空名のフラグメント

島村抱月

月が綺麗だった。

 月が綺麗だった。

 湖面に反射した月は碧く光る。

 夏目漱石はアイラブユーを翻訳すると月が綺麗ですねになると言ったらしいが、新にとってこの月そのものが恋の対象であった。

 新はいつものように鬱蒼とした茂みをかき分けた先にある湖のほとりで眠るのが趣味だった。

 空に浮かぶ月、湖に映る月、二つの月が新を現実から突き放す。

 綺麗だ...

 ぼそりと独り言ちても、誰にも聞かれない。寂寞とした空気の中、一人で月を眺める。

「なに、一人で変なこと言ってるの?」

 新の独り言に何者かの声が加えられる。

 その声は湖の真ん中で聞こえたのであった。

 湖を見ると、一人の少女が居た。

 少女は紅の双眸でどこかをぎろりと切り裂くように見つめていた。その眼はどこか殺人的でどこか魅惑の含まれたものだった。殺人的な瞳から放たれる眼光に新は身震いすることしかできない。

 少女は新の存在に気付くや否や、にやりと潤った唇を歪ませる。唇から八重歯が覗く。

 空に浮かぶ月と湖に映る月、そして魅惑の少女。少女は月という存在を格上げしていた。

 少女は湖面を歩いて、新の所へやってくる。

 一歩、また一歩と近づく様子に本来ならば逃げなきゃいけないのだろうが、新にはただその様子を見ることしかできなかった。それだけ少女の美貌に惑わされてしまっていた。

 少女は地面に足を置き、ついに新の目の前までやってくる。

 少女は美貌をにやりと破顔させて、美しい少女から可愛い少女へとシフトする。

 少女はゆっくりと新の肩へと顔を近づけ、肩を甘噛みする。すると、肩から鋭敏な痛みが伴った後、血が逆流するのを感じ、その後、体を巡る恍惚感が新を襲った。

 今までの肌の青白い華奢な美しさを持った少女は鳴りを潜め、雄を奮い立たせるような美貌の魔女が顕現した。

 真珠のような少女は血の付いた唇を左手で拭った。しかし、眼は獲物を狩る猛獣のように鋭かった。

「ありがとう」

 か細く、それでいてどこか透き通った清廉な声を出した。少女は新に背を向ける。

 彼女の真珠のような背中は綺麗で追いかけたかったが、新はその気持ちをずっと抑えた。追いかけてしまえば彼女に殺されるような気がしたから。

 少女は湖面を再び歩み始め、湖に映る月の奥へと消えていった。冷たい夜気だけが残る。

 新はこんな目に遭うのは自分ただ一人だけでいいなと思った。それと同時に同じ目に遭う人に多少ながらも嫉妬してしまっていた。

 新はただ呆然と空を、そして月を眺めることしかできなかった。清廉で可憐な少女の影を湖面の月に見ることしかできなかった。

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