25年目のプロポーズ
@blue_beatle
第1話 思いがけない出会い
胸の上でナナが“ぐるーぐるー”と喉を鳴らしている。お腹がすいて催促に来たようだ。眠い目を擦りながら、アレクサに時間を訊ねると、午前8時半だと教えてくれた。思ったより早く目が覚めてしまった。
天気はアレクサに訊かなくても分かっている。朝早くから屋根を打ちつける雨音が聞こえている。雨音からするとまだ相当強く降っているようだ。
この週末は何も予定は入っていない。このところ新しい人事評価制度導入の件で、週末も仕事を家に持ちかえっていた。47歳にもなると若い時のような無理は効かない。今週末は久し振りにゆっくりしよう。
家族サービスも7年ほど前から必要無くなった。いまや僕は金も時間も自分のためだけに使える自由な身だ。
13年前に独りでいる寂しさより、二人でいる煩わしさを選択した。35歳まであの女のことが忘れられず、独り身でいた自分が。どうしてそんな選択をしたのか。
人はどうして結婚するのか。種を守るための神のプログラムがそう組まれているのだろう。一瞬の気の迷いはきっと神のプログラムの発動だ。
そんなふうに思うようになって一ヶ月ほど経った頃、元妻の美由紀が別れを切り出した。7年前の春の事だった。
僕らが結婚したのは、35歳の時だった。僕達は子供を望まなかったし、お互い仕事が忙しくて、まるでルームシェアしてるみたいな関係だった。
美由紀とは円満離婚だった。お互いに働き、同じくらいの収入があったから、共有財産を等分に分けるだけの簡単な離婚だった。
そこにはテレビ番組で見るような激しい感情の物語はなかった。
今では美由紀とは良い友達だ。少なくとも僕はそう思っている。あいつに新しい相手が見つかるまでは僕が親友でいようと思っている。
離婚が成立したその日の2人はスッキリした顔をしていた。彼女も同じように感じてきたのだろう。そこにはお互いに自分の人生を大切に生きようとする尊さがあった。
彼女とは今でも時々食事を一緒にする。2人が好きなバンドのコンサートにもいく。お互い今の方がずっといい関係だ。
今週末はずっと雨模様らしい。朝からビールを飲みながら、家で本を読んで過ごすのもいいが、少し体を動かしたい気もする。こんな時は軽くゴルフの打ちっぱなしで運動不足解消と行くか。
取り敢えず濃い目のコーヒーを淹れる。朝は基本的にこれだけだ。その分ランチはしっかり取ることにしている。男の一人暮らしとは思えないくらい、栄養に気を配った4品くらいの料理がダイニングテーブルに並ぶ。一人だから、食事にお金をかけてもしれているし、一人暮らしが長かったから料理は得意で、レパートリーも結構ある。
腕時計を見ると、もう十時前だ。お気に入りのスポーツブランドのスエットの上下に着替え、マンションの駐車場まで降りる。車のエンジンをかけると、オイル交換を7日以内にしろと案内が計器パネルに表示される。そういえば、来週の土曜日は一年点検だった。
家から車で15分のグリーンゴルフまで車を走らせる。
林を抜けるとゴルフ練習場の緑の囲いの上方部が見えてくる。施設全体が見えると、その手前に大きな駐車場が広がっている。
雨が降っているので、出来るだけ入り口の近くに停めたくて、車で空きを探したが、考えることは皆一緒でもうその辺りには空きがない。仕方なく、駐車場入り口に戻って適当に駐車した。
ここはこの辺りでは1番大きな打ちっ放しの練習場で、施設内のレストランも充実している。働いている三人のお姉さん達はしっかり接遇教育を受けていて皆感じがいい。愛想のない近所の打ちっぱなしのオーナーとは大違いだ。これで混んでいなければここは最高なのだが、ウイルス感染が広がっているにも関わらず、週末はいつも混んでいる。
特別な理由はないが、今日は2階の階段から離れた場所を選択した。ゴルフシューズに履き替えて、プリペイドカードを機械に差し込む。
少しストレッチをして右左に目配せすると、2階はほぼティーがうまっていて、ゴルフ人気は落ちているどころか、まるで此処だけバブル期のような勢いだ。
練習しているのは、ほとんどが40代以上にみえる男性ばかりだ。若い男性は少ないが、なかには混じってクラブを振る姿がみえる。
女性は1割くらいだろうか。女子プロゴルファー人気は高いが、此処では女性のアマチュアゴルファーは案外少ない。今日は特に年配のご婦人ゴルファーの姿が見えない。女性でボールを打っているのは、20代後半から30代の女性だ。
軽くストレッチを終えて、ピッチングウエッジから打ち始める。最近サボりがちなわりに今日は調子がいい。イメージ通りに真っ直ぐいいボールが飛んでいく。ゴルフコースでもこの位イメージ通りに打てれば甘い「OK」の誘惑にのらなくてもいいのに。
休憩を取りながら、クラブを替えて100球ほど打って今日は早めに上がることにした。お腹が空いて来たし、今日は今ひとつ自分の中で盛り上がりにかける。調子はいいのになんでなんだろう。
「来週あたりコースに出ようかな」
と独り言を呟き、早々に片付けはじめた。
シューズを履き替えていると、後ろに人の気配がする。
「混んできたかな」
と急いで片付けを終えると、
「次いいですか?」
と若い女性の声がした。
「はいどうぞ」
と答えて、声の方向に顔を上げるとそこにいた女性と目があった。その瞬間、僕はその顔に釘付けになった。
25年前に別れたあの人だった。僕は彼女の目をじっと見つめて、ゆっくり小さな声で
「千里?」
とありえるはずのないその名前を口にした。彼女は不審な表情で
「いえ違いますが・・・」
と答えただけで、あとは無言で俯いてしまった。
「すいません。変なこと言ってしまって。知人にそっくりだったものだから、つい・・・。あっどうぞ僕は終わりましたから」
と言ってマスクを着けて、ぎこちなく階段に向かって歩いて行った。
階段のところで後ろを振り返ると、彼女はまだこっちを見ていた。マスクを外しているので、先程よりもっと顔がはっきり見え、ますますあのひとに似ているように見える。
「25年も経って変わっていないはずがないか。それにしても・・・」
ブツブツ言いながら、僕は車に向かって階段を降りて行った。
車のエンジンをかけ、暖機している間もさっきの女性のことを思い返していた。鳶色の澄んだ瞳、薄い唇、顔の輪郭、背丈、そういえば顔に似合わない少しハスキーな声もそっくりだった。僕があの女(ひと)のことを憶え違いをしている筈がない。
他人のそら似だろうか?車を走らせてからも、僕の頭はさっき会った女性のことでいっぱいだった。
第一話完
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