山野ねこ 著『白化』感想

天声蹟譜

白を礼賛する/しない者たちの織り成す、上辺ばかりで行動することの愚行録

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 この物語は、主軸となる津室町の捕鯨・イルカ漁を通しそれぞれの人間模様を描き出したオムニバスである。主に現代日本人が登場する。各々捕鯨・イルカ漁(以降便宜上イルカ漁と表記)をどう思っているかの語りによって、それらと読者各々の持つ意識とに何らかの共通点を見つけるだろう。登場人物は、不特定多数の読者の象徴としても映し出されるのだ。

 ところで、主な登場人物が日本人であるために今後の文面も主に日本人に関する説明が多くなるとはいえ、この物語を読み進めていけば日本人に留まらず人間一般が持ちがちな問題に行き当っていくところが、解釈と受容を一層難しいものにさせている。だからこのレビューもとても長い。読者は物語を読むことで、ただ日本人批判を心の中でして一角の有形無形の失望義憤を募らせていればそれで済む訳ではないことに、気を付けなければいけない。


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 イルカ漁に関わったことのない人がイルカ漁を指して他人に感想を表明した人はどれくらい居るだろうか。殆どが選挙でいう浮動層のように、マスコミや学者やSNSで主流な意見を自分のそれと重ねる位で、そのあと独自の意見を持たず特に何も行動したことも無いだろう。大概の人は無関心だからイルカ漁に特に何も言わないのであって、白人と比べて考えが野蛮で発展途上だからイルカ漁に何も言おうとしないのではない。

 ところが、当のイルカ漁に関わる漁師や漁港町の人々もまた、この物語では耐えるという方法でもって同様に何も言わず、イルカ漁と田舎を野蛮視する都会人ばかりが積極的に反対を表明している状況が語られる。

 複数のマスコミが揃って特定の意見を取り上げがちになるのは、マスコミに上がってくる声がそもそも一方の意見になりがちだからというのが理由の一つだ。かくして世間的にイルカ漁反対の声ばかり知られ易くなる。人々のコミュニケーションがまともに機能していない状況下で、各々が「自分の意思が集団のそれと異なっている」ことのリスクを恐れ集団的決定に同意をもたらした結果、全員損する結論を導いてしまうことを、アビリーンのパラドクスという。無関心ゆえに相互の意思疎通がされない状況下で、イルカ漁を排撃する意見に集団的同意を成すというのは危険な行動なのである。ただし、単にだからこそイルカ漁賛成と言っているのではない。感想を言わないという行動自体がまずいのだ。


 日本人は外交が下手くそと評されることがある。確かに、日露戦争の講和会議でマスコミに対し、小村寿太郎は機密を盾に不愛想に対応して反感を買った反面ウィッテは愛想よく対応した、その結果戦争で勝つも交渉で負けてその後の国の不安定化の一因になった。大東亜戦争で敗北が濃厚視され、中立表明を信用しソ連に和平仲介をしようとして貰おうとした、その結果北方領土を侵略された。自らの民族とは違う存在に対する苦闘や克服の経験を、他の国の人では多民族国家ゆえの歴史を踏まえることが出来たが、日本人の場合白村江の戦い敗戦・蒙古襲来・幕末・大東亜戦争敗戦の、過去4度しかまともに出来ていない。そしていずれにせよ、日本人は自分の国を持ち独立を保つことができた。エジプトによる圧政やバビロン捕囚やホロコースト等民族隷従を何度も味わわされたユダヤ人とは大きく違う。日本人は、違う存在が望まない行動を取られたときどうすればいいかのシビアな経験が未成熟なままでこんにちまで来てしまった。

 いや、日本人は異物を結構許さない質ではないか、と思うかもしれない。ある意味ではそうだ。日本の風土とは災害が起こり易いものであり、従い日本人は民族の危機に何度も見舞われてきた経験がある。だから災害に対処し生存する方法として、皆で有機的に協力し合い災害を乗り越えるという術を持ち出した。その協力団結の妨げになる異物の存在は、すなわち生存の術を綻ばせるものであり若しかすると全滅の端緒という恐れに見做されるゆえ、排撃しようとする性状の道筋も付いて加わる。異物とは人や物に限らない、とにかく好ましからざるもの=問題という概念だ。こうして日本人は災害だけでなく、問題が存在することを調子悪く感じ、問題そのものを排撃しようとする思想が固まっていった。

