お題8 尊い 『フレームの中で』

 僕が何よりも大切で、尊く思う物。


 それは手の中に納まる小さな物で、他人から見ればひどくありふれた何の価値も無い。


 その場の風景や時間を切り取り、後の自分に向けて今を伝える。


「あ、おじさん。良い写真取れた?!」


 ユニホーム姿の野球少年が、試合の様子を撮影していた大柄な男に好奇心を抑えられずに突撃する。


「…ははは、勿論だ。四番打者のツーベースヒットもバッチリさ」


 男は少年に頷て見せると、カメラの液晶から撮影した写真を何枚か見せてやる。


「おお~!」


「監督に頼まれた記念撮影は、試合が終わった後だからな。試合に出てる兄ちゃん忘れて、先に帰るんじゃないぞ?」


 学生の頃から趣味にしていたカメラ。旧友から珍しく連絡が来たと思ったら、自分が監督しているリトルシニアの記念撮影を頼まれたのだ。


 監督に就任して初めての大会だからとせがまれては、友人の頼みを断る事をしなかった。


 時折、彼の他にも撮影を頼まれる事がある。


 短大を出て直ぐに結婚したかつてのクラスメイト。結婚する数カ月前に彼女と別れて、別の女性とデートしラーメン屋に行ったと言って、写真を見せてくれたのだが、分かれたはずの彼女と結婚したのだなと男は感心した。


 会社の慰安旅行でカメラの担当を任せられる事も有った。こちらはビデオカメラでの撮影がメインだった。カメラを回していると酒を飲む暇は少なくて、みんなが顔を真っ赤にして酔っぱらっている中で、これは後で介抱もさせられるのだなとため息が出た。


 休みになるとカメラを手に、一人で出かける日もある。


 徒歩で近所を散策しながら、普段は気にも留めない花々を写し取る。電線に留まったスズメをズームしての撮影。止め処なく流れる川を前にして、 言葉もなく写真を撮り続けた。


 夕方に雨が降っていると男はいつもソワソワしていた。


 夕暮れの通り雨が止むと、絶景の撮影スポットが現れる。天から降り注ぐ水が空気の汚れを洗い流し、雨雲が晴れた夜空に輝く星は、足元に広がる全面の水鏡に反射する。


 男は思うのだ。


 やがて自分も年老いて、今の様に歩き回る事も自由には出来なくなる。その時までに海だったり、山だったり、もしかしたら外国かも知れない様々な風景を見に行きたい。そして写真を取り、アルバムをどんどん膨らませるのだ。


 年老いて歩けなくなった頃、僕の楽しみはこのアルバムをめくることになっているだろう。もしかしたら推理小説に嵌っているかもしれないし、夜通し映画でも眺めているかもしれないが、僕にとって何事も無い事が何よりも尊い宝物なのだ。


「あ、おじさん。試合終わったよ!」


 心の中にある感謝の思いを元の場所に戻すと、覗き込んでいたカメラから顔を離して少年の方へと近づく。


「ああ、そのようだね。今度撮影する時は、君もチームの一員になっているのかな?」


「へへッ、中学に入ったらな!」


 平穏な日常と、それを当たり前だと思わず記録として残すこと。それが最も尊いものと行いだと信じて。

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