エピローグ

 目が覚めると、そこは、見覚えのある部屋だった。


 壁一面に記述が刻まれており、天井は雲よりも遠い。そこから差し込む光が、中央を照らす。


 ──時計塔の中だ。


 ゆっくりと体勢を起こして、なんとなく、傍らにある白い本を手に取る。


『過去と未来を繋ぐ。その代償をいただく』


 直前のその声が思い出され、私は咄嗟に、胸の辺りを確認する。──そこに刺さっていた杖は、姿を消していた。同様にひしゃげたはずの腕を確認すると、元通りになっていた。


 どうやら、肉体の状態は過去に戻っているらしい。──ただ、舌の感覚がないままであることには、すぐに気がついた。それが代償だろうかとも考えられたが、


「そんなに小さなことのはずがありませんよね」


 全身を見回して、魔法と肉体の感触から──今が、およそ八年前だということに気がつく。周囲に、未来へと繋がる通路を探すと、わずかに、時空が揺らいでいるのを感じられた。しかし、今の魔力では戻れそうにない。


「一体、何が──」


 服装はノア学園の制服。持ち物は、この本と左手の薬指の指輪──。


 と、そこまで考えて、私は指輪に目を止める。


「これは、何でしょうか?」


 元々は宝石がついていたのだろうが、今はその跡があるだけで、ただの不恰好なリングとなっていた。


 ──この指輪のことが、何も、思い出せない。


 時を遡るときに宝石を紛失したのだろうか。はたまた、宝石がなくなったにも関わらず、大事に身につけていたのか。


「それに、この位置は──結婚指輪? しかし、私は誰とも結婚していないはずですが」


 そのとき、アイネの顔が頭をよぎった。


 そして、やっと違和感に気づく。



「──アイネの父親が、思い出せない」



 ぐるぐると思考を巡らせて、必死に考える。だが──記憶から、消えている。綺麗に。その人物のことだけが。完全記憶能力を持つ私の中から。


 アイネの黒い瞳は、きっと、その人物のものなのだろう。だが、思い出せない。黒い瞳の人物なんて、記憶の中でも数えるほどしかいないが、それでも、思い出せない。


 アイネ──どうして、愛音という名前をつけたのかが、思い出せない。そもそも、愛音、なんて文字は、両方とも見たことがない。それで、なぜアイネと読むのかも分からない。自分の名前から取った気はするのだが──、