 例えば、外国から見て日本人が妖精呼ばわりされているのを知っているだろうか。小柄で英語で話しかけると逃げられて旅先では問題を起こさないから、だそうだ。それは、問題を起こすとそれが全滅への恐れに抱え込まれるからこそ、己の失敗や恥を見せることも不満を口にすることもしたくないからなのだ。でもそんな事情など知らない外国人にすれば、抗議が少ないぶん主張が弱い人種に見えるだろう。一神教の如き神ならざる人間はそれゆえに完璧ではないので、失敗を出すことはむしろ次への道程を造り、果てに巧く行けば日本人らしい(後から問題が発生しないような)細やかな対応や気配りのある物事へ洗練される。だが、失敗をそれ自体が許容しかねる問題として扱われ、そしてその解決解消の為にどれ程のものが代償や犠牲になるのかという未知有り得る景色を見てしまうと、怖れが始まり糾弾が正義と成り、取り組む楽しさはきれに取って代えられる。

 ただし注意すべきは、日本人がいくらとあるものに問題を感知したとは言えども、それが災害のようにあまりにも社会で受け止めるには大きすぎるものだと、問題そのものよりも周辺…問題に影響された物事のほうを改善しようとして手を付け始めることだ。許しがたき異物について、直接手に掛ける場合とは、それが人の手で社会から掃除可能なものに限られる、という条件が付くのである。

 また、土居健郎の『「甘え」の構造』にあるように、日本人の幼児性は他国の人と比べてみると特徴とされる。先程日本は災害が起こり易い風土と説明したが、それでも砂漠などの厳しい環境よりは母なる自然が大分恵みを与えてくれる方であろう。厳しさから出発したユダヤ教やイスラム教や原始仏教はどれも男性原理に基づくが、自然という母に甘えられる環境があれば地母神崇拝な精神と妥協できる。日本の場合はそれに加え、先述したように運命的に民族消滅の危機から逃れられた経験がある。となると今後も状況が神風によって良い方に傾くかもと期待し、流れに身を任せてしまう心性になるのも無理はない。かくして、北朝鮮や中国やロシアらによる日本に対する脅威となる軍事行動について「アメリカ軍が何とか協力してくれるはず」「話せば解るだろうから武力とは絶対悪」という回答が政治から出る。日本人の幼児性は、議論し時に実力行使してでも自らの思いを明確に他者に伝える闘力を去勢してしまうものなので、外交等の分野では致命的な弱点に他ならない。


 そうして日本人を観察してみると、例えば宮崎勤が児童を殺害して逮捕された時も、香川県でネット・ゲームを規制する条例が持ち上がった時も、その都度漫画やアニメやゲーム等を問題視してきた過去がある。それらがサブカルチュアに属し役人やマスコミにとり理解できない存在だったからこそ、他にも買い物やセックスや運動など様々に依存(嗜癖)が起こりえるというのにサブカルチュアばかりを抽出して問題と見做し排撃する。異物はどかさねば日本人が全滅するかもしれないという深層の恐怖に突き動かされるからだ。ここで注目は、依存という大きな問題をどうにかするにあたり、サブカルチュアという周辺に付随していた小さな問題の方を攻撃していることだ。日本人の心性など知らない者から見たらどう映るか。仮令結果としてサブカルチュアの「改善」を成し、(一方で依存の魔の手が様々な分野に伸びていたにせよ)これを収穫だと表明し外交を行ったとしても、色んな意味で笑われてしまうだろう。

 イルカ漁の話を観察してみてもそうだ。よりによってイルカ漁を誇りとしてきたはずの津室人がイルカ漁の文化を説明し反論する雰囲気を見せないどころか、掌を返し恥じて外部に同調し始める感じが湧き始める。それは白人の持ち込んだ問題を大きすぎる問題と取り、これに際すには手に負えないものだと見做したからだ。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』によれば、恥とは若年者にふさわしい感情らしい。奇跡的に甘えが可能なままであってしまった日本人は、男性原理宗教のもたらす超越的で普遍的な規範を相対的に経験しきれていないために、このような主義主張の節操なさが出てしまうのである。


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 ここまでは日本人が日本という風土で生きるにあたって自ら進化させてきた心性の話をした。だがこれに、戦争に敗北し占領統治を受けたという歴史が加わることによって、本来なら問題を起こさないための対処や甘えという良いも悪いも無いといえた心性に、悪い意味が濃く付けられるようになる。


 戦後、GHQによる対日占領政策の最重要課題となったのは、アメリカの安全保障上の目的、日本を白人に反逆しない国にすることだった。占領開始当初、GHQ民間情報教育局が力を入れた、軍国主義思想を排撃し民主主義浸透を目指す情操政策というのが、ウォーギルトインフォメーションプログラムである。訳すと戦争の罪悪感を与えるための情報操作戦略だ。これは、まず無条件降伏の解釈が無交渉の完全敗北を指すGHQとは違い、軍の無条件降伏であって国のそれでは無いから交渉可能だと日本政府が取っていたこと。次に日本軍の残虐行為が報道で周知されていないこと。等の理由で、敗けたのに反省していない日本人に罪悪感の意識を拓殖させるためだったようだ。

