EP10 暗躍

 一方でその頃のローマはまさに混乱の極致にあった。


「小麦の値段が急激に上昇しています。聖下、どのようにしましょうか」


 クイリナーレ宮殿の執務室にローマ総主教庁の官僚が報告する。ローマの状況はかなり深刻だった。


 人々は大挙して小麦店に押し入り、取引を求めている。すでにいくつかのパン屋は仕入れが困難になり廃業になっていた。それに連動する形で大量の失業者が出て、ローマの治安は地に落ちている。


「仕方がない、小麦店と個人の取引を禁止にする。密売も厳しく取り締まれ」


「しかし人員が足りません」


「騎士団を動員してもいい。とにかくローマ市内の治安さえ維持できればそれでいい」


 グレゴリウスは厳しい状況に立たされている。あまりに状況を改善しすぎて、小麦の値段が安定してしまえば、儲けが減る。かといって治安の悪化を放置し続ければ、破壊と暴力はローマを支配し、不可逆な壊滅をもたらすだろうことは明らかだった。


 ただでさえ、初めての領地運営でうまくいかないことも多いのに、食料危機まで重なるといよいよ難しくなる。


「騎士団の仕事を防衛と警察業務のみとしよう。礼拝出席義務も免除する。とにかくローマを安定させるのだ」


 グレゴリウスは夜警国家の道を選んだ。究極的には福祉国家を目指すグレゴリウスだが、現状では仕方がない。リソースは限られている。最善はこれだと信じて今はローマの手綱を離さないようにするしかなかった。






 ほとんどが皇帝の予想通りになった。物価の暴騰と失業率の増加、それに戦争とくればもう結末は決まったも同然だろう。


 今ここに現代人がいれば――少しでも経済に詳しい現代人がいれば現状をきっとこう言って断じるだろう。つまりスタグフレーションだ。


「陛下? かなりまずいことになってるようですが」


 新たに入れられた侍従長ソフィアが話しかけてくる。教会側の人材不足はわかるのだが、もう少しどうにかならないものかと思わないでもない。この女礼儀というものがこれでもかというほどになってない。多分作法とか、言葉遣いなんかはわかってはいる。わかっているのにやらないのを匂わせてくるのだ。それが何より癪に障る。


 まあ七つの丘のメンバーでもある彼女は皇帝の身辺を維持するのには好都合ではあった。


 宮中伯と呼称することもあるこの職は5世紀半ばに設置された伝統ある官職である。当時はローマを裏から操っているとまで言われた権威ある官職だったが、素性不明の女に奪取されてしまった先人は泣くに泣けないだろう。この職を目指して政争に身を投じたものもいるというのに。


「そのようですね」


 皇帝は言葉少なに応じた。


「そのようですねって……」


「ローマ総主教には今しばらく耐えてもらうほかありません。両陣営への打撃はもっと深刻なはずです」


「聖下は多分チキンレースとか苦手なタイプだと思います」


 自分の雇い主になかなかな態度だが、彼女にとってはこれが平常運転だ。


「うん、まあそうでしょうけど。他にやれる人もいないので」


「しかしよくもこう簡単に相場が操れますね」


「別に難しい話でもありません。物が減るかもしれないという危険だけで人は動くものですよ。後はそれを伝えるメディアさえあればいいわけです」


「つまり扇動ですか」


「そうとも言えますが、実際食糧が不足するだろうことは間違いないわけです」


「そうですが……」


 狂乱物価はしばらく収まらない。重税を課して緊縮財政を強行すれば値段自体は収まる可能性はあるが、そんな勢力は反乱か裏切りでつぶれることになるだろう。この混乱を切り抜けるにはやはり食糧の増産しかない。


「でもいいんですか?」


 ソフィアが思い出したように尋ねる。


「何がでしょう?」


「教会が負けてしまうかもしれませんよ?」


「それはないでしょう」


 小麦の物価上昇に困るのは教会側だけではない。当然元老院も困窮するし、ゲルマン人にも波及する。ラティフンディアを所有している分元老院有利に見えるが、戦力比からみて、やっと互角くらいだろう。


 これで外部の手がなければ、互いに食糧不足となって、泥沼に陥る。泥沼が長引けば我々が儲かる。戦争の主導権は教会でも元老院でもなく、七つの丘が握っているのだ。

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