夜明けのランナー

和辻義一

夜明けのランナー

 今でも時々、ある男のことをふと思い出す時がある。


 2000年代初頭頃、当時20代だった俺の趣味はクルマだった。あの頃はまだ各自動車メーカーから様々なスポーツカーが販売されていて、峠をスポーツカーで走るクルマ漫画が人気を博していた。


 それ以前からも「走り屋」と呼ばれるような連中はいたが、あの当時は全国あちらこちらの峠で、各々おのおのが自慢のマシンを持ち寄り、人様にはとても言えないような走り方で競争まがいの行為を繰り返していた時代だった。やれ最新の高級スポーツカーだの、500馬力オーバーのフルチューンマシンだの、様々なクルマに乗った連中が夜の峠道でたむろしていた。


 かく言う俺も、そんな連中のうちの一人だった。毎週末の夜にガレージからクルマを引っ張り出してきては、まるで狂ったかのようにひたすら峠を駆けのぼり、駆け下りた。


 一人で走ることもあれば、誰かと一緒に競争することもあった。やれドリフトが一番カッコイイだの、グリップの方が速いだの、峠道の駐車場で侃々諤々かんかんがくがくと自説を論じ、深夜まで速さを競い合い、語り合っていた。時々仲間の誰かがガードレールに激突したり、山の斜面に刺さったりして、ワイワイ言いながらクルマを押したり引いたりしていたこともあった。


 だが、そんなことを続けていたある日のことだった。あの光景を目にしたのは……。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 その日は深夜遅くまで、山頂付近の峠の駐車場で仲間達とたむろしていたのだが、走るのに飽きた者、クルマのガソリンがなくなってきた者から順番にその場を去っていき、気が付いたらその場に取り残されていたのは俺一人だけになっていた。


 次の日の予定は特になく、仕事の疲れもあったことから、その時は家まで帰るのが面倒臭くなって、俺はそのまま峠の駐車場で朝まで眠ることにした。夏の夜だったが、山の上の駐車場だったので意外と涼しく、車内の寝心地はそれほど悪くなかった。


 次に目が覚めた時、ふと時計に目を向けたら、そろそろ午前四時になろうかという頃合いだった。外は少し明るくなってきていて、駐車場の周辺にはうっすらと朝もやがかかっていたが、目を凝らすと駐車場の片隅に一台のクルマの姿があった。


 それは異様な光景だった。俺の仲間達の中でも、同じ車種のクルマに乗っている奴はいた。だがそれらのクルマは、そもそもまとっているオーラが俺達のそれとは全く違った。俺は自分のクルマから降りて、そのクルマに近寄ってみた。


 車体のあちらこちらに貼られている自動車用パーツメーカーのステッカーに、今まで見たこともないようなトレッドパターンのタイヤ。ちらりと見えた車内には、えげつないぐらいに複雑に組み合わさったロールケージと、そこからぶら下がっている車内通信用のケーブル。不要な内装は剥がされ、助手席の足元には、大きな消火器が横たわっている。


「よっ、おはようさん」


 不意に声を掛けられた。声の主は、クルマの反対側でしゃがみ込んでいた男だった。三十代前半ぐらいのその男は、手にエアゲージを持っていて、俺に向かって気さくに笑いかけながら言った。