 モルデカイ・モーゼの『日本人に謝りたい』によれば、初期GHQを取り仕切っていたのは事実上ニューディール派で、彼らはマルクス主義だった。ちなみに彼らについては当のアメリカ人ですら辟易し、戦後マッカーシズムという大鉈が振るわれ追放されている。従って、政策はマルクス主義の教条に基づいていた。まず教育に○×式思考法(解答法)を導入し問題解決を導くうえでの柔軟な創造力を奪う。次に労働運動を盛り上げ階級闘争の概念を植え付ける。マルクス主義的階級闘争史観は国を憎い天皇・強き上級国民⇔弱き平民の二元にさせ、国内部に闘争を発生させることで、最終的に天皇制の機能停止を図る為に利用された。そうして精神衛生面を虚無にし日常の楽しみをただ金稼ぎに使う思想が強烈になることで、戦後の高度経済成長のバックアップとなり、日本人はエコノミックアニマルと言われるようになった…と説明する。

 かくして、問題を自分から起こさないように口をつぐみがちな心性に、白人に対する罪悪感と精神の虚無が加わることになった。三島由紀夫『檄』のいう、その場しのぎと僞善に陷り自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆく、である。これはますます外交力を弱めることに繋がった。


 ここまでを基に、イルカ漁について津室人が執るべき行動に考えられるのは、(もし漁を存続させるなら)やはり弛みなく根気強く反論することだったといえる。イルカが可哀想という感情論で来られたとしても、これが伝統だと感情的になって返すことは誰でも出来るが、津室人は津室に生きることの尊厳を立て感情を超え、命を懸けるプロフェッショナル性を相手に魅せるべきだった。恐らく、そのプロフェッショナル性こそが最も死守すべき箇所だからだ。

 伝統とは「ある集団の中で規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄や、それを受け伝えること」とされている。だがイルカ漁抗議で思い知らされたように、未来永劫それがそのままの形で存続可能な訳ではない。白人の抗議を受けて漁を辞めれば伝統を守ることができず、それを良しとせず漁に固執し続ければ人望を失い伝統が継承されない、という二律背反をどうするか。漁というものを守らねばならないと義務的に思うぐらいならその感情に嫌悪しつつ惜しまれながら滅んだ方が良いのだろうか。

 伝統という言葉を再考するに、それは過去に於いて続いていたこと、だ。現在の瞬間にはなく、事後的に過去を振り返り連続性を観察できるときに言えるのだ。連続性の有無が未来から振り返られた過去をして観察できるならば、現在の津室人は、真に伝統が終了し連続性が変質したかを判断できる立場ではない、ということになる。さらに、伝統として継承された事柄とは集団の都合に従って設定されたものに過ぎず、事柄たらしめるものは未来から振り返ったときから見た連続性の中で初めて決められる。伝統は何の変化なく静的に在るものではなく、もし白人が来なかったらそのままの姿で漁を行えたかもしれないという動的な偶然の中に在る。一時代の形式を素晴らしいものとありがたがり守ろうとする意志が伝統の継承なのではない。

 従って、イルカ漁の伝統とはイルカ漁行為そのものでなく津室に生きる尊厳に裏打ちされたプロフェッショナル性だと理解したうえで、無形文化として妥協点を見つけ出したり思いの伝達のために外交したりすることが、津室人が執るべき行動だと結論付けられる。


 しかし津室人はこれをしない。身内で寄り集まって愚痴をはき合い、都会を根無し草集団と見下す。更には、自分の子供に津室人として継ぐべきものは何なのかを語らないさままで描かれる。自分の素直も真面目も正しさも役に立たないと嘆くのは、その気質が正しく他者に伝わっていないからだ。日本人なら黙って耐えるさまをすなわち美徳のポーズと理解してくれるかもしれないが、事情を知らない白人は説明がないと理解もできない。現代に生きる快楽殺人ヒトラー集団が悪の会議をしていると視ているだろう。

 ダレン・ブラウン『メンタリズムの罠』によれば、自分がどういう人であるつもりと、実際どうあるかは違う。自分がどんな人間かを人に伝えるつもりなのか、が論点ではない。自分が実際は何を伝えているのか。これが重要だ、という。ただ静かだという理由だけで、その人はあまり感じのいい人ではないという印象を与えているかもしれない。社交的な場で静かでいても愛嬌があるように思わせるには、キレのいい機知や本物の魅力などの多くの補完的な技術が必要だ。これは、本質的には社交的スキルの重要性の話である。

