山の子 第二章(1-8)
二
――
都の東を限る
単なる美称でしかなかったものが、武家地の成長に伴い語義を変化させ、百年近い年月を経た今日では、その武家地を<香春>という名で呼ぶようになっていた。
香春には、南北に向かい合う二つの広壮な館が建てられている。土塁・堀・櫓を備えたその二つの城館こそが、香春の支配者である南北香春探題の居館だ。
「合戦以後の、上山本
深間
「…あぁ、病でござる。うむ。病が広まったようですな」
「病でござるか。五月病みと言うには、まだちと早い。如何なる症状の…?」
維之に尋ねたのは、彼とは同役で、共に香春探題の職にある綾瀬
利之の家には父祖の遺した家訓が伝わっており、〝過美は厳に慎め。だが若い内から老成した風を装うな〟との教えを受けている。その家訓は全体として、自制と、それと一体となった緊張を求める内容を持っている。そうでなければ、何処に敵を作り立場を危うくするか、知れたものではない。
京都や岩動のような都市で数多の御家人達と共に暮らすのは、思うよりも猶辛いものなのである。利は多いが、大きな損失も覚悟しなければならない。彼等がそれぞれ、
「いやそれが、これと決まった病ではない由。熱病のような者もいれば、気力を失ったものもおると申しましてな。わしなどには、何やら村人が思い思いに病を言い立てておるやにも…」
「では、仮病であるとお考えですか?」
「全てがそうとは申しませぬ。なれど、そうした者も中にはおりましょう。百姓は逞しい。怪異ですら、己の武器に代えてしまうこともあるのです。何か思う所があって、実態よりも大きく申しておるのやもしれませぬ」
「ふうむ」
維之が噛み締めるように語るのを、利之は頷きながら聞いている。二人には十歳以上の齢の差がある。利之がようやく三十路に差し掛かろうというまだ若手であるのに対し、維之は経験豊かな四十代の重鎮だ。
代々探題を輩出してきた綾瀬家の若き当主利之は、朝廷との交渉場面では、探題府の代表者となることが命じられている。綾瀬と深間の家格の違いもあるが、何よりそれが佳例だとされているからだ。
とは言え政務運営の手腕はまだまだ未熟だと自認する利之は、同役である維之の指南を仰ぎつつ、西洲における将軍府の重要機関を運営している。利之は遠祖の家訓を守り、維之の顔を立てることを心掛けた。今日にしてもそうだ。この館は北方探題である利之の館であるが、利之は座次に差が表れないよう、畳を左右に並べて利之を出迎えた。その姿勢のお蔭もあってか、二人の探題は協調的に役務を遂行し得ている。
「して、それからは一体何が起きたのです?」
尋ねられた維之は、息子の悪筆に目を落し、誤読のないように一字一字確かめながら読み上げた。
「次は、山から、大勢の声やら、大きな物音が聞こえてくるようになったとか」
「ほう。それは確かに、怪異と申せばそうでしょうが――」
――そうだ。天狗がよくこういう騒ぎを起こすのだ。
利之は風の噂に聞いた<天狗
「その件に関しては、それとばかりは申せませぬな」
「何か耳にされましたかな?」
「耳にと申しますか、まぁ目にしたと申しましょうかな」
「これはご冗談を」
維之は笑いながら言った。
「ここは都でござる、波坂守殿。都から
「いやいや、山を見たと申すのではござらぬ。眼前にあるかのように想像できると申した方が良かったな。まぁ、そういうことなのです」
「一体何をご覧になられましたか?」
「つい今しがたのこと、引付の奉行人が一通の訴状を持って参りましてな」
「わざわざ利之殿の所へ?」
「はい。ちと頭の痛いことになるやもしれぬと、二番
引付は主に御家人の
「ほう、
「当たらずとも遠からず。まぁ、厳密に申せば、左府の愁訴ではないのですが…」
「では何が?」
「困ったことに、彼の庄の地頭が、嫡子と庶子で揉め始めましてな。それがどうも、六台山内に御恩の地があるということのようで」
「ほう。あのような近頃まで傍に集落もなかった山に?」
「近くに上山本という百姓
現在問題となっている六台山と上山本名は、
今回は同じ庄園内で二つの訴訟が連関した形だが、土地が近ければ問題が小さいかと言うと、それもそうとばかりは言えない。一方の大寧寺氏と<山門>の訴訟は院――上皇――の法廷が、他方の地頭が起こした訴訟は探題の法廷が管轄する。つまりこの案件では、二つの法廷が連携を取りながら訴陳を番え、最終的な裁許を下す必要が出てきたことになる。
これがまた、公武双方にとっては骨の折れる仕事なのだった。
「こうなると、維之殿ご懸念の如く、本所の訴訟までも丸投げされて、こちらで裁許せねばならぬやも…」
「できればご遠慮願いたいですな」
「それを避けるためにも、地頭には軽挙妄動は厳に慎むよう、申し送る必要がありましょうな。本所の争いに加わって一緒に合戦でもされようものなら」
「面倒なことになりますな。…あぁ、なるほど。先程、山中の騒音が怪異ばかりとは思わぬと申されたのは、そういうわけでござったか。地頭が山に手を出したと申されるわけですな?」
「まぁ、ほんの冗談ではござるが」
「是非とも冗談で済んでもらいたいですな。利之殿も、あまりそれをあちこちで言われぬようになさらねば」
「左様でござるな。ここは日出国。天狗三山のある国。どこで天狗が――」
「そこまで!あまり申されると、本当に来てしまいますぞ」
地誌に曰く、〝日出国に天狗三山あり。
なにも三山だけが天狗の山ではないが、都が近いことが手伝って、特に有名なのである。駄々をこねる子どもに〝天狗が
「いや、それはいかん。慎まねば」
そう言った途端、館の庭を風が吹き抜け、既に花の散った桜を揺らした。
二人は、明り取りのために開け放った障子から、庭に目を遣った。維之の目には真面目な警戒の色が浮かんでいたが、利之はちょっとした期待を込めた目で、風に揺れる細い桜の枝を見つめていた。
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