落穂ひろい ―黄昏をゆく葦の小舟―
たびー
第1話 帰り道
お見送りぐらい笑ってあげて。
あなたがそんな顔をしたら、
今日、出発するのはうちの健だけみたい。わたしたち三人の他に誰もいない。
線路の横には赤いタチアオイが夏の風にゆれている。
「手紙、出せよ」
脅迫するみたいにむっつりして言うのは、そうしないと泣きそうだからでしょう。帽子のつばをぎゅっと下げて顔を見られないようにして。
分かってるわ、わたしも健も。
「うん」
うなずいた健がかついだ鞄に入っているのは、ほんの少しの身の回りのものだけ。寝台列車に乗って、明日の朝につく一区にある学校の寮に入れば、今以上にほとんどの物は支給されるから。
あなたも健も目を合わせないのね。
健が自分の将来を口にしたときから、なにかとぶつかってばかりで。
「おまえはずっと、ここにいるんだ」
……最後の日まで。
その言葉を言わなかったのは、あなたの理性の強さだったとおもう。
健がおなかの中にいるって分かったとき。
暑い日だったわね。今日みたいに。
でも、あの頃の夏は毎年暑くて暑くて、それこそ体温より高くて、クーラーがなきゃ死にそうって言葉もほんとだった。今はクーラーが無くてもしのげるくらいの暑さになって。地球のお天気ものどかになったのかしら。
『世界の富を平均にする』『平等な世界の実現』とか、最低限な暮らしの人を底上げしたら、自分たちが貧しくなるじゃないか。そう反発する人たちもいたし、実際に暮らしは前ほど便利じゃないけど、代わりに手にいれたものもあったわ。
仕事に縛られ過ぎない生活、お金に振り回されない生活、それから家族とすごす時間が増えた。
でもそれは、『絶望』と背中合わせ。
子どもができたって伝えたとき、あなたはわたしを抱き上げた。ぎゅっと抱きしめた。やった、やった!
って何度も叫んだ。
どんなにか嬉しかったのかな。夜を迎えても鳴きやまないセミの声がする外へ飛び出して、コンビニで妊婦向けの雑誌を何冊も買ってきてくれたのを覚えているわ。
「店員さんに、おめでたですか? って聞かれたからハイって返事したら、たくさんくれた」
そしてなぜか化粧品の試供品をもらってきて。そんなふうに店員さんまで巻き込んで、どれだけ舞い上がっていたの。
でも、わたしたちの喜びは、その数週間後に悲しみに変わった。
ねえ、誰が教えてほしいって言ったの?
六十年後に地球に彗星がぶつかるだなんて。
おなかの子が六十になるときに、地球は終わるんだって……そんなこと知りたくなかった。
それからの日々は、記憶から消してしまいたい。
産院での出来事はとくに。
誰もが悩んだから。
終わる世界に命を産み育てることの意味を。
なにもかも否定されたように感じた。せっかく授かった小さな命は無駄なの?
子どもを諦める……中絶を選ぶひとたちもいた。
幼い子を道連れにする事件も多発した。
わたしはその人たちを責められない。
なんてバカなことをしたの? そんなふうに言えない。
あなたはニュースをわたしに見せなくなった。でもそんなことをしても無理。
だから、二人で悩んで何度も何度も話し合って、産もうって決めた。
最後の日まで、生まれる子どもを守ろう、一緒にいよう……そう決めた。
そうして健が生まれてから、あなたの実家にちかいこの場所に引っ越して。あの頃、まだ元気だったあなたのお母さんも呼んで一緒に暮らして、とても楽しかった。
わたしは肉親と縁が薄い育ちだったから、お母さんといられることは、本当に嬉しかった。
昔ながらの手仕事が上手なお母さんに、たくさんのことを教わった。
花や野菜の育て方、あんこの煮方、梅干しや梅酒の漬け方、うどんやジャム、パンまで作っちゃう。
編み物、縫いもの。ハギレでパッチワーク、古着をほどいて裂き織。
なんでも作れる魔法の手。憧れたわ。
毎日を丁寧に暮らす術を身に付けていたから、わたしたちが不慣れな輪番に出る時には、事前に色々と教えてくれた。
病気になった時でさえ、ベッドのうえで手仕事を続けた。
健のためのセーター、わたしやあなたのショールやマフラー、手袋……。
使いきれないほどのたくさんの編み物や縫い物。
……これは残る人たちへの贈り物。こんなことくらいしかできないけど。
そんなことないの。お母さんの残したものは、今も冬には大活躍してるの。配った近所の皆さんも使ってくださってる。
そんなお母さんの息子だからかしら。あなたも輪番の仕事を頑張ったし、小さいころから健も一緒につれて行ったわね。
駅前にある食堂で、配膳のお手伝いをしたり空き家の掃除や地区の畑の世話。行けるところには、いつでも一緒。
ちょっと妬けたわ。
「ずっと一緒にいよう。それがこの世界に健を送り出した親の責任だから」