 先ほどから日本人の外交の下手さを述べてきたが、外交という言葉の含む所は、国と国同士の接触交渉にとどまらず、ここではもっと普遍的なものもあると言える。人と人との相互理解だ。白人は津室人に外交を避けられているゆえに、津室人の上辺の行動をとり抗議するしかない。津室人は白人や自分の子孫と外交しないゆえに、伝統や自分たちの考えが理解されていない。津室人は日本人的過ぎたために、自分で自分の首を緩やかに絞めたのだ。


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 GHQによる対日本人情報操作戦略の話をしたが、クリストファー・シンプソン『強制の科学:コミュニケーション研究と心理戦』によれば、戦時中から既に心理戦に関する部局が作られ、多くの社会科学とマスコミ専門家が動員されていた。その中の一人、ポール・ラザースフェルドが『マスコミュニケーション、大衆の動向、支配的社会行動』のなかで、人々を洗脳するには3つの条件を満たさねばならないと説く。曰く①マスコミュニケーション手段の独占、②回路形成、③制度化、だ。まず①から、人々をあるイデオロギーに染まらせるには、そのイデオロギーの肯定情報だけが流れ否定情報を遮断する必要がある。②では、その情報を受ける人間に固定回路が作られれば、そのあとそれに反する情報を何度送っても受け付けなくなる。知識も抵抗力もない若者に特に効果がある。そして③は、①②の効果を永続的にさせるための機関や制度の構築が必要となる。「良心的国民」が自発的に他者へ教育を行うように制度化し、人々が常に説明され教育されることで、イデオロギーも永続できるそうだ。

 マスコミがとあるイデオロギーのプロパガンディストとなることの話をしたが、そもそも、マスコミというのは客観報道などしないし、できない。それは情報編集の必然があるからだ。新井克弥『劇場型社会の構造』によれば、マスコミの報道目的は認識論的に、Ⅰ報道の客観志向、Ⅱ商業的利益の追求、の二側面で構成される。まずⅠだが、戦後日本では主観・偏見・イデオロギーに囚われず、事実をありのままに伝えることは報道の良心とされてきた。だがⅡのように、ボランティアではないマスコミは継続して情報活動をするために人々に見られて広告料を稼がなくてはいけない。だから情報の客観性がないがしろにされる主観性志向が現れる。しかしどちらにせよ、存在論的に見ればマスコミは情報の選択・加工を行うしかない。それは、限られた時間・予算内で現実の複雑性を縮減して伝えなければならないという、報道が備える時間的・経済的制約に基づいているためだ。そうして必然的に、報道内容は記号的かつ通俗的に編成されていく。これこそ報道の客観性の正体であり、客観性という名のポリティクスに他ならない、という。


 また、住環境の要因も加わる。都市という空間は都合の悪いものを排除するように形成されてきた。ごみ処理場・墓地・高圧鉄塔などといった施設は、(宅地開発により内側に取り込まれない限り)伝統的に都市の外縁部から外側に置かれることが多い。なぜ都市の人々は都合の悪いものを排除しようとするのか。それは都市がミーイズムの先端地だからだ。

 ミーイズムとは社会の利益より個人の欲望を優先する心性をいう。戦後日本にもたらされたイデオロギーである民主主義――日本国憲法は日本人に、自由・平等・国民主権・人権尊重という理念を提示した――は、1960年代高度経済成長によって経済競争に突入すると、商品消費に生活全体が覆われる消費社会に回収された。経済環境の充実が個人生活の自立化を促し各々の自由を謳歌することを望み始めるとなると、旧来それが出来ない必然として存在していた共同体的性質が払拭されるばかりか、他者への配慮を必要とする共同生活が煩わしいものとして排除されるようになっていく。民主主義の諸理念は、何をしようと自分の都合勝手として、消費文化と個人の欲望最大化を正当化させる論理的根拠になったのである。

 この上で、1980年代以降あらゆる分野にコンピューター・ネットワークが配備されることで、物だけでなく情報も他者を介在せず入手可能になる生活を営めるようになる。それらメディアに接した時、情報送受信の主体は常にそれをする個人に固定されるので、必然として自分にとって都合のいい情報ばかり受容するようになる。そうして個人は個別の基準に沿った価値観形成をしていくが、それは他者の価値観を受け付けない心性に繋がった。価値観のリアリティが徹底して個別化・相対化すると同時に、むしろ個別の価値観が絶対化され、これを脅かす存在を排撃する心性が助長されていった。

 こうして都会人は生活の場が都市であるゆえに、田舎を下に見ざるを得ない。田舎は共同体的性質が滞留するから、都市のミーイズムと相容れられない。情報送受信の機能も消費物も、都市の方が最新のものを多く配備されているので、それが出来ない田舎とは相対的に非民主主義的空間と捉えられる。ミーイズムの発露が制限・不可能ということは、すなわち日本国憲法の諸理念に反することに繋がるからだ。だから遅れた存在とそしるのである。


