EP9 エジプト戦争 ―4―

 結局大したことも起きない攻囲戦だった。基本的には包囲をし、一日に数度攻城兵器を伴って攻撃が加えられる。防衛側はそれに対抗して攻撃側を打ち倒す。


 極めてポピュラーな攻囲戦の裏で起こっていたのは極めてイレギュラーな戦争だった。不安を煽るためローマ周辺では食糧不足の危機を喧伝し、餓死者を積み上げながら利益を目指す。秘密結社の闘争が始まった。


 ルキウスはグレゴリウスを動かし、ローマ総主教庁のもとにあるすべての教会が十分な食糧を備蓄するように命令。民衆には食糧不足の可能性を示唆する通知を各教会を通じて連絡した。


 民衆のすべてがこのキャンペーンに応じたわけではなかったが、商店から小麦が無くなるにつれ、波に乗らざるを得なくなった。


 民衆はやがて困窮し、死者の葬列は連日連夜に及ぶ……。




 そこからさらに時が流れて6月半ば。最初に異変を感じ取ったのはアレクサンドリアの港湾ギルドだった。


 アレクサンドリアの商人は攻囲中の騎士団に物資を補給する任務を負っており、パンをアレクサンドリアの窯で焼きそれをカイロの騎士団に輸送し続けていた。


「また値段が上がるのか?」


「ええ、この価格より下げれば私たちの利益が無くなってしまいます」


「最近値上がりが続くな」


「そちらも大変でしょうが、我々も困ってるんですよ」


 代金を入れた小箱を船に積み込む商人ははにかみながら言った。とはいえそんな言葉を額面通り信じるようではアレクサンドリアの商人は務まらない。隙あらば騙そうとしてくるカイロの生産者を相手に商売しているのだ。


 ちょうど港湾ギルドの会長が歩いているのが見えた。後の積み込みと処理は部下に任せて商人はギルド長に耳打ちした。


「ギルド長、会合を開いてもらいたい。小麦の値段が吊り上げられてるみたいだ」


「それは私も把握している。収穫前には値段が上がるものだが、あまりに高くなりすぎだ」


「おそらく交易商が中抜きしてるんだろう。舐められっぱなしじゃたまらない。先手を打って二三隻沈めれば奴らも思い知るんじゃないか?」


「まあ待てよ。詳しいことは交易商を会合で問い詰めてからでもいいだろう?」


「まあ、あんたがそう言うなら……」


 商人は渋々ながらも引き下がる。ギルドの連帯は何よりも優先されるべきものだ。






 港湾ギルド本部では議論が紛糾していた。


「だからね、あんたがた交易商が仕入れ値をごまかして私腹を肥やしてるんだろうと、そう言ってるじゃないか」


「いやいや仕入れ値が上がってるんだ。俺たち交易商が値段を釣り上げてるんじゃねえ。もっと上流で、何かがあったんだよ」


「馬鹿言ってんじゃねえ。お前たちより上流なんてラティフンディアしかねえだろうが」


 交易商と港湾ギルドは今にもつかみ合いの喧嘩になりそうな状態で、まともに議論はできていない。


「落ち着けよキスカ。……だが交易商さん、俺たちだって遊びでやってるわけじゃねえ。あんまり高い値段で騎士団に売ったんじゃあこっちの面子が立たねえだろうが」


 おそらくここに現代人がいれば、彼らをヤクザかマフィアだと思うだろう。実際遠からずというところだが、この世界では地中海と言えど安全保障してくれる機関はない。自己防衛が必須の商人階級にはこの程度の荒くれ物は少なくなかった。


「くっ、だが仕入れ値が上がってるのは事実だ。ここにその帳簿がある」


 ギルド長の気迫に折れたのか交易商が一枚の紙を差し出す。


「……確かに値段が上がってる。しかもかなりスピードで」


 ギルドの側にどよめきが起こる。彼らは確かに小麦を中心に取引する交易商だが帝国全体の相場を完全に把握するには至らない。急激な上昇が起これば混乱は必至だ。


「小麦がそんなに足りていないはずがない。誰か流れを止めている奴がいるんじゃないか?」


 確かに小麦は常に不足している商品の一つだが、これほどの高値になったことはない。二十年ほど前に蝗害があった時よりも明らかに値が上がっている。


「売り惜しみか。よくあることとはいえ大規模すぎないか?」


「なあ、これどこからか情報が漏れてるってこと、ないか?」


 若手の商人が手を上げて話し始めた。


「情報? どういうことだ」


「だからさ、誰かが今年はアエギュプトゥスの小麦は取れないって言いまわったら……」


「民衆がこぞって小麦を買い占めようとする?」


「ああ」


「あり得るかもしれんが、じゃあどこで?」


「わからん」


 話にならんという風にギルド長は首を振った。


「まあそんなこと考えても仕方ない。とりあえずすべきは小麦を必要なだけ仕入れることだ。……カイル、頼みがある」


「何だ」


 老年の商人が答える。


「あんたは総主教庁に伝手があったよな、値段が上がってる旨を伝えて交渉してきてほしい。できればきっちり払ってほしいが、最悪こっちが身銭を切ろう」


「たとえ相手が教会と言えど面子捨てた商人に商売はできんぞ?」


 カイルと呼ばれた商人が重々しく言った。


「ただでくれてやるわけねえだろうが、利息付きで貸してやるか、カイロの小麦の独占特許と引き換えだ」


「それならどうにかしよう」


 すんなりと受け入れると腕を組み、聞きに徹する姿勢を見せる。ギルド長は満足そうにうなずくと再び全体に指示を出す。


「ライアンはギルドが貸し付けた金を回収に行ってくれ。ヨハンは船を出してガリアあたりから買い付けてきてくれ」


 二人の若い商人がうなずく。


「じゃあ当面の対策はこれでいく。それとこれ以降は週に一度会合を開いて情報を整理する。いいな?」


「「おう」」


 三々五々に散っていく商人は納得していたわけではないようだが、当面の間はギルドの方針に従うだろう。アレクサンドリアの港に出入り禁止にされるリスクを冒してまで一人勝ちを狙うほど危険な物価ではない。


 今の価格はせいぜい以前の相場の3倍程度。10倍、20倍になりそうなら手を打たざるを得ないがどうなるか。


 すでに相場の波に乗り損ねた商人たちは港湾ギルドの面子をかけて経済競争に身を投じた。

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