第3話 悲鳴の男の人

「自分の世界が生まれ変わる瞬間、それはいかなる時でも涙が止まらない物」


この言葉は6歳の時に悟った胸の秘事。思いもしなかった、なんの心構えもなしに迷い込んでしまったこの路地裏は、地獄だった。




「おら!早くしろ、荷物運ぶのに何分かかってんだ!!」


「す、すみません……!そんな物をこちらに向けないで!ごめんなさいごめんなさい何でもしますから……」


「うっせーーー!」


バチンと鈍い音がした、怒号と悲鳴がキャンキャンと鼓膜に響いた。悲鳴の男の人の身体がみるみる赤くなり、黒くなる。ガリガリのその人は項垂れピクリとも動かない、動けない。あまりにも悲しいので涙がボロボロ出て来るのがわかった。


怒号の男の人と目が合った。その場で立ち尽くし涙を流している私をみて彼の顔色は見る見る青くなる。


「ヒェ……女性だ、殺される殺される!ごめんなさい!」


赤い液を引きずったそれをバトンのようにし、怒号の人は行ってしまった。私は震える足でガリガリで悲鳴の男の人の場所へ向かった。口から出てはいけない物を捻り出すように、喉がギュルギュルとした。


「ア……ァ、、」


「あ、だめ、慈悲ヒール!」


咄嗟に回復魔術を使った。回復量が予想以上で手先がピキリと痛んだ。けれどその甲斐はあって、赤黒い悲鳴の人は癒えていった。喉のギュルギュルと手先の痛みが完全に止んだころ、悲鳴の人は話しかけて来た。


キズしか癒えない。相変わらず身体はガリガリだし、整えたら綺麗になりそうな明るい茶髪はキューティクルが死滅している。見たところ私よりも年上だけれどまだ成長期っぽい、かわいそうに。


「あ、ありがとうございます。貴女は良い人なのですね」


「どうして、あの怒号の人はこんなに酷いイジメを……」


悲鳴の人は一瞬怒号の人が誰だかわからないように私の言葉を復唱していたけれど、さっきの人だとわかったのか、端の悪そうに答えてくれた。


「すみません、彼は私の上司です。私は少々鈍臭いところがありまして……よくこうしてストレスの捌け口にされてるのですよ」


驚いて目を見開いた。こんなことが慢性的に起きているなんて、お上の政治家さんは、は何をしているの……!


「いつもは私めが自分で回復魔術を使っていたり、天使様や救済組織の皆様に助けていただいたりしているのですが、まさか通りすがりの女性にまで迷惑をかけるなんて……」


天使?救済組織?そうか、この惨状を何とかしようと奮闘している人達もいるのか、よかった。いや彼の様子を見てみれば全然良くはないけれど。かける言葉に迷い会話が暫く途切れてしまったけれど、彼の方から再開してくれた。


「申し遅れました、僕は高橋勇弥たかはしいさみと言います。ところで、ここは八王子市のスラムの中でも最下層の地。見たところ非常に育ちのいいお嬢様とお見受け致しましたが、どうしてこんなところに?」


あ、そうだ。私は迷子になってこんなところまで来てしまったんだ。私が包み隠さず話すと彼、高橋勇弥はああなるほどと言い、私に魔術で作った地図をくれた。かなり土地勘があるのだろう、とても細かく記載されている売り物にしても恥ずかしくない地図だ。気持ちはとてもありがたかった、でも……


「ごめんなさい、この地図で北はどちらですか?」


「えっと……貴女の角度からですと、丁度左ですね。それと、大変申し訳難いのですが、地図を逆さに読んでますよ」


「え?左が北で、逆さ?つまり、、右が北?だから……どうなるの?」


「ああ、方向感覚が「本物」なんですね」


「ほ、本物ってどっち??」


「落ち着いて下さい」


駄目だ、地図にめっぽう弱い。第一聞いといて何だけど北に何があるのかもわからないし、そもそもみんながどの方角にいるのかも分からない。


「その、、なんか、ごめんなさい」


暫しの混乱の後、私は黙って俯いた。何故か高橋くんに謝られた、なぜか。高橋くんは次なる手を考えてくれている見たいだけれど、善意を方向音痴で踏み躙った私はもう罪悪感で潰れてしまいそうだ。


「高橋さん、どうしたの?」


背後の方から私たちに声をかけてくれる青年が現れた。最初に目に入ったのは猫のぬいぐるみだ、いや失礼正しくは猫のぬいぐるみを持った男の人だった。ここに住む男の人はみんなガリガリなのかな?この人もすっかり痩せこけて髪は色素が抜けて薄い金色になっている。指も長いだけで、絆創膏だらけでよく見れば骨張っている。千代田区で平和に生きてきた心臓の弱い子が見たら後ずさってしまうほどだ。


「関根さん、どうやら彼女迷子のようでして……」


「ああ、どうりで」


勝手に関根くん?とは高橋くんが話を進めている。結局長時間ここにいるのは危ないと関根くんが送ってくれることになったそうだ。ついて来てくださいと関根さんが歩き始めたが、私にはやるべき事がある。


「私、伊藤妃芽花って言うんだ!また会おうね。あと、今日はこれで美味しい晩御飯食べてね」


お財布のお見上げを買うためのお金の中から2000円を抜き出して、高橋くんに持たせた。一瞬驚いたような顔をされたけれど、私の言葉を聞いて直ぐに笑顔になってくれた。


「ありがとうございます」


その言葉を聞いた瞬間、私は生まれて初めて同じ10代の男の子とこんなにお喋りをしたと気付いて、急に恥ずかしくなった。あの怒号の人に酷いことされないかな、それ以外でも虐められたらして無いかな……と不安は絶えなかったけれど、今はただ高橋くんに手を振って、関根くんについて行くことにした。

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