 マスコミが既に構造的に中立を保てないのだから、報道する人がとあるイデオロギーに従って情報を収集し選択加工を行えば、いよいよ明確に公正な報道とは言えなくなる。もし、記者がイルカ漁反対を前提とするプロパガンディストかつ都会人ならば、津室人という田舎人を対極にしてイルカ漁反対という正義と良心のために自発的に報道を行おうと奮い立つし、取材にあたってはイルカ漁反対関連の情報しか受け付けられなくなるだろう。都会人であることは、すなわち反イルカ漁イデオロギーの肯定情報ばかり受け取り易い環境下にあり、日本国憲法という民主主義的平和憲法などと云われるその権威的正義に援護されて土足で田舎を踏みつけるを可能にするのだから。従い、物語の記者は田舎に足を運んだところで情報を採ることは根本的に出来ない。この記者は結局、仕事に無駄足はつきものと失望するのだが、まさしくその通りだったのだ。


 だが、話はこれで終わらない。記者が取材を進める中で、実際には何度も自身の主張が反駁はんばくされえる機会があった。

 一度目は、イルカ漁を「日本人は個人が意見を表すことを好まない。好まないどころか、同調圧力でその意見を封じようとする。実はこの日本という国は、個人が尊重されることのない後進国なのだ。(…)漁に反対する日本人の声はかき消され、欧米諸国に「日本は動物愛護の後進国だ」という認識を与えてしまう」と憤ったときだ。個人が意見を表すを良しとし同調圧力に怒りながら、実際は自身も「イルカ漁には反対でなければならない」という同調圧力を掛け他の意見を封じている姿勢を執っていることに気づいていない。

 二度目は、田舎人の白人コンプレックスを糾弾する話だ。一瞬、津室人の「理不尽な白い人々のせいで、津室の漁は守られねばならなくなった」と考えた箇所と繋がるように見える。だが、その違和感は「正義の白人に対抗して意固地になること」というより「既存の物事を一方的な見解でしかない価値観によって問題化され改造を強いられること」の強引さの部分であって、多角的な見解の鼎立ていりつが成立できるならば心は穏やかだったろう。津室人は騒動が勃発する前まではむしろ白人を篤くもてなしていたし、白人コンプレックスなど初めからどうでもよかったのだ。従い、田舎人を指し白人コンプレックスの持ち主と表現した都会人記者の方が、むしろ田舎人を鏡として逆に白人コンプレックスの持ち主であることが明らかになるのである。だが、またそれに気づかない。

 三度目はかなり直接的だ。田舎人から、白人コンプレックスがあるのはむしろ都会人のほうであることを指摘される。(都会人から見た)田舎人特有の無知蒙昧による感情的反論によるものではなく、対話によって浮かび上がっていた都会人の白人コンプレックスを記者が出産した様を指摘した事によるものである。だが都会的イデオロギストの記者は、固定回路の外の行動…価値観の前提を再帰的に検討する思考ができないので、安直に田舎人すなわち無知蒙昧として処理してしまう。思い通りにならなくて都合の悪い物事は他人のせい。田舎人は他人の最大手。そうした方が自らの価値観の歪みを受け止めてしまう深刻さに直面しないぶんラクだからだ。

 ところがその田舎人が、実は白人との既婚者であり更には子どもも二人いるという事実によって、記者はここに至り惨憺な再帰的自省を迫られる。されども記者は、まだ自分の意見をうまく伝えられないという意味では弱い白人の子の心を傷つけるという最後っ屁で応じた。都合の悪いものは排除。悪しきは田舎人なのでなければならない、自分は正しくて、正しいからこそ正気で居られる。自称都会人は、ついには他ならぬ自分が忌み嫌っていた田舎的精神でもって他者に理不尽に反抗するという皮肉を自演して終わった。


 結局、記者も日本人的だった。しかも、よりによって情報を扱うのはプロフェッショナルであるはずの記者もまた、人の上辺の行動しか見て取ることが出来ていなかったという、二重の自縛に囚われていた。この物語の中では最も解り易い愚行の者だったといえよう。

