ジムでよく一緒になるクソガキ(♀)が煽ってきたのでわからせてやろうとした。

kattern

第1話

 課長になって二年目の健康診断でメタボと言われた。

 間違いなく管理職になったストレスが原因だ。


 部下から「社員証と全然違いますね」と言われるのを、ギャグにするのも限界だった。上の奴らが「川田、いろんな意味でたるんでいるぞ!」と五月蠅いのも。


 しぶしぶ俺は駅前のジムに通うことにした。

 そんな訳で週に三回(月・水・金)ほど、俺は仕事帰りにジムに寄る。


 仕事終わりなので寄るのは深夜。十一時から次の日の一時にかけて。休日の昼間なら、一時間待ちのマシンもノーウェイトで利用できるのはありがたい。


 そんな深夜のジムに気になる女がいた。


 いや「女の子」と言うべきだろう。


「……今日も飛ばしてるな」


 俺の肩くらいの身長。骨格が透けそうな痩躯。肩甲骨まで伸びるポニーテール。黒のタンクトップに、スカイブルーのショートパンツ。アディダスのスニーカー。


 いっそすがすがしいくらいに薄い胸と尻。


 まるで走ることに人生の全てを捧げていますというような少女。

 そんな彼女が、俺の右隣できまっていつも走っているのだ。


 それもかなりのハイペース――時速15kmくらいで。

 そして俺より長時間――途中休憩を挟むが1時間と半くらい。


 名前も知らなければ、年齢も分からない。

 一度も話したこともない少女を、俺は最近ふと気がつくと目で追っていた。


 誓って言うが別にやましい気持ちはない。

 単純に男の俺よりも、タフに走っているのが鼻につくのだ。

 たとえ彼女が成長期で、俺が肉体的な衰えを感じる年齢だとしても、こればかりはどうしようもない。


 俺も男だ。

 女には負けたくない。

 年下にだってだ。


 そんな訳で、俺はここ数ヶ月というもの、彼女になんとか肉体的においつけないものかと、無謀な目標を掲げランニングに臨んでいた。


 彼女が走る理由は分からない。

 身体付きから、陸上部ないしはそれに近い部活に入っているように見える。

 自主練だろうか。それにしては、部活での練習を考慮しない、本気の走りのようにも見えた。やみくもに走って速くなれるほど、甘い世界のようには思えないが。


 ただ、彼女の走る姿は、何か人を惹きつけるものがあった。

 華があるとでも言うのだろうか。


 別にマラソンどころか駅伝の楽しみ方も分からない俺だが、気がつくと彼女を目で追ってしまうのは、そういう魅力を彼女が持っているからだろう。


 人が走る姿に、これだけ魅せられたことはない――。


「ねぇ?」


 ただ、ちょっと眺めすぎた。

 気がつくと、ポニーテールを微かに右奥に向けて少女がこちらを窺っていた。


 スポーツマンらしい精悍な顔をこちらに向ける彼女。いつも横顔を盗み見るばかりで、正面からみたことのない彼女の顔に、少し俺の胸が高鳴る。


 会話するのも苦しいはずの速度で走っているはずだ。けれども、まるでなんでもないように、彼女はさらにその薄く紅がのった唇を揺らした。


「君さ、いつもこの時間にいるよね?」


 おもわず胸の高鳴りも忘れて黙った。


 自分に話しかけられているのが分からなかったんじゃない。

 君という上から目線の口ぶりが癪に障った。


 年上の人を君なんて呼ぶもんじゃない。彼女の親はいったいどういう教育をしているんだろうか。別に、俺が説教するような筋合いはないが、その無礼な言葉使いは不愉快以外のなにものでもなかった。


