走り幽霊
木船田ヒロマル
走り幽霊
えー、
令和も三年目に入りまして、西暦で言いますところの2021年。
私めのような古い人間から致しますと、幼少の頃思い描いた未来の時代がとっくに過去の年月になりつつあります。
少年漫画や科学雑誌で読みましたようなタイムマシンや宇宙船、海底都市なんてものは今でも夢物語ではございますが、まあとはいえ、昭和と呼ばれた時代からは様々に世の中は進歩いたしまして、便利になったり安全になったりしておりますのも、また確かなことと言えますでしょう。
じゃあ何が変わったんだ、と昔を知らないお若い世代の方々はおっしゃられるかも知れません。
個人の感想で端的に申しますと、街が明るくなった、と言うのはここ二十年三十年の大きな変化と感じております。
ご年配の方々には頷いて頂けるかとは思いますが、昭和の夜というものは、今より一層くろうございました。
商店街も駅前も、夜も深まれば開いてる商店なんてものはなく、あかりが灯るのは夜鳴きそばと疎らな街灯くらいのもの。街灯と言っても今日日どこにでもあるようなLEDなんて上等な灯りじゃござんせん。
ちょっと都会なら水銀灯、田舎なら大通りでも裸電球が傘かぶってぶら下がっている有り様で、更に田舎ならそれすらも長いこと切れていたり、そもそも街灯なんてなかったりは当たり前の時代でございました。
その分、幽霊話や妖怪話は、当時は今よりグッと身近に感じらました。
何せ夜の街がしっかり暗いものですから、枯れ尾花すら幽霊として見るのは、これは逃れられぬヒトのサガと言って差し支えございませんでしょう。
夜は暗がりに
昭和の初め頃にございます。
墨田区両国、本所松坂の町に、与三郎という大工がおりました。
身の丈六尺三寸五分と言いますから、
成人男性平均身長がおよそ160センチの時代ですから、当時の人々は与三郎を大男と呼んで
さて、仕事も終わり、道具箱を肩に担いで帰ろうとする与三郎に声を掛けるものがありました。
「おい与三郎」
「へい、親方」
「おめえ……明日の夜ヒマだろう」
「明日の夜でござんすか? ええまあ。これと言ってでえじな用はありやせんが。何か急ぎの建て付けですかい?」
「いやそうじゃねえ。おめえを男と見込んで頼みがある」
「水臭えじゃねえですか。親方にはガキの頃から今日この今まで影になり日向になりお世話になりっぱなしだ。あっしにできることでしたら、力にならしてくだあさいや」
「
「目黒の長泉院に登る坂でござんしょう。妹が嫁いだ先が近所でして、甥っ子の五つ参りで
「近頃その坂に出る、らしい」
「出る?」
「これよ、これ」
「これ……ああカマキリですかい?」
「察しの悪い男だね。カマキリなわけがあるもんかい。出ると言ったら幽霊だろがよ、ゆ、う、れ、い」
「またまた。
「どこにツバ付けてるんだい。それを言うなら眉唾だ。いやな、俺も最初はそう思ってたんだが、どうも見てる奴が何人もいるらしくてな」
「近くに強い酒を出す居酒屋でも」
「いやいやいやいやいやいや。妹さんが嫁いだならあの辺がどんなか知ってるだろうよ。田んぼの周りに点々とアバラ屋があって、昼なお暗い森の間を縫う紐みてえな坂だ。酔っ払いが集まるような居酒屋があってたまるけえ。それに幽霊を見たってなあな、そこらで酒かっくらって適当言いやがるような連中ばかりじゃあねえんだ、そうよ、帝国大学の先生や、それこそ長泉院の偉いお坊様すら、確かに見たって
「へえ。大学のえれえ先生や、徳の高いお坊様がヒュードロを見なすったと」
「なんだい、おめえ幽霊をヒュードロって呼ぶのかい」
「へえ。その方が
「けったいな
でな、その幽霊ってのが世にも珍しい幽霊でな」
「幽霊に珍しいとかありふれてるとかあるんですかい?」
「話の腰を折るんじゃないよ。
十七が坂に出るこの幽霊、なんと──走る」
「走る? 幽霊がですかい?」
「おうよ」
「足がねえのに?」
「な? 珍しい幽霊だろ?」
「それはスッポンでも食った近所のジジイかなんかじゃねえんですかい?」
「それだけじゃねえんだ」
「と言いますと?」
「走る幽霊な、現れる度になんと──姿が変わる」
「姿が?」
「おうよ。おめえの言う通りジジイの時もありゃ若い娘の時もある。オマワリの姿のこともありゃ着流しの町人の姿の時もある。そしてそれが──走る」
「あっしが言うのもなんですが無茶苦茶な話ですねえ」
「気になるだろ? だからそれを一つ、この目で確かめてやろうと、ま、こういうわけよ」
「話はわかりやしたが、なんであっしにその話を?」
「いやそらだからお前、俺一人で行くのはほら……じゃねえか」
「すいやせん親方。今なんと?」
「だから……じゃねえか」
「もう少し大きな声でお願いしやす」
「怖いの! 幽霊一人で見るのは怖いの!