 議論とは批判合戦ではない。人格処刑裁判でもない。イルカ漁を続けるメリット・デメリットとイルカ漁を辞めるメリット・デメリットを比較し、妥協とすり合わせを行うことで最後に双方が納得できる結論を導き出すことが目的だ。日本人の幼児性を超克しようとしても、その方法は自分の意見をただ単に主張することなのではない。片方が正論で論破することや議論するまでもないと意見を強要することは、例えば自分の価値観を修正できず歪なままだったり議論の味方が居なくなったり等、むしろ自らの不利益として因果を被ることになる。自らの主張単独に基づいて行動した場合、しばしば行動の社会的妥当性を欠くことになるからだ。片方が悪だと断じてイルカ漁師が漁をする理由を調べても、津室人が悪だという結論を補完する事実しか発見できない。これを確証バイアスという。ローザ・ルクセンブルクは「自由とは常に、思想を異にする者のための自由なのだから」として表現の自由・言論の自由の原則を端的に示したが、相手の主張を理解するには一旦自分の立場を忘れて相手側になったつもりで主張の動機を考察することで、肯イルカ漁派は反イルカ漁派の何を知り反イルカ漁派は肯イルカ漁派の何を知らなかったかを知れる。その中で、自分の行動や見解の偏りを自戒できるようになり、そこで初めて議論が可能になるのである。


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 肉体上の日本人が精神的に日本人的であることを脱して外交で一流でありたいと願うのであれば、甘えを捨て主体的に外交を行うべきだということは解った。ただそれは、表層上でのプレモダンなパターナリズムの獲得を目指すものではない。原始仏教は女性原理である物質的なものを捨て、他方で男性原理である真理を悟ることを説いた。このように、深層心理で、依存ができる母性的な抱胎から成長し、幼児から成人となって独立することをいう。

 従って、直前の繰り返しになるが、日本人は自分の思いを伝えるための努力をして戦わなければならない。ただしそれは、一方では白人に平伏してイルカ漁という都合の悪い問題を排撃するを無条件に是とするある意味依存的な主張ではなく、例えば生活の根源に向き合いその意義を理解した上でのイルカ漁とその他畜産漁業との比較を問うといった主張でなければ、建設的に未来を開くことにならない。


 ところで、そのような方法とは別のやり方を用いることでも、白人に対峙し自分の目的を達成することは出来るだろうか。黄色人種はイエローモンキーと呼ばれることがある。ピエール・ブール『猿の惑星』のモチーフになったのは、あくまで町山智浩の紹介(『〈映画の見方〉がわかる本』)に端を発する流言だが、戦時中東南アジアで日本軍に捕虜にされた経験からなどとされている。前述の小村寿太郎について、彼は容姿が貧相なせいで「ねずみ公使」呼ばわりされたようで、これも外交に多少影響するところが有ったのかもしれない。なら、見かけ上の白人になれば容姿のハンデが撤去出来ることになるので、従って正義の首謀者と先進的精神の内在者に至ることも出来るのだろうか。

 だが、白人は肉体が白人ゆえに強いのではない。物語では、他の人種に比べていかに我々白人の方が優れているかということを様々な手法に拠って頑張って証明しようとしたという戦いがあったために、結果として現在のところ勝利できたからだ、ということが語られる。ただそれは、伝統や、社会が共有する価値観が戦争や科学等に因って動的に変化し流動するのと同様に、固定的である確実さはない。従って、精神的な白人の優越性についての貢献を何も成し遂げたことが無く、外見以前にまず自分の主張を述べて戦った過去も無いならば確かに、日本人が肉体上の白人となることによって解決できるものでは無いと言える。


 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会』によれば、「「私」は生まれたときから、もともとそこにあるのではなく、社会的経験と社会的活動の過程において生じてくるものである。つまり(…)他者との関係の結果として発達してくるものなのである」という。例えば一般人よりも強い存在といえる王・貴族だが、ただ存在するゆえに強いのではなく、戦場で前線に立ち敵を殺して人財を守るその責任の重さゆえに他人から尊ばれるのが権力の由来だ。人がその人らしさを育むのは、様々な他者・その人が属する集団の数の多さとの関わりからなる。そのなかで人は役割取得を繰り返し、そうして自らに他者から見た自分という見方を得ることで、他者との関係が滑らかになる。人は生得的な性格に縛られるのではなく、自ら創発的に思考し社会を生きる能動的存在になれ得るのである。

 ただし、他者や集団の重なり合いの範囲が大きく、単一の共同体のような限定的で閉鎖的な関係だけしか持てていなければ、それらの性格や認知力に融合してしまうことには注意が要る。自分のアイデンティティを確立するには、まず自分の在りようとして提示したもの=他者化した自分を、自分のものとして受け入れられること(ミードによれば「IとMeの弁証法」)という必要条件。そしてその個人レベルで成立したアイデンティティが社会的にも承認される十分条件の、二つが必要になる。そうしなければ、個人レベルや単一の共同体程度のそれだけでは行動の社会的妥当性を欠き、偏屈で歪なものに見えるからだ。