あなたはそういった。わたしもそう思った。
手塩にかけて育てよう。いつもそばにいよう。教えられることや与えられるものは惜しみなく与えよう。
そして……最後の日には一緒に。
でも、健は健で考えていたのね。
自分に何ができるのかを。みんなのために、何ができるかを。
あなたと二人、我が家のために小さな風車を建てて、わずかな発電を喜んでいた。
「エネルギー供給を支える仕事がしたい」
以前に比べたら送られてくる電気はほんとうに少なくなったけど、生活を支える大切なこと。
ほんとは、そんな専門職や責任の重い仕事を専任にしなくても、輪番だけで過ごすこともできる。みんなの日々の生活をお互いに支えながら、配給品やクーポンをもらって無理せず暮らしていける社会。
それを選ばなかった健にあなたは落胆した。
健の決意は固く、何度となく繰り返されたあなたとの言い争いにも、気持ちを変えることがなかった。
もう十八だもの。
警笛が鳴り響いて、私たちは思わず線路に目を向ける。
連結された青い車両が、いちばん近い踏切のすぐそばに見えた。
あなたは焦ったように健を見つめた。
健の目に薄く涙があふれてきた。目を見開いて唇をかみしめている。
電気技師やエネルギー管理の仕事は専門職だから、一区の学校で四年間学ばないといけない。
その後の赴任先も、全区に散らばる。時には、海の向こうにまでも。
「……行ってこい。行って、勉強しろ。おまえの……」
ホームに滑り込んだ列車の轟音に、あなたの言葉はかき消された。
列車の窓の向こうには、健と同じくらいの歳の子たちの顔が見えた。半分引かれたカーテンの陰にうつむく姿。みんな、一区のそれぞれの学校に向かうために乗車している。
健は荷物をもって、タラップを上がった。あなたとわたしはそれを数歩追う。
「体にだけは気をつけろ」
ぶっきらぼうなあなたの言葉に、健は涙をためた瞳でわたしたちを見ている。
おかあさん、おかあさん、きょうねがっこうでね……。
不意に小さかったあなたが、わたしの腰に抱きつく幻を見る。
わたしの目から熱いものが流れ落ちた。
みんなのため、なんて考えなくていい。じぶんの思うように生きていい。
ドアが閉まり、汽笛が鳴った。
ああ、列車がゆっくりと走り出す。
ごとんごとんごとん。
「健!」
列車に合わせて走り出したあなたとわたしに、健は涙をぬぐうと頭を下げた。
あなたは帽子を脱いで、振り回した。わたしはただただ手を振った。
ホームの端までのわずかの並走。青い車列は夏雲の向こうに吸い込まれるように消えていった。
まだかすかに列車のきしむ音のこだまが耳に届いた。
いつしかそれはヒグラシの声に取って代わられていった。
ホームはまたわたしたちだけになった。
「帰りましょう」
わたしは目を真っ赤にしたあなたの手を取る。
「帰ったら、お母さんが作った梅酒を飲みましょう。昨夜のごちそうもまだ残っているから」
駅の改札口を抜けて、わたしたちは家路をたどる。今日は自転車は使わなかった。
ゆっくりと歩いて帰るために。
「お母さんの三十年物の梅酒よ」
「そんなもの家にあったのか」
鼻をすすってあなたがわたしに訊ねる。
「亡くなる前に教えてくれたの。『何か嬉しいことがあった時に飲んで』って」
嬉しいこと、の言葉にあなたが眉をしかめる。
「嬉しいことじゃない? 健の親離れの日だもの」
誰かのために何かしたいと考える子を育てたのよ。わたしたちの子育てもまんざらじゃなかったのよ、きっと。
あなたは、帽子のつばをぐっと下げるとまた黙ってしまった。
「ね、今年の梅酒だけど……最後の日まで取って置いたら七十年物になるのよ」
「そんなにか……」
そう、まだ四十年もあるの。最後の日まで。
「なんだか、わたしもあなたも急ぎ過ぎたみたい。あれは、まだ先のことなの。必ず来るけど、まだまだ先」
彗星が地球にぶつかる日は決まっている。
それが発表されたとき、なんで「三日後です」ってなるまで待てなかったんだろう。六十年後です……てなんなの? って思った。残りの半世紀以上を思い悩んで苦しんで生きろ、と突き付けられたと思った。
でも、きっと違う。
どう生きるのか、考えて欲しい。
大切なものは何なのか、大切な人は誰なのか。
そうやって生きて欲しい。
テレビでしか見たことないけど、あの総理の顔は今も覚えている。
「わたしは、あなたのそばにいるから」
あなたはわたしの手を握り返す。
黄昏のなか、長く伸びる二人の影ぼうし。そのあいだに、ちいさなあの子はもういないけれど。
まだ出来ることがあるわ。
たとえ帰り道でも、こうしてあなたと手をつないで。
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