でも気になるの! だから一緒に来い! 明日の暮れ六、中里橋な! 絶対来いよ! 来なきゃ泣くからな!」
てなわけでございまして、当時大工の世界の上下関係は絶対でございます。
与三郎は妙なことになったもんだと思いながら、あくる日暮れ六、目黒川に架かる中里橋にやって参りました。
「与三郎! おい与三郎! こっちだこっちだ!」
「へえ親方。おばんにごぜえやす」
「なあおめえよく来た、ああ堅苦しい挨拶は抜きだ。俺の
「滅相もございやせん」
「夕飯はくったか」
「まだでさ」
「見ろあそこにうめえ具合に蕎麦屋の屋台がでてらあ、な、俺の
おい蕎麦屋、蕎麦屋。やってるかい」
言いながら
「へぇェェい」
「また年季の入った大将だねえ。まあいいや。蕎麦くんな。二人前。それと酒の冷てえのはあるかい?」
「へぇェェい」
「じゃあそれも二杯だ。なにぼーっとしてんだ与三郎、座れ座れ。ああいい匂いじゃねえか、なあ。こら
「へぇェェい」
「なんだろねこの親父は。耳が遠いのかい。何話しかけても『へぇェェい』しか言いやがらねえ。まあ世間話をしにきた訳じゃなし、うまい蕎麦さえ出りゃこちとら文句もねえんだけどよ……。
おっ! 来た来た。山菜蕎麦か。湯気たてちゃってまあ。腹の虫がカンカン踊らあ、なあ与三郎。こら鴨肉かい? 贅沢だねぇ。じゃあ冷めない内に頂こうじゃねえか。
じゃあ大将いただくよっ」
「へぇェェい」
ぱちん、ずーるずるずる、ずーるずるずる
「あー、うめえ! 特にこの山菜がうめえ! 見たことあるんだが名前が出てこねえや、なあ、大将、この山菜、なんて名だい?」
「へぇェェい」
「……まあいいや。具材の名前なんてな、蕎麦にとっちゃ大して意味のあることじゃねえ」
ずーるずるずる、ごくんごくんごくん、ぷはっ
「すすってうまい蕎麦と、飲んでうまい出汁、大事ななあその二つだ、なあ大将」
「へぇェェい」
「……家を囲う壁をなんていう?」
「ウォール」
「西洋かぶれじゃねえか存外にモダンだね大将。おお、とかなんとかやってる内に日もとっぷり暮れて頃合いだ。お代ここにおくぜ大将、うまかったよ。ごっそさん」
「ありがとうございましたまたお越しくださいませ」
「なんだいこの親父は気味の悪い。関わっちゃゲンが悪いや。行くぞ与三郎」
蕎麦を腹に収め、酒も引っ掛けて準備万端の二人、月明かりを頼りにいよいよ噂の十七が坂にやって参りました。
月は下限の半月。筋に流れて掛かる
春から梅雨に差し掛かろうかという季節でしたがその夜はどこかなまぬるく、ジメッとした嫌な汗が首筋を伝います。
遠く犬の遠吠えが聞こえる他は、周囲に人っ子一人おらず、親方と与三郎は坂の入り口、火の用心の重ね桶の前に並んで陣取りました。
「親方」
「なんだ⁉︎ 出やがったか‼︎」
「いえちげえやす。その足踏みをやめてくれやせんかね。ぱたぱたぱたぱたと落ち着きやせん」
「足踏み? 俺は足踏みなんかしてねえぞ、足踏みしてるのは与三郎、おめえじゃねえか」
二人はお互いの足と自分の足を見てアッと顔を見合わせてました。二人とも今にも走り出しそうな勢いで足踏みしていたのです。
「思い出したぁっ!」
「なんです親方⁉︎」
「さっきの蕎麦の山菜よ。ありゃハシリドコロだ!」
「ハシリドコロ?」
「毒のある草でな。食うとそうしたくなくても力尽きるまで走り続けちまうっちゅう、ああそらあ厄介な
「ええっ⁉︎ じゃあこの坂に出る走る幽霊ってなあ……」
「間違いねえ。あのボケジジイの蕎麦屋の客だ」
「親方ぁぁぁぁっ!!!」
「あっ、おいどこ行くんだ与三郎ぉぉぉ、俺を置いて行くなぁぁぁぁっ!!!」
急に駆け出した与三郎を追って親方も走り出します。それを見て、ギャア出たあ! なんて言う通行人が居たとか居ないとか。
「ひい、ひい、はあ、ふう」
「でえじょうぶか与三郎、ほっ、はっ、ほっ」
「あっしたちゃどこまで走るんでやしょ、ひい、ひい、はあ、ふう」
「わっ、分からねえ、足に聞いてくれ、ほっ、はっ、ほっ」
「にしてもハシリドコロってなあ、あっしら大工にゃピッタリの草ですねえ」
「大工にピッタリ? ハシリドコロが? なんでそう思うんでえ?」
「あっしら大工は建てるのが仕事。はしら、なけりゃあ仕事になんねえ」
お粗末にございます。
*** 閉幕 ***
走り幽霊 木船田ヒロマル @hiromaru712
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