 今まで津室しか知らなかった人間が白人の強さに目覚め、肉体上の白人をして自分らしさを主張したら、容姿や、「さすが白人様の言うことだ」と主張を受け入れてくれる人間は居るのだろうか。白人は生まれながらに強い訳ではなかったし、肉体上の白人という行動にはついに社会的承認が伴なわないままで話が終わる。自己満足で終わってしまうのである。永井荷風は『日和下駄』で、現在日本の西洋式偽文明が無味拙劣なるものと感じられるとし、日本人の西欧模倣のやり方があまりにも軽佻浮薄けいちょうふはくすぎると厳しく嫌悪した。なぜなら西欧のコピーをすることがすなわち日本人の真に文明的であることの表現ではないと思っていたからだ。すると、肉体上の日本人が肉体上の白人となるという行為は、永井からすればより手厳しい批判を向けるべき愚行なのだ。上辺見た目の問題に取り組んだに過ぎず、精神的に日本人的というそもそもの問題が根本的に解決出来ていないからだ。


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 アイデンティティに社会的妥当性を欠いたとき、偏屈で歪なものに見えると述べた。社会的妥当性が無いということは、問題ということになって、日本人からすれば排撃の対象になる。だが、その社会的妥当性は誰が決め、何が基準になるのか。社会が共有する価値観が動的に変化し流動するのだから、決めるのはその社会の構成員だと指定出来ても厳密に個人を特定することは不可能だし、基準はその社会の許容範囲量であっても社会が変化すれば量も変わる。また、社会的妥当性からはみ出た者は偏屈で歪ゆえに時に偏見や差別に晒されることになるが、偏見や差別は問題ある個人に必ず起因するのだろうか。

 自分が所属する、役割を取得しアイデンティティの源になる集団を内集団、それ以外を外集団というが、人々がそう差異化されると両集団の違いが実際以上に強調される傾向にある。加えて、外集団に対する均質的イメージであるステレオタイプ(但しこれ自体は人の認知能力を補助する道具なので善悪は無い)に、否定的感情が伴えば偏見に、否定的行動が伴えば差別になる。そうした社会関係から問題が始まる。よって、絶対に個人のせいという訳ではないのだ。


 物語では、すでに初期から津室人という内集団で不和が生じていた。白人が津室に入ってきたことによる意見の相違もあるし、世代交代によって共同体的価値観が消滅し都市的ミーイズムが流入してくるからでもある。言い換えれば、イルカ漁攻撃という白人の価値観の侵略だけでなく、今度は都会人の価値観という別の侵略をも受け始めるのである。振り返れば、津室人は外交をせず、白人は津室人から外交を避けられていて、都会人はミーイズムゆえに個別の価値観を絶対視する。つまり何にせよ、相手に接する際には誰もが上辺を見がちということなのだ。ここから、話はイルカ漁どころでは留まらなくなっていく(大分前からレビューがそうあるように見えたとしても、それはさて措く)。

 誰が、何を以って問題とするのか。誰もが上辺ばかり見てしまうゆえに、問題が鼎立し始める。白人はともかく、旧津室人は新津室人の手前勝手さと法的杓子定規さを指し、新津室人は旧津室人に組織形成の宿弊と人間差別を見出す。だが、なぜその箇所を問題だと思ったかの根拠を知らないと他人の理解も及ばないので、「ならば自分の意見が正しい」と思い立ち状況を押しとおるしか選択肢を絞れない。それが意見の押し付けだろうともだ。つまり、。この物語は通しで、上辺なコミュニケーションによるおびただしい失敗例を見せつけてくるのである。


 ではどうコミュニケーションすればいいのか。「ナラティヴ・セラピー」(特に社会構成主義の立場を徹底させたハーレーン・アンダーソン/ハロルド・グーリシャン『協働するナラティヴ』)によれば、いかなる臨床心理治療のシステムも、ある問題をめぐる対話によって結びついたもの、すなわち問題がシステムをつくると考えた。システムの中で取り交わされる言語や意味とは別に問題が実在するのではなく、あくまで言語と意味によって問題が問題として作られる。従い、どんな意図であろうと関係なく、問題を巡って語られる言葉が問題を現実的なものとして存在させている。なら言葉がなければ問題も存在しえなかったのだから、その意味で、問題を巡る言葉は問題を解決“しない”ことに貢献する。問題を巡る会話が行われないシステムによるセラピーによって、問題は解消に導かれるのである。

 誤解してはならないのは、ここで語られている事は、問題について口をつぐむようにするシステムという意味ではない。初め人は問題について語ろうとしているのだからセラピーの初期は問題を語らざるを得ないとしても、次第に問題について語らなくても良いような関係が作れれば問題も消えていくはず、という意味で、問題を解決でなく解消すると表している事だ。相手のことを知らないセラピストは、不知の姿勢によって、問題ではなく相手を探索し対話領域の広域化を促すのである。