「あのクルマ、君のか? この峠の走り屋さん?」


「えっ……ええ、まあ、そんなもんス」


「ひょっとして君も朝練組? だとしたら、なかなか練習熱心な走り屋さんだ」


「えっと……」


 朝練組というのがどういう意味だったのか、当時の俺には全く分からなかった。その様子を察したのか、男はニヤリと笑って言った。


「この時間帯だと、は誰も走っていないだろ? だから、走りの練習にはもってこいの時間帯なんだよ」


「一般人って?」


 俺がそう尋ねると、男は飄々ひょうひょうとした雰囲気でさらりと答えた。


「一般車両やら、峠の走り屋やら……俺達、あんまり人様の前で言えるような走り方をしないからな。だから、そういうクルマがほとんど走っていない時間帯に練習に来るんだ」


 一般車両が走っていないというのはともかく、峠の走り屋を「一般人」と言い切ったその男の物言いが、何とも気に食わなかった。少し低い声で、俺は尋ねた。


「そういうアンタは、一体何なんスか?」


 男は少しの間考え込んでから、ぼそりと答えた。


「んー、何て言ったものかなぁ……一番分かりやすそうなのは、競技屋?」


「競技屋、って……一体何をしているんスか?」


「俺の場合は、ラリーだよ。今年は一応、地区戦のチャンピオンシリーズを追いかけている」


 その言葉を聞いて、俺はなるほどと思った。えげつないクルマの正体が、その一言で分かったからだ。だがその一方で、違う疑問が脳裏に浮かんだ。


「ラリーって確か、二人一組で走る競技ッスよね?」


「ああ……相方コ・ドラは、今日は連れてきていない。いつものコースでの、単なる自主練だからね」


 俺はふと思い立ち、その男に言った。


「その朝練……助手席に乗せてもらってもいいっスか?」


 走り屋同士でも、お互いの練習の時に助手席に乗ることは珍しくなかった。男は少しの間考え込んだ後、言った。


「んー、まあ別に良いけれども……俺も自分の練習やら、マシンセッティングのテストやら、色々と試したいことがあるからな。最初の下りと登りの一本ずつだけなら」


 自らを競技屋と名乗る男の走りに興味を持った俺は、その条件で頷いた。男が付け加えるように言った。


「でもなぁ……先に言っておくけれども、俺の助手席、たぶん滅茶苦茶怖いよ?」


「これでも一応、走り屋ッス。大丈夫ッスよ」


「ふうん……まあ、そこまで言うんだったら、別に俺は構わないんだけれども。でも頼むから、助手席で吐くなよ? もし吐きそうになったら、出来るだけ早めにそう言ってくれ」


 そう言うと男は、自分のクルマの助手席のドアを開けた。俺は複雑に入り組んだロールケージをまたぐようにして、何とか助手席のシートに座る。やや寝そべったような姿勢のフルバケットシートで、シートベルトは五点式の本格的なものだった。


 シートに座った俺にシートベルトを締めながら、男が言った。


「まあ一本目の走りだし、いきなり本気は出せないから大丈夫だとは思うけれども、クルマに乗っている間は、必ず両手は胸の前でクロスさせておいてくれ」


「それって一体、どういう意味があるんスか?」


「下手に手を伸ばしていたりすると、万一クラッシュした時に大怪我を負う危険性がある」


 それから男は、クルマの後部座席を外した辺りに転がっていたオープンフェイスのヘルメットとレーシンググローブを俺に手渡した。


「サイズが合わないかも知れないし、多少匂うかも知れないが我慢してくれ。何かあった時に、怪我をされちゃ困る」


 幸いにして、ヘルメットもグローブもサイズはそこそこフィットした。男は助手席のドアを閉め、自らは運転席のシートに座ってシートベルトを手早く締めた。


「んじゃまあ、まずは軽く行ってみましょうかね。助手席に相方以外を乗せて走るのには慣れていないから、あんまり期待はしないでくれよ」


 男はクルマのキーを捻ってエンジンを掛けた。野太い排気音をその場に残して、そのクルマは走り出した。


 そこから先の様子については、恥ずかしながらあまりよく覚えていない。前後左右から襲い来る強烈なGに耐えながら、必死になって運転席の男を見ていたが、男は飄々とした雰囲気でクルマの運転を続けていた。


 クルマの走り方も、俺に言われせれば「頭のネジが数本なくなっている」ようなものだった。センターラインなどはおかまいなしに、二車線の道幅一杯のライン取りで、えげつないスピードで走るクルマのドアミラーには、時々道端から伸びた雑草がバチバチと当たっていた。一歩間違えれば、コースアウトからの全損間違いなしといった走りで、今までこの峠道で乗ったクルマの助手席のどれよりも、異次元に近い速さだった。


 峠道を下りきったところで、男はサイドブレーキを引いてその場で器用にスピンターンをし、そのままロケットが上昇するような勢いで峠道を逆走、駆け上っていった。元いた駐車場に戻った頃には、俺の足元はふらふらになっていた。


「一応吐かずに頑張ったな、感心感心」


 男はからからと笑ったが、こっちはそれどころでは無かった。


「アンタ、いつもこんな走り方をしているんスか?」


 必死に吐き気をこらえながら俺が尋ねると、男は二カッと白い歯を見せて笑った。


「まあ、な。助手席に誰も乗っていなければ、もっとペースアップが出来たんだが」


「……いつか事故って、命を落とすっスよ?」


 俺が正直な感想を述べると、男は頭を掻きながら、何とも言えない染み入るような笑みを浮かべた。


「さあて、ね……でも、俺の生きがいは、これラリーしかないからなぁ。身体が続く限りは、たぶんずっと走り続けていると思うよ」


 幸か不幸か、その男と出会ったのは、その時限りだった。どうやら男はそこそこの有名人だったようで、今でもたまに本屋で立ち読みするモータースポーツ関係の雑誌には、時々男の顔と名前が載っていた。二十年近く前に出会った頃からは随分と老け込んでいたが、どうやら今でも現役のラリードライバーとして、全日本選手権のクラスで走っているらしい。


 男と出会ってから20年近くの時がたっていて、走り屋と呼ばれるような人種はめっきりと数を減らしている昨今だったが、あの男は今も早朝の峠道を走り続けているのだろうか……そう考える時、俺はある種のノスタルジーを感じるが、あの男の助手席に乗るのは、二度と御免だとも思った。


 走ることでしか、走り続けることでしか己を表現できない男達は、確かに存在する。あの男もまた、そんな奇特な人種の一人なのだろう。一方の俺は、妻と子供を抱えて日々をあくせくと働き暮らしているが、家族に囲まれた幸せを実感すると共に、己の生き方を貫いているあの男のことを、少し羨ましく思うことが時々ある。


 どちらの方がより幸せなのかは、誰にも決められないことだ。とはいえ、それを決めることに大した意味はないだろうとも、俺は思う。

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