第2節 榎下愛
第2-1話 榎下愛の日常
「気持ち悪い」
また、予知夢を見た。それはいつも唐突で、何の意味があるのか、そのときには分からない。でも、確実に意味のある夢。
シンプルなその一言だけが、また、自分の声で再生される。誰かに対して言っているのか、何かを見てそう言っているのか、はたまた、誰かにそう言われる運命なのか。
ただ、その言葉から感じ取れる、強烈な不快感に、私は、涙を流しそうになった。
***
まなが微妙な顔をしていた。眉根を寄せて、手元を見つめて固まっていた。
「……なんとも言えない味ね」
販売終了になったホイサバに代わる、トンビニ新発売の、ハニーキューカンバーサンド、通称、ハニキュー。つまり、蜂蜜ときゅうりだ。
そんなもの、美味しいわけがないと言いたいところだが、まなの味覚はなかなかに狂っていて、なんでもかんでも美味しいと言っているイメージがある。
──だが、まなが微妙な顔をしている原因は、組み合わせによるものではない。
「ホウカサイ、だったかしら。あれって、本当に世界中の魔法野菜の味を決めるのね……」
「一口もらってもいいですか?」
「ええ。なんなら、食べちゃってもいいわよ」
一口食べる。本当になんとも言えない味だ。確実に、美味しくはない。
「……申し訳ありません。責任をとって食べます。代わりに、私のお弁当をどうぞ」
「あんた、すぐ謝るわね。……なんだか、食欲まで失せてきたわ。お弁当もいらない」
蜜の味は女王の歌声によって決まるが、残念ながら、現在の女王はとびきりに音痴だった。何を歌っても聖書の棒読みにしか聞こえない。そして、これから三百年、世界中の魔法植物が女王の歌声のような味になる。
「味がなければ、なんとかなりそうなんですが」
「無味じゃないところがなんとも言えないわね……」
「暗いねえ、二人とも。まあまあ、まなちゃんも、そんなに暗い顔しないで。ほら、食欲がないなら、これでも食べて」
まなはあかりに差し出されたトンビアイスを食べ、ため息をつく。わざわざ、トンビニで買ってきたようだ。
「きっと、このトンビアイスも、そのうち味が変わるわ。牛乳だって、牛のエサが変われば、味も変わるもの」
まなは寂しそうにそう言った。確かに、牛たちも変な草ばかり食べさせられることになるのだ。
牛だけじゃない。ありとあらゆる動物が草を食べ、その動物たちの命をまた他の動物たちが食べる。きっと、この世のほぼすべての食べ物の味が、少しずつ、時間をかけて変化していく。
そして、元の味を忘れていく。いかに、
もちろん、魔法植物に限った話であり、魔力に頼らない植物の味は変わらないが、魔力の豊富なルスファでは主に、魔法植物の栽培が多いため、そういったものは元から高級品として扱われている。そして、今後、ますます、価格が高騰するだろう。農家の在り方も変わってくる。
「
そうなれば、当然、国力は落ちる。
さらに、急に食物の味が変わったことで、料理の世界は大きな混乱に包まれているらしい。一般人とは違い、彼らの舌は少しの変化にも敏感だ。すぐに、異常には気がついただろう。
もちろん、料理人だけでなく、食品関係全般において、調味料などを見直すことになるだろう。いつ味の変化が終わるかも分からないため、しばらくは迷惑をかけ続けることになる。
──すべて、私の責任だ。
私は、歌うことができなかった。
過去にも、同様の事件は発生したが、そのときは口笛で代用したらしい。声ではなかったが、十分素晴らしいものだったと伝えられている。
しかし、私は口笛が吹けなかった。昔から毎日、呼吸や頬の筋肉のトレーニングをしてはいるが、口笛や手笛、指笛、果ては歯笛など、楽器や道具を使わないものは、どうしても、吹けるようにならない。
多少、欠点があってもいいだろうという、気の緩みはあった。もっと、真剣に向き合うべきだった。楽器は一通り習得しているが、それでは意味がない。道具を使わず、自分を楽器とすることによってしか、蜜は作れないのだ。
私は厳密には女王ではないが、今まで女王として扱われてきて、女王となるべくして生まれたのだから、王位を継承していようといまいと、当然、
確かに、こうなった原因の一つは、女王の歌が下手なことだが、私は子どもの頃に歌の素晴らしさを女王に見込まれ、その際に、
幸いなのは、
そして、蜜を集め終わった直後、私の声は元に戻った。だからその後の、王家と縁を切り、あかりと再び婚約したことを伝える声だけは、どこまでも
私が警戒を
「どう? 塩ジャケ」