 だが、暫くすれば何となく人となりが解った気になって、経験に基づく知見や専門的知見に当て嵌めて物事を翻訳したり判断したりしがちになる。そうでなく問題について語らなくても良い関係を作るには、解った気になることは継続した質問を出来なくさせてしまうことになるので、なるべくそうせず日常の言葉で相手と共に語るようにする必要がある。不知の姿勢を取り続けて相手のことを教えられ聞くのは、確証バイアスをはずし、今までの理解をアップデートするよう促される。そうして何らかの最終結論に達することを目的としないように対話することで、更なる語られていない話を語られ、問題が問題でなくなり始める、という。


 不知の姿勢で相手の話を聞く、というのは、ソクラテスが使っていたソクラテス問答法の重要とする「不知の自覚」と重なる。初めて会う相手のことなど知らない。知らないから教えて貰うのだ。だが、素人が不知になるのは高度に専門的だから難しい。とはいえ、この社会構成主義の理論を念頭に置くだけでも、問題となったものをどうしたほうがいいか、加えて人を上辺で判断する行為に陥らないようにする方法は何か、教訓たり得るので読者は参考になるはずだ。


7


 肉体上の日本人が精神的に日本人的であることを脱するには、自らがそうしようとする意志を持たなければ為せない。従って、肉体上の変化を行うことに拠るのでもなければ、ただ外国人の傍にいれば自然と日本人的を脱せる訳でもない。問題を起こしたくないがためにすぐ謝罪し、白人に対する罪悪感を持ち、自分を引っ込め精神を虚無にしてしまうような心性を日本人的と何度も言い続けてきた。日本国内では周囲が日本人ばかりなので日本人的以外の心性を相対化させることを発想し実行出来辛い。海外から見た日本人としての自分という再帰的視点を持つために海外を見ようとすれば、その先進的な大概が欧米的(白人的)なものだからと「白化」するのも過ちである。

 白化とは、物語を最後まで読むことで初めて明らかになる言葉だ。それは表面的な先進性のポーズとして白人のエピゴーネンとなることだった。それをしたくないなら、改めて述べるが、深層で幼児性を脱し成人となることだ。他者だけでなく自分自身が何者であるかをも、上辺な理解にせず探求しなければ、自らに関わる問題に本質的に取り組めない。それが出来るようになって、「誇り高き日本人」、独立という尊厳を獲得出来るようになるのである。そのことは日本人だけでなく、どのような人、白人自身にもまた言えることなのである。


8


 この物語は、イルカ漁という現実にも未だに続き問題視されている行為を取り上げた、そのセンセーションさが目に飛び込む。また、日本人の心性にある欧米礼賛さを抉り出す語りに、読者自らの主体性を観察し愕然とするだろう。だから「イルカ漁そのものは~」、あるいは「イルカ漁に対する人々の喜怒哀楽ぶりが~」、とのような感想を主に抱くかもしれない。

 だがこの話の核心は、人間が上辺な情報ばかりを取りコミュニケーションしがちなことの失敗・問題だ。イルカ漁や日本人とは、これを描き出すための契機に過ぎない。物語上でイルカ漁を題材にとり上げて日本人を問い、そして読者の思考内でそれをとり上げて人間一般の意思汲伝の有り様を問う、という二段構えになっている。「白化」とは、物語の内容そのものからすれば価値観の白人至上主義化を表した言葉だ。でも、その白化のムーブメントを突き動かさせる根源の動力は決して白人(あるいは白化した日本人たち)によるものとは限らない。思いは伝えなければ伝わらず、伝え損ねれば伝わりきらない。その危うさを棄却し、自分の思いこそ無欠に善いものと決め他者に全売りする行為そのもの。誰であろうと油断すれば陥ってしまう様式。それが、「白化」のもう一つの意味だった。


 物語全体を読み通して振り返れば、それぞれの話は、前の話に一種の回答を与えるように丁寧に配置され記述されていた。方言の表現には見ごたえがあるし、食と生きることに対する考察は作者の真摯さの片鱗が見てとれる。イルカ漁や問題を起こす者という問題に対する人々の独白は、ひとつひとつその立場ゆえの言葉の吐露に説得力があり、ただの作者のひとつの主張を変奏したものなんかではない。何より、読者に著しく考察を要求するような濃厚な主題と表現であることは、こんなに長いレビューを書いてしまうところからして明快だろう。さすが、タグにヘビーノベルとあるのは伊達じゃない。



「本当に国際的というのは、自分の国を、或いは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもないのである」

白洲正子 『白洲正子全集』

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