 それでなくても、自分より速くそして長く走る彼女に対するヘイトは高い。

 俺は忌々しいとばかりに鼻を鳴らして少女を睨み据えた。


 部下達からはこれでも恐れられている。

 婚期もこのいかめしい顔で逃している。

 泣かせないにしても、彼女を驚かせる自信はあった。


 だが、最近の子供はどうやら人種が違うらしい。心臓の造りが進化している少女は、そんな顔を向けられてもけろりとして――むしろ面白そうに微笑んだ。


 ダメだ。

 こういう手合いは相手をするだけ疲れる。

 こっちから仕掛けてなんだが無視しよう。

 俺は彼女から顔を背ける。


 けれども少女は俺のそんな態度を許さない。


「ねぇ、ちょっと無視は酷いんじゃないかな?」


「……」


「人の身体をなめ回すようにいつも見ておいてさ。いまさら、僕はやってません、見てません、えん罪です、女の身体に興味なんてないんです――ってこと?」


「そんな風に君を見た覚えは一度だってない!」


 絶妙に俺の繊細な感情を煽ると彼女は強引に口を割らせた。

 いいように手玉に取られている感じに、またしてもいい気がしない。


 けれども手玉にとった少女はさぞ気分がいいのだろう。

 にんまりと口元をつり上げて少女は、なに必死になってんのとさらに俺を煽った。


 からかうのもいい加減にしろよ。

 俺がその気になれば、いくらだって君のような女の子、無茶苦茶にできるんだぞ。


 大人として情けない怒りで頭がしっちゃかめっちゃかになった時、彼女がふと走るスピードを緩めた。その顔からはいつの間にか笑いが消えている。


「やめなよみっともない。なに怒ってんの?」


「怒るに決まっているだろう、こんな無礼な口を利かれて。だいたい、君の俺に対する呼び方はなんだ。君っていうのは――何かこう違うだろう」


「じゃぁ、なんて呼んでほしいの?」


「……お兄さん、とか」


「その顔で?」


「五月蠅い! 俺はこれでも、まだ三十五歳なんだ!」


 へぇ、と、少女が呟く。

 はっきりと俺が年齢を告げたのが効いたのかもしれない。


 ようやくこれで舐めた口を利かれなくなる。

 そう思った矢先、彼女はまた俺に向かって生意気を言った。


 いや、生意気な挑戦を仕掛けてきた。


「それじゃぁさ、私と勝負しようよ。十分間で、どっちが距離を走れるか」


「なんでそんなことを」


「もし君が勝ったらお望み通り、お兄さんって呼んであげる」


 けど、負けたら私のこと、言ったように呼んでもらうよ。

 そう言って、また底意地悪く少女がほくそ笑む。


 馬鹿馬鹿しい話だった。

 まったくもって、俺が乗る道理のない、無意味な勝負だった。


 一般的な価値観に従えば、彼女が俺のことを敬い、「お兄さん」ないし抵抗はあるが「おじさん」と呼ぶべきなのは明らかだ。

 勝負するまでもないことだった。


 けれども――。


「分かった。その勝負、乗ってやろう」


「オッケー! ワークアウトの設定方法は分かる?」


 このクソガキを俺は実力で黙らせたかった。

 大人の男の本気というものがどれほど恐ろしいか教えてやりたかった。


 生意気な目の前の少女にこの手で現実をわからせたかったのだ。


「絶対にお兄さんって呼ばせてやるからな?」


「はいはい、楽しみにしてるよ。ほら、設定したらすぐ始まるよ……」


 かくして、俺と少女の深夜の激走が、ここに幕を上げた。


◇ ◇ ◇ ◇


「負けた。完膚なきまでに。1kmも差をつけられて。ボロ負けだった」


 午前零時二十分。

 俺はシャワーを浴びてロッカールームを出ると、ラウンジの長椅子に腰掛けてでパンパンになったふくらはぎを揉んでいた。


 俺と少女の勝負の結果は嘆いた通り。

 まった良いところもなく、一方的に差を広げられて俺は負けた。

 最後には脚をつってマシーンの上で転倒し、スタッフを呼んでの大騒ぎ。


 こんな恥ずかしく惨めな夜は久しぶりであった。


「……死にたい」


「なーにしょぼくれてんの。足がつったくらいで落ち込みすぎよ。君ってさ、見かけに反してメンタル豆腐過ぎない?」


 そう言って、俺の前に現われたのは件の少女。

 ランニングウェア姿から、紺色に黄緑色のアクセントが利いたジャージに着替えた彼女は、右手にジムの自販機でしか買えないスポーツドリンクを持っていた。


 ふと、少女がその手に握ったペットボトルを俺に向かって差し出す。


「ほれ」


「……いや、ほれって」


「いいよあげるよ。もう半分飲んだから」


「いや、けど、それは。流石に、問題だろう」


 何を気にしてんのよと彼女は首をかしげた。


 いや、流石に間接キスがどうとかこうとか、子供を相手に考え過ぎだったか。

 てっきり年頃の彼女が嫌がるのではないかと危惧したが、やはり俺と彼女では人種が違っているようだ。


 勝負に負けた俺に拒否権はない。

 少女に、人間としての序列をわからせられてしまった俺は、もはやどうにでもなれという気持ちでペットボトルのキャップを回すと、一息にそれを飲み干した。


 少女の唇の味や感触など想像する暇もないほどに素早く。


 年頃の乙女の叫び声にしては、いささか無神経な声が響いたのはその直後だった。


「あぁっ! ちょっと! 君、なに飲んでるのよ!」


「……は?」


「打ったとこ冷やすのに使えって渡したのに! やめてよ! 間接キスじゃない!」


 なにを今更なことを言っているんだ、彼女は。


 顔を真っ赤にして、俺からペットボトルを奪い取る少女。

 今までの余裕に満ちた態度からは、思いもつかない慌てぶりだった。


 いや、けど、彼女にも年頃の少女らしい恥じらいがあったのは、少し嬉しい。

 まったくもうと少女に呆れられながらも、俺はちっとも嫌な気分ではなかった。それこそ、彼女に負けたことを、受け止められるようなそんな心地だった。


 さて、と、彼女が呟く。


「約束だからね。私のこと、これからは私が言った通りに呼んでもらうよ?」


「……どうしてもやらなくちゃだめかい?」


「見苦しいぞ! 男だろ、君は! 負けてぐちぐち言うな!」


 はい、と、彼女が唐突に俺にカードを渡してくる。


 掌にすっぽりと収まるサイズ。

 どこか見覚えのあるそれには、彼女の顔写真が貼られている。


 顔写真の横には縦に運転免許証の文字。

 種類の所には中型の印字。

 帯はまさかのゴールド。


「湯原亜紀。昭和58年3月9日生――って?」


 うふと微笑む少女――いや、湯原さん。

 そのえくぼの皺がほんのちょっぴり深く多いように、その時はじめて見えた。


「それじゃ、これからは私のことをお姉さんとお呼び」


【了】

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ジムでよく一緒になるクソガキ(♀)が煽ってきたのでわからせてやろうとした。 kattern @kattern

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