EP6 エジプト戦争 ―1―

 帝国属州アエギュプトゥス。かつてアウグストゥスによって皇帝の私領とされたそこは元老院派閥と教会派閥の抗争の本場となっていた。


 もともと豊かなこの地で生産を取り仕切るのが、カイロを中心としたナイル川流域を支配する総督グレンティヌス・コルネリウス・スキピオ。元老院議員の叔父からこの地の総督を斡旋されてから12年、ナイルのほとりで抗争を繰り広げている。

 

 叔父はすでに死んだが元老院議員の地位は兄が引き継いだ。元老院議長をしているアルトゥス・スキピオは彼の従兄にあたる。スキピオ家はアエギュプトゥスに広大なラティフンディアを有しており、ここからの収益が元老院を取り仕切る御三家の一角、スキピオ家の繁栄を支えている。


 このようにローマでの身分は盤石だが、民衆からの受けは芳しくなく、思ったような税率を課すことができないでいる。


 一方それを地中海に流して利益を得ているのが、アレクサンドリアを中心とした沿岸部を支配するアレクサンドリア総主教マルコ16世。着座は8年前だが騎士団出身の総主教であり武力に秀でている。


 コンスタンティノポリス総主教とも仲が良く、キリスト教徒の民衆からもかなり人気がある。イスラム教徒をはじめとした他宗教の信徒を港から締め出すなど、対異教徒の強硬派でもある。一見彼の治世は順調だがその統治は芳しくなく、賄賂と不正が横行しつつある。


 彼らはある程度拮抗していたが、そのバランスもそれぞれの本拠地からの支援があればこその話。総督グレンティウスはローマから、マルコ16世はコンスタンティノープルから多額の金と物資とを受け取って、時に武力で、時に経済的な競争をしていた。


 しかしローマが教会によって占領されて以降、元老院による総督への支援は打ち切られた。グレンティヌスは隣のキレナイカ総督に支援を要求し、アレクサンドリア総主教との本格的な戦闘の時が来たことを悟った。






「聖マルコ騎士団は全力出撃。カイロに向けて進撃する。これをもって帝国東部での教会の優位を確保し、憎きムスリムに対抗する」


 マルコ11世は恰幅のいい老年の聖職者だ。伝統に従って長いあごひげを蓄え、五大総主教座で唯一使徒聖マルコからの使徒的継承を主張している。


「はい、聖下。総督の方も気が付いたようで攻城戦になるかと思われます。軍団レギオンは弱兵ですが籠城戦ならばそれほど影響しないかと」


 そばに控える騎士団長が報告する。彼はマルコにとって三十年近い付き合いになる盟友である。騎士団員としてのキャリアは団長の方が長かったが、より中央に近かったマルコが次のアレクサンドリア総主教に選ばれた。彼自身は不満を感じているのかもしれなかったが、それを態度に見せることはしなかった。


「構わん。キレナイカとの境界にはアンティオキア総主教の聖バルナバ騎士団が送られている。ここアレクサンドリアにはエルサレム総主教の聖パウロ騎士団の一部が残るのだからどれだけ時間がかかろうとアレクサンドリアは落ちん」


 敗北の目を潰した以上は、勝利は確実。アエギュプトゥスを掌握し、キリスト教化し、小麦を独占する。目的も手段も実にシンプルだ。シンプルであるがゆえに失敗も少ない。


 心配なのは国外の勢力だ。イスラム教徒が聖戦ジハードを宣言する可能性が残っている。実際にこれまでも何度かそういうことはあった。多くの場合で目標はエルサレム。


 長年魔術技術で優るこちらが勝利し続けてきたが、19年前にアラビア属州の大部分が奪われた。エルサレムは守り通したもののアエギュプトゥスまでは目と鼻の先。介入の可能性は残っている。


 しかし今回は乙女マリア騎士団の一部が8日後にはエルサレムに入城する。決してムスリムに遅れはとらないだろう。アレクサンドリアにムスリムが来るようなら逆に乙女マリア騎士団をアラビア半島に差し向ければいい。場合によっては帝国の失地を回復できるかもしれない。


 しかして教会が帝国を掌握する。将来的には我らが海に偉大な神の王国が誕生するだろうことを、マルコは決して疑っていなかった。


神がそれを望まれる!デウス・ウルト


 出撃前の決まり文句を唱えて出発する。然り、神がそれを望まれるのだ。

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