敗北と帝国

坂崎 座美

権力掌握編

EP1 過ぎ越しの子羊はすでに屠られた

 人を愛するには犠牲がいる。


 そのことに気が付いたのは本当に幼少のころだった。


 1453年、本来ローマ帝国が滅んだはずの年に、帝国はなおその巨体を地図上に示し続けている。しかしそれは必ずしも帝国の現状は健全であることを示すものではなかった。


 内戦と混乱、飢餓と荒廃。あらゆる暴力は帝国に君臨し、人々は苦しみのさなかにある。


 まさに、帝国は地獄だ。


 だけど、まだ諦めていない。折れない心を確かめるように、燃え盛る部屋の中で一人、少年は左胸を叩いた。






 ――10年と少し前のこと。一人の女が少年のもとを訪ねた。その人は少年にとって28人目の乳母だった。


「初めまして殿下。新しい乳母のミゼット・べルシウスと申します」


 その女は、着古したスカートが目にも痛々しい。ぼさぼさの黒い髪の毛が哀れを誘う。それでも眼だけは自信に溢れた、濁りのない瞳を持っていた。


つまり、なんとなく合わないだろうな。という予感はあった。



「殿下! 朝食が少なかったのではありませんか? それと寝具! シーツと枕はもう干してしまいますよ。よろしいですね?」


「ミゼット、いいんだ。君の好きなように仕事をしてくれ」


「いいえ。いいえ! そんなわけに……。そうだ! 殿下の好きな野イチゴを摘んできましょうね。それでおいしいジャムを作りましょう。きっと気に入ります!」


「あの、ミゼット? 私は別に野イチゴが好きなわけでは……」


「いいえ。いいえ! 殿下が喜んだのをミゼットは見逃しませんとも! すぐに戻りますからね」


 ばたばたと慌ただしく部屋を出ていく彼女の後姿は、初めて会った日のスカートのまま。だが、痛々しかったはずのその外見は、いつしか頼りがいのある母の面影に変わっていた。


「ミゼット? シーツと枕はどうしたんだ?」


 ただ、少し人の話を聞かないところがあったが。




「いいですか殿下? この1261年の動乱で帝国は更なる混乱の渦に飲み込まれました。ローマを中心とした大反乱によって皇帝が暗殺され、元老院も半壊、ゲルマン人も教会も大きな打撃を受けました」


「経済学的視点に立てば不況は必ずしも悪ではなく、むしろそれが民間企業によるイノベーションを進展させる可能性を秘めているポジティブな一面もあります」


「博物誌は素晴らしい百科事典ではありますが、中には虚構が多分に混ざっていることに留意しなければなりません。特に動物の項にあるペガサスなどは物理的に存在しえないことが明らかです」


 大変博学な彼女は家庭教師の任を十分に果たした。時代の最先端さえ追い越した彼女の知識は没落貴族パトリキの令嬢が持ちうるそれを遥かに超えている。一体どこでその知識をと尋ねても彼女ははぐらかすばかりだった。


 だが不満があろうはずもない。もともと知識欲が強かった少年は勉強をそれほど苦としなかった。


「殿下、素晴らしい成果です。完璧! 天才!」


「ミゼットうるさい。それより次は生物では?」


「ええ、ええ。そうですとも殿下、生物はいいですよ。何と言っても未知に溢れていますから。本来なら外で観察したいところですが……」


「それはやめた方がいい。何のために修道院に送られたのかを理解しておかなければ、私もあなたも危険だ」


 帝国皇太子という身分は厳密には存在しないが、実際的には次期皇帝という立ち位置は否応なしに政治的にならざるを得ない。当然情勢によっては修道院に軟禁されることになる。


「そうですね」


 残念そうにうなだれたミゼットは隣の部屋からのそのそとテキストを持ってきた。


 不自由だが、不幸ではなかった。そう断言できるのは後にも先にもあの瞬間だけだった。少年は今も昔もあの時の幸福を食いつぶして生きながらえている。




 殿下が陛下に変わるのに、そう時間はかからなかった。永遠の尊厳者、神の恩寵におけるローマ皇帝、元老院と市民の第一人者。いかなる称号で飾り立てようと実権が伴わなければ虚飾に過ぎない。


 父親――とされている先帝はどうも暗殺されたらしい。詳しい事情は分からないが、死んだのは恐らく事実だ。つまり次期皇帝が推戴されることが決まった。


 壮麗な戴冠式も、由緒ある宣誓式もない書類だけの戴冠になったが、少年はある種何者かにようやくなれた気がしていた。


 だが、生活が変わるわけでもない。少年改め皇帝はいまだにナポリとローマの間、モンテ・カッシーノ修道院に入れられたままだ。


「陛下、無事皇帝となられましたが勉強は継続しなければいけません。いいえ、むしろより苛烈に、過剰に知識を詰め込みましょう!」


 興奮した様子のミゼットはまくしたてるように話した。


「ミゼット、皇帝となったところで何が変わるわけでもない。私はこのまま教会に飼い殺しにされるか、対立する元老院に暗殺されるか、ゲルマン人に拉致されるか……。いずれにしてもろくなことにはならない。


 だから所詮勉強は娯楽なんだよミゼット。どう足掻いても、私はもう詰んでいるんだ」


「陛下……」


 皇帝の口にしたそれは単なる悲観主義ペシミズムなどではない、客観的な事実だった。侵攻してきたゲルマン人を自らの領土を与える形で帝国に取り込んだ結果、皇帝の権力はかつてないほどに下落している。


 事実として、皇帝の権力は無いに等しく、政治情勢によっては暗殺も当然あり得る。


 だが、皇帝は本当の意味でそれを理解しているわけではなかった。実際のところ、彼は本当に殺されるかもしれないと考えて、準備して、策をめぐらせることを怠った。


 そして、その怠慢を見逃すほど中世は優しくない。代償は必ず払わされることになる。諦めたものから死んでいく。


 中世は剣と魔法のワンダーランドでも、夢と希望の新天地でもない。これでもかというほどに残酷な生存競争だ。




 歴史ある修道院でも、崩れ去るのはあまり一瞬のことだった。内部の裏切りと外部の脅威があれば山上に建てられた修道院とて落ちるのにそう時間はかからない。


 元老院の派遣した軍団レギオンが自分を攫いに来た。その事を皇帝が認識したのはすでに修道院内に兵士が侵入した後だった。


 何もかもが遅きに失し、生存は絶望的。元老院が修道院に入れられっぱなしの皇帝をよく思うはずがない。それをわかっていながら手を打たなかったツケは重かった。


「ミゼット、君は一応貴族パトリキの系譜。生かしてもらえる公算はある。早めに降伏した方がいい」


 だが、皇帝は死ぬ覚悟を決めていた。所詮皇帝は皇帝に過ぎない。替わりはいくらでもいるし、作れる。それよりは、誰かにとってかけがえのない、彼女に生きてほしい。皇帝にとってそれは偽らざる本音だった。


「いいえ。いいえ! 陛下も生きるんです! なーに、腐敗した軍団レギオン兵士の一人や二人どうってことありません」


「恐らく敵は300以上はいると思うので、早めの降伏を」


 淡々と返しているが、時間がない。兵士がまっすぐに皇帝の下に来るのは確実。逃げるにしても投降にしても早くしなければ命はないだろう。


「陛下。いかなる理由があろうと生きるのを諦めてはいけませんとも。最後まで生き抜く道を探しぬいてこそ中世人。生き汚くいきましょう」


 無駄に威張った様子でミゼットが言うが、こればかりはどうしようもない。初めから詰んでいて、刈り取られることは半ば決定していた命。もはや惜しいこともない。


「もう、いいんだ。ミゼット。君は私の人生の最後に花を添えてくれた。短くとも、不幸ではないかった」


 塵に過ぎない人間は塵に還る。あまりに当たり前のことだった。疑問を挟む余地もない。早いか、遅いかは些末な問題に過ぎない。この世界に救いなどなかった。


「陛下……」


 ちょうどその時、兵士が皇帝の居室に突入してきた。かくなるうえはミゼットだけでも、そう決めた皇帝は口を開いた。


「この女は貴族パトリキです。あなた方の敵ではない」


 皇帝は落ち着き払って侵入者に告げる。


「いいえ。いいえ! 陛下、あなたのそれは覚悟などではない。みっともない諦めですよ!」


 侵入者が何か言っているのをかき消すほどの声量でミゼットが叫んだ。なんだか兵士が気の毒に思えるが、お互いそれどころではない。


「ミゼット! これは勅命だ。投降しろ!」


 皇帝は叫ぶように言い返すが、やはり誤算があった。


 なぜ、貴族パトリキであるというだけで見逃してもらえると思ったのか。なぜ、狙いは皇帝だけだと思ったのか。なぜ、片方だけなら逃がせると思ったのか。


 多くの誤謬が重なって、事は致命的な結末へと転落を始める。


「……皇帝とミゼット・べルシウスだな。皇帝には元老院より連行の決議が、ミゼット嬢にはスッラ家長より死罪を申し渡されているため、ただちに執行する」


 あらかじめ決められていたである条文を淀みなく告げる兵士に皇帝の体が固まる。


 見つかる前に逃がせばよかった、などと後悔しても遅い。相手はプロの兵士、逃走が成功する可能性は限りなく低い。


「ミゼットはスッラ家に連なっていたのか」


「名前だけですが……。それよりも兵士さん。この首については構いませんが、どうか陛下の御身が危険にさらされませんよう」


「ミゼット、それは駄目だ。あなたが死んではいけない」


 自分以外の人に死んでほしくない。その思いに嘘はない。


「陛下、死んでもいい人間などこの世に一人もいません。が、それはそれとして死ななければならない人が、ごく稀に存在することがあることも事実です。


 なぜなら今は、つまり……国難ですから」


 時々言葉に詰まりながらもミゼットは言い終えた。彼女が死にたくないのは明白だ。いや、究極的な意味で、死にたがっている人などいない。死なざるを得ない人がいるだけだ。


 そして、そのことは皇帝自身にも刺さる言葉ではあった。


「ミゼット、死ねば終わりだ。すべて終わりだ。先にも後にも何も残らない。墓に名前が刻まれることは幸福ではないぞ!」


 矛盾を感じながらも、皇帝は叫んだ。叫ばなければいけないと思った。


 そして、叫んでも何の意味もないこともわかっていた。


「陛下、死は終わりではありません」


 そして、彼女は死も生も拒否した。


「黙れ! 死は終わりだ! 塵だ。破滅だ。それは終わりのない終わりなのだ。まさか、死人が復活するとでも言うつもりか?」


 皇帝はかつてないほどに声を荒げた。皇帝は――もはやすべて手遅れであるにも関わらず――激昂していたのだ。その激情に一番驚いているのは彼自身だった。


 兵士は興味もなさそうだったが、同時に積極的に介入してこようともしなかった。それは少なくとも、二人にとっては慈悲だった。


「そうです」


 凛としたミゼットの声が狭い皇帝の居室に響いた。


「キリストは十字架にかけられた後、死んで葬られ、三日後に蘇った」


 彼女の主張は異端以外の何物でもない。傍観を決め込んでいた兵士ですらも息をのむ。教理の頂点に君臨するモンテ・カッシーノでその恐るべき禁忌が破られようとしていた。


「それゆえ、私は乏しいことがなく。人はみな、すでに救われている」


 それはあまりに自然な動作だった。


 胸元に忍ばせていたナイフが彼女の手によって鮮やかに抜かれ、いつの間にか兵士の首元にまで迫っている。


 まるで踊っているのを見るような彼女の所作に、皇帝はさっきまでの怒りを忘れてしまっていた。


 ただ、首元から流れるとめどない鮮血の奥で光る彼女の眼は、あの時の希望に満ちた目などでは決してない。妥協と諦めの果てに一つでも真実を見出そうとする、大人の眼をしていた。


「陛下、あなたは諦めてはいけません。あなたは『我々』の希望なのですから」


 彼女がキンと涼やかな音を立てて短刀を懐にしまうと、たちまちにどこに入れたのかわからなくなった。だが血濡れたあのスカートが彼女の蛮行を物語っていて、皇帝は初めて彼女を美しいと心から思った。


「それでは、私は行きますよ。スッラ家長様からも首をねだられているようですし」


「待て。私はまだ何も」


「大丈夫です」


「なに、が……」


 どこか悲しげに写る彼女のほのかな笑みに言葉が詰まる。


「キリストが復活したことをすでにあなたも知っているんです。また会えます。必ず会えます」


 やはり、彼女が死にたくないのは明白だった。だが、それでも。


「こんなにひどい状況でも、復活するなら……耐えられるのかもな」


 不思議と、信じてみようという気になった。彼女と過ごした幸福が、まだ希望が残っているのではないかと、思わせてくれた。


 そして、できるなら。もう二度とこんな思いを誰もしなくて済むようにしたいと思った。


「ミゼット、君の犠牲を噛み下して前に進もう。もはや後戻りはしない」


 復活した彼女には幸福な帝国を見てもらいたい。そのためなら、どんな犠牲も嚙み下そう。それがたとえ、彼女自身の死であっても。


「ええ。ええ! 陛下、百点満点の答えです」


 もう一度笑った彼女の顔はやはり母のものだったように思う。






 記憶はそこで途切れている。つまるところ、これは覚悟の物語、ということになるのだろう。


「ミゼット、私はもう二度と怠ったりしないとも」


 あの日見た景色と、皇帝宮殿から見下ろすそれはよく似ているが、同じではなかった。


 危険があるなら、備えよう。


 未知があるなら、調べよう。


 そして、いかなる犠牲が出ようとも、目的を果たそう。叶えたい未来があるのなら。


「あなたが皇帝ですね」


 皇帝の背後の扉が開かれ、誰何すいかの声がかかる。


 ゆっくりと体を返して侵入者の側へ向き直る。警戒されないよう、努めてゆっくりと。


「いかにも、私がテオドシウス6世。全ローマの皇帝です」


 できる限りの笑顔を浮かべて皇帝は侵入者に答えた。


「この日を待っておりました。『ロード・ゴルゴダ』」


 皇帝が小さな笑みをこぼした。


「ミゼットが見たらなんと言いますかね」


「はい?」


「いえ、アグネスさんには関係のない話です」