マスク美人
いちはじめ
マスク美人
もう人目を気にする必要はなくなったのね。
いい世の中になったものだわ。
マスクをしていても誰も変な目で私を見ない。
すれちがっても、誰もあからさまに私を嘲笑したりしない。
ただマスクをしているだけで、蔑みの眼で私を見下していた世の中がこんなに変わなんて……。
でも、ありのままの私を見てほしい。
私はこんなに綺麗なのだから……。
「マスクがむず痒い、ああ外したい」
「もういい加減に慣れろよ」
ほぼ毎朝繰り返される俺と同僚との会話だ。
「ソーシャル・ディスタンスが十分とれる状況では、マスクは不要だろう」
「法律で決まってんだから仕方ないだろう」
彼の言い分には一理あるが、公衆防疫推進法、通称マスク法が定められている以上従わざるを得ない。今やドラマや映画に登場する俳優に対してでさえ、マスクをしていないとクレームが来る時代だ。近頃では疫病禍以前の時代設定です、とわざわざテロップを打つことも珍しくない。
しかし目に映る人々全員がマスクをしている光景は、見慣れたとはいえやはり異様だ。表情の見えない人間が大量に歩いているさまは、ホラー映画のゾンビの群れを思い起こさせる。
そんなことを思いながら歩いていると、不意に同僚が肘で体をつついてきた。
「おい、あれ」
「やれやれ、またか?」
彼はマスク美人に目がない。マスクの下の顔と、想像した顔とのギャップが楽しいらしい。女性のマスクを外すのは、服を脱がせて裸にする以上に興奮を覚えるという。彼はこのご時世になってから覚醒した変態だ。
彼が顎で指した方向を見ると、信号待ちをしている歩行者の中に、他の女性とは雰囲気の違う女性がいることに気が付いた。まず耳元まで覆うほどの大きなマスクが目につく。そして、確かに彼女の目元の美しさは、異邦人というのだろうか、他の女性たちとは明らかに異なっていた。しかし俺は何か異質なものを感じていた。
「ちょっと声をかけてくる」
「遅刻はするなよ」
昼休みに受けた彼の報告では、何とかコンタクトは取れたらしく、あのマスクの下は相当の美人とみた、とはしゃいでいた。とはいっても、これで何度目だ、と苦笑するしかなかったのだが……。
それから一週間ほどたったある日、やっとデートの約束を取り付けたと彼は有頂天になっていた。
――今度は間違いないよ、後でちゃんと報告するから乞うご期待。
これが彼と交わした最後の言葉となった。
次の日、彼は出社してこなかった。連絡もつかなかった。三日目、さすがの会社も何かの事件に巻き込まれたのかと心配になり、警察に届けたが、彼の行方はようとして分からなかった。
例の彼女とデートしていたはずなのに、何があったのだ。彼女が何か関係しているのか。警察の事情聴取でもそのことは話したが、何の手掛かりにもならなかった。何しろ大きなマスクをしたマスク美人であるという他は、何の特徴もないのだから。
彼が行方不明になって数カ月が過ぎたある日、俺は郊外にある取引先の工場に出向いていた。打ち合わせが思いのほか長引き、仕事をようやく終えた時は、既に日も暮れようとしていた時刻だった。客先から車で駅まで送ってもらい、券売機でキップを買おうとしていたところ、改札から出てきた女性に目が留まった。異様に大きなマスクとあの目。
――彼女だ。
俺は慌てて彼女のあとを追った。彼女は市街地を抜け、町はずれの寂しげな道を歩いて行く。もう辺りに民家はなく、日もすっかり落ち、街灯の明かりだけがぽつぽつと道を照らしていた。
――どこへ行くんだ。
俺は声もかけずに彼女のあとを追ったことを後悔していた。それに何か嫌な予感がする。引き返そうかと思い始めた時、突然彼女の姿が見えなくなった。慌てて見失ったところに駆けていったが、姿を隠せそうなものや脇道などはなかった。
――消えた?
俺の全身に悪寒が走ったその時、後ろから無機質な女の声がした。
「私に何か御用ですか?」
俺は驚いて腰を抜かした。彼女であった。
「いえ、申し訳ありません、あとを追うようなことをして……。同僚のことをご存じないかと思いまして」
俺はどうにか立ち上がると、しどろもどろになりながら事の顛末を説明した。
「あなたのご同僚ですか? なぜ私が知っていると?」
彼女の声はマスクを介しているのに、やけにはっきりと聞こえた。それにマスクが全く動いていないのも妙だった。
「人違いだったら申し訳ないのですが、彼があなたとよく似た女性と会った後、行方知れずになっているんです。この男です」
俺はスマホに呼び出した彼の写真を見せた。
彼女はスマホをのぞき込むと頷いた。
「ああ、その方なら私の素顔が見たいというのでお見せしましたわ。あなたも見たいですか?」
「えっ?」
「私……、綺麗?」
彼女がゆっくりマスクを外すと、息をのむほどの美しい顔が現れた。ただ不気味に光る赤い唇が異様だった。
呆気に取られている俺をしり目に、彼女は小首を傾げ同じ言葉を繰り返した。
「私……、綺麗?」
にっこりと笑みを浮かべる彼女の唇が耳元まで大きく裂けてゆき、そこから真っ赤な長い舌がベロリと現れた。
マスク美人 いちはじめ @sub707inblue
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