「私は、マナ・クラン・ゴールスファ、ですよね。どうして、アイネという名前をつけたのでしょうか」


 そうして記憶をたどるごとに、無視できないほどの、記憶の綻びや矛盾が、星の数ほど見つかる。頭が割れそうだ。


 どうして、あの高さから飛び降りて、死ななかったのか。


 どうして、私は女王にならなかったのか。


 どうして、私は城を抜け出したのか。


 間違いない。私は──誰かを、忘れている。それが代償というやつなのだろう。


 すると、自然と涙が溢れはじめた。


 考えるほどに、分からなくなっていく。


 何もかもが嘘に見える。記憶の正解が、一つも分からなくなる。どれもかれも、何かが、足りない。


 大切な記憶の中に、大切なものが、ない。


 アイネと一緒に歌った歌も、お弁当の味も、指輪の宝石の色も。


「ない、ない、ない……」


 どうして、帝国に、「メリーテルツェット」という名前をつけたのか。


 どうして、ノアに城を構えたのか。


 どうして、人を殺してしまったのか。


 どうして、どうして、どうして──。


 悲しくもない。嬉しくもない。感動もない。


 なんの感情でもない、無意味な涙が、ただひたすらに、流れていく。


「あなたは、誰なの? 私の、何なの? どうして、私はこんなに泣いているの?」


 体がバラバラに引き裂けそうだ。


 心が粉々に砕けそうだ。


 何もせず、ただこうしているだけなのに。ただそれだけで、死んでしまいそうだ。


 何も分からなくなっていく。


 ──そうして、やっと、本に目を止めた。


 その本を書いたのは、榎下朱里──そう、異世界から召喚した、勇者である彼女のため、だったはずだ。


 そうしてページをめくれば、それすらも、半分は間違いであったことに気がつく。


 ──あかね。


 知らない名前は、その一つだけだった。


 そこには、彼と過ごした日々が綴られていた。


 初めて、手を取ってくれたときのこと。


 心を開いてくれたのが、とても嬉しかったこと。


 好きだと、そう何度も言われたこと。


 ──そして、すべてを捧げてもいいと、そう思えるくらい、私が彼に、どうしようもなく、惹かれていたこと。


 心の底から、愛していたこと。


 その彼が、私をかばって亡くなったこと。


 その悲しみに、耐えきれなかったこと。


 ──そのどれもが、嘘ではないかと思えた。何も信じられなかった。そんな風に想える人がいたことも、そんな風に想われていたことも。何一つ、信じられなかった。


 そんな彼が存在するのかどうかすら、不明だ。


 アイネですら、私の妄想が作り出したのではないかと。


 何が正解で、何が間違いなのか。分からない。私は本当に、マナ・クラン・ゴールスファなのか。分からない。


『マナ・クレイア』


 ふと、そんな直前の声が脳内で再生される。


「まなさん──」


 彼女のことは、覚えている。鮮明に。


 ──私の一番、大切な人だ。一番、信じられる人だ。


 そんな彼女にさえ、私のすべてを捧げるとまでは思えなかった。


 どれだけ本を読み返しても分からない。


 彼のどこが良かったのか。


 彼の何が好きだったのか。


 どうして彼を選んだのか。


 この本だけでは、私がどうして、彼をそんなにも愛していたのか、分からない。


 ──それでも、きっと、未来と過去を繋ぐ代償になるくらい、私は彼のことを、愛していたのだろう。


 そう信じなければ、立ち上がることすらできそうになかった。


 きっと、彼の記憶を失ったからだろう。


 ──死にたくて、堪らない。死なない理由がない。どうして生きているのか、分からない。


 彼が庇ってくれた。きっと、それだけで、私はここまでやってきたのだ。


 どれほど大きな存在だったかは、嫌というほど分かるのに、何一つ、覚えていない。


 そして、ふと、思った。




 ──この過去にいる、もう一人の私なら、彼のことを、たとえ、すべてではなくても、覚えているのではないか?




 となれば、まずは日付を把握する必要がある。彼女がどこにいるかが知りたい。


 私は瞬間移動で王都へ向かい、配られている新聞の日付を確認する。──四月二日。ちょうど、私の十六歳の誕生日だ。


 日記には、その日、あかり──いや、あかねに、誕生日を祝ってもらったと書かれていた。トレリアンの付近で。



「マナ、誕生日、おめでとう」

「あなたに祝われても嬉しくはありませんが」

「……ごめんね」

「許しません」



 雨に濡れるのを覚悟してその場所に向かうと、雨音に混じって、そんな会話が聞こえてきた。



「プレゼント、何にしようかと思ってさ」

「そうですか」

「対応が塩っ。ってことで、はい、ドン! これ!」


 と、差し出されたのは、十二本の真っ赤なバラだった。


「中途半端な数ですね」

「ダーズンローズ! まあ、十二の想いを誓うってことだよ」

「そうですか」

「興味なっ!?」

「私が欲しいのは、あなたの心だけです」

「いや、僕の心はずっと前からマナだけのもの──」

「振ったくせに」


 すると、あかねは諦めて、空間収納にしまう。


「でも、ノアにはなんとか、合格したよ」

「だから私を愛していると? 寝言は寝ても言わないでください」

「辛辣!」

「というか、馴れ馴れしく話しかけないでもらえますか? 迷惑です」

「嫌だよ! 何言われても話しかけるからね! しかも、明日からクラス一緒だし、席も隣とか、これ、もはや、運命じゃん?」

「運命? はっ、笑わせますね」

「笑ってくれたら嬉しいんだけどなあ……」


 そんな会話が続き、やがて、マナがその場から立ち去る。あかねはそれを見届けて、肩を落とし、別のどこかへと向かう。


 ──ずるい。羨ましい。妬ましい。あんなにも想われて。何を言っても離れていかない自信があるから、彼を信じてるから、あんな態度が取れるんだ。




 ──いいな。その記憶が、想いが、感情が、欲しい。


 彼の料理を味わう味覚も、天使みたいなその歌声も、穢れのない血液も、病魔に侵されていない健康な体も。




 あなたは全部、持ってるんでしょ?




 ──私は彼女の前に出て、驚く彼女からあかねの記憶を奪い、肉体を交換した。


 瞬間、流れ込んでくる記憶。複雑な想い。ひりつくような辛さ。




 ──全然、足りない。私が求めている「愛」は、彼女の記憶に、まだないのだ。


 そして、いくら奪ったとしても、これは、私の記憶じゃない。借り物にすぎない。紛い物だ。


 私は、一生、彼を取り戻すことができない。


 ──そう、分かってしまったから。



 私は再び、王都へ瞬間移動する。


 死体の捨て場になっている、大穴の前へと。どしゃ降りの雨で、人工的に作られたその穴は、水で溢れかえっていた。


 いくられなでも、きっと来ない。未来から戻って来るなんて、誰が予測できるというのか。


「もう、いいよね」


 そして、私は穴の淵から、足を踏み出して──落ちた。


 記憶の強奪。肉体の入れ換え。時空を繋ぐ道の生成。


 ギルデルドからもらった魔力は、とうに、空になっていた。体はほとんど動かなかった。


 深い穴の底に向かいながら、酸素を失った私の意識は遠のいていく。なのに、その苦しさが、妙に楽だ。


『マナ・クレイア』


 守れなかった彼女のことを、忘れるわけがない。


 ずっと、一緒にいたかった。大好きだった。今でも、愛している。


 そこに、失った彼への感情であった分が、いかほど混ざっているだろうか、などと考えて。


 アイネのことは、もう、忘れたかった。


 涙が泥水と混じり合い、遠ざかる空に溶けていく。


 大罪人の処刑場に、これほどふさわしい場所はないなと、皮肉な笑みを浮かべる。


 救われるわけがないなと。


 白い腕が天へと伸び、身勝手な声が、あぶくとともに、口から漏れた。




「──助けて」




 その声は、雨水に溺れて、誰にも届かなかった。


***


 その日、時計塔に、新たな記述が刻まれていた。


 ──女王マナ・クラン・ゴールスファ死去、と。

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