、

 辺りに水面なんて広がっているはずもなく、

 僕は現実を思い出して、泣き喘いだ。



「おい」



 顔を上げてみても、誰もいない。

 ショックで幻聴が聞こえてしまったのかな。

 そうだ、願わなきゃ。



「お願いします、縁を助けてください。

 縁を、生き返らせてください――」


「だから、聞こえてるって」



 またもや、幻聴かと耳を疑い、

 左右に頭をブンブン振り回していると、

 再び、声がする。



「後ろだって、うーしーろ」



 恐る恐る振り返ってみると、

 真冬真っ只中のこの時期に

 浴衣という奇妙な格好をした

 男性が僕の肩に手を乗せていた。



「うわぁぁあああ!」


「うっさいなー。

 だから、さっきから呼んでたのに」


「は、はい、すみません」



 相手に会話の主導権を握られ、

 僕は大人しくするしかなかった。



「改めまして、俺がここの祠の主です。

 よろしく……いや、

 よろしくってのも何か変か。まあ、いいや」



 僕は、彼が祠の主であるかどうか

 以前に気になることがあった。



「その、寒くないんですか?」



 すると、彼は吹き出すように笑い出した。



「っはっはっは!

 俺に向かってそんなこと言うの、お前が初めてだよ。

 自分の願いを叶えてもらおうと必死なときにさ」



 彼はなおも、ケラケラと笑い続けている。



「そ、それは――」



 しかも、僕が否定の言葉を口にしようとすれば、

 それにも口を挟んできた。



「まあ、質問には答えておくかな。

 寒くないよ。俺は人間じゃないから、

 感覚器官とか、痛覚ってものが備わってない。


 いつもは、

 季節に合わせて衣替えしてるんだけどな。

 最近暇だったし、

 しばらく実体になってなかったから、必要なくてな」



 彼はペラペラと答えてくれたが、

 所々に不思議な言葉が織り込まれていた。


 「実体」って……それはまあそうなんだろうか。

 彼は、彼の言ったように人間ではない、

 祠の主なのだとするならば、

 物理的な身体は持たないはずだから。


 こんなことを考えている場合ではなかった。

 今は、一刻一時を争うときだ。



「あの、それで、

 あなたは僕の願いを叶えてくれますか?」



 すると彼は不敵な笑みを浮かべて、

 さらりとこんなことを口にした。



「この世界のお前の婚約者の身体は

 完全に死を迎えてしまっている。

 よって、蘇生することはできない。

 身体なしに、浮世で生きられはしないからな。

 しかし、向こうの世界の婚約者はまだ瀕死で、

 命を留めている。

 さあ、どうする?」



 どうしてそんなことを知っているのだろうか。


 彼は厭な笑い方で僕を見つめて、

 その返答を待っている。

 いや、期待している、とでも言うべきだろうか。

 何にしろ、あまりいい気持ちのするものではない。

 一体全体、何を期待することがあるだろうか。


 いやいや、そんなことより、考えなくては。

 僕の返答次第で

 縁の行く末が変わってしまうのだから。



 頭によぎる紅く広がる縁の飛沫、

 無機物のように彩を失い、硬くなっていく身体。

 もう二度と戻らない、取り戻せない、声と体温。


 だったら僕は……



「――を助けたい」



 彼は呆れと怒りを混同させた様子で、

 僕に威圧をかけてくる。



「……どうしても、こちらの世界の

 婚約者を生き返らせることはできないぞ」



 その言葉を口にされる度、胸が激しく疼く。

 分かっている、分かっているけれど……

 再確認させられてしまう、縁はもう死んでいるのだと。

 目の前で起きた出来事なのに、

 頭では理解しているのに、心が受け入れられない。



「それでも、救いたい」



 だから、無理を承知でこうして駄々をこねて、

 少しでも現実を変えられないかと模索している。



「第一、どうしてそいつに固執するんだ?

 たかが、女一人のために必死になって。

 俺に願うってことの意味、

 分かっていない訳でもなさそうだしな」



 彼は、あまりにも自然にそう訊いてきた。



 「たかが」なんて単語まで使って。


 縁は僕にとって、

「たかが」な存在じゃないから、こんなにも苦しいのに。



 深く息を吸い込む。捲し立てるために。



「……僕にとって、縁はたかがな存在じゃないんです。

 彼女は、僕に光を与えてくれました」


「は?」



 彼は、訳が分からないとでも言いたげだった。

 だけど、この言葉は決して大袈裟ではない。

 だから、語らせてもらおう。



「縁と出逢った頃、僕は周囲に流される人でした。

 そして、出逢った当初に言われました。

『周囲に流されるのが好きなの?』って。

 はっきり言いますよね。

 それでも、僕にはそれが衝撃的だった。

 そんなことを言ってくれたのは

 彼女が初めてだったから、特別な感情を抱いたんです。

 その指摘以来、自分で考えて、意見も言って、

 行動するようになりました。


 もちろん、彼女に思慕を寄せるようにもなって、

 アプローチも試みました。


 彼女、縁と出逢って、

 僕は『流されやすい人』から

『一途な人』に変われたんです。

 だから、彼女はある意味、僕の『恩人』なんですよ」



 熱弁を振るう僕に対し、

 彼は冷めた目で言葉を吐き捨てた。



「そんなことくらいか。

 誰かの一言くらいで変われるくらいなら、

 元々変われる力を持っていたんだよ。

 強いて言えば、

 お前はきっかけを待っていたにすぎない」



 唖然とした。


 光と信じていたものを壊されたように感じた。

 それでも僕はその言葉に救われたと思っていたい。

 そうじゃなきゃ、淋しすぎる。



「あなたが何と言おうと、僕は救われました」



 不意に、彼の苛立った表情が消え、愉快そうに笑った。



「片方の婚約者を諦めるなら、話は別だがな」



 彼の言葉に僕は怪訝な表情を浮かべる。



「どういうことですか?」



 聞き返すのは彼の手の内に

 まんまとはまっていくようで解せなかったが、

 致し方ない。



「どうって、言葉通りだよ。

 どちらかを見殺しにすれば、もう片方の命は助かる。

 もちろん、その場しのぎにしかすぎないが。

 その代わり、お前がさらに代償を払うって言うなら、

 延命することも可能だ

 ――さあ、どうする?」




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