「──なかなかの腕ですね」
──たとえ植物の味が変わろうとも、塩の味はきっと変わらない。変わることが悪いばかりとも限らなければ、すべてが変わってしまうわけでもないのだ。そう考えることにしよう。
ちなみに、
「ところであかり、宿題はやったの?」
変化と言えば、いつの間にか、まなはあかりを榎下と呼ばなくなっていた。私のことは、姓を捨てたと知ってもなお、ゴールスファさんだというのに。なかなか、上手くやっているらしい。
「え、宿題なんてあったっけ?」
「無い日なんてそうそうないでしょ……。あんた、この間ティカ先生に一時間も呼び出されたの、もう忘れたの?」
「あはは、僕、寝たら全部、忘れるからさ」
「留年になっても知らないわよ」
「それはめちゃくちゃ困る」
その後の授業で、ティカ先生の投げたチョークがあかりの頭に刺さった。今どき、チョークなのだなあと、度々、思う。
***
絶対音感というものがある。音の高さを耳で聞いただけで瞬時に聞き分ける能力だ。何度もこんなくだりを繰り返していると、自慢のようになって申し訳ないが、私は絶対音感を持っている。ついでに言うなら、惑星の裏側の音くらいなら余裕で聞き取れる。
しかし、どんな物事にも良い面と悪い面がある。音がよく聞こえると伝えると、羨ましがられることが多いが、実際はそんなにいいものではない。
第一に、惑星の反対側の音なんて、いつ聞こえる必要があるというのか。次に、作曲家や歌手、楽器奏者ならともかく、普通に過ごしている上で絶対音感が必要とされることは少ない。そして、聞こえすぎるがために、普通に暮らしていると鼓膜が破れそうになる。
幼い頃は、よく耳から出血していた。というのも、子どもには魔法が効きづらいからだ。
私たちは八歳になると魔法が使えるようになる。しかし、それ以前の魔法が使えない間、子どもには魔法が効きづらい。
とはいえ、まなよりはましだが、それでも、傷や病気を魔法で治したり、魔法で遊んだりといったことが、子ども相手となると、非常に難しいのだ。
今は、魔法で極限まで聞こえないようにする対策をした上に、耳栓もつけるという対策をしている。ちなみに、嗅覚も同様に発達しすぎているが、そちらはあまり気になったことがない。
「はにほへといろはー」
ベランダに出て、何気なく音階を下からなぞると、隣とまたその隣の窓が開き、中から住人が出てくる。近い方から順に、あかりとまなだ。
「何? はにほ──って? ドレミじゃないの?」
まながこくっと首を傾げる。そんなに大きな声で歌ったつもりはなかったのだが、聞こえていたらしい。
「僕の故郷で、そう言ったり言わなかったりするんだよ」
そう。以前、あかりに教えてもらったのだ。なんとなく、こちらの方が響きが気に入っている。
「ふーん」
「興味なさそー……」
「それにしても、マナって、本当に歌が上手いのね。もっと聞いてみたいわ」
不意にまながそんなことを言い出した。音階を読んだだけでその評価はいささか、
「僕は遠慮しておこうかな」
「なんで?」
「歌姫の歌だからねえ。聞いたが最後、耳が幸せすぎて意識が飛ぶ」
「お酒の飲みすぎで記憶が飛ぶのと同じね」
「私の歌をなんだと思っているんですか」
「やばいクスリ」
ベランダを飛び越え、立ち姿勢のあかりに、軽く首四の字固めをお見舞いする。
「失礼ですよ」
「おっふ、死ぬ」
「はいはい、
まなの呆れた声を受けて、私は体勢を戻し、どさくさに紛れて手をがっちり繋ぐ。あかりがそれを
「ちょっと、
「らー」
「ギャア」
試しに音を確認しただけで、斬られて死ぬかのような声を出すあかりに、私は失笑する。
ふと、まなが私たちを凝視しているのに気がつくと、途端に、彼と繋いだ手から、
「あれれ? 自分から繋いでおいて照れてるの?」
「うるさい」
「……もう帰っていいかしら?」
まなが不機嫌そうに見えたので、私は惜しみつつも離した手をお腹に当てて、大きく息を吸い込み、歌う準備をする。
「──」
そうして、声を出そうと口を動かして、
「──。あれ」
声が出ていないことに気がつく。喉に手を当てて、もう一度、音を確認してみるが、異常はない。
「
「──」
声は出る。だが、いざ歌おうとすると、声が出ない。音程を思い浮かべ、それをなぞるように声を出すが、だんだんと、喉が
「──歌えない」
そうしてやっと、私は自分が、歌えなくなっているということに気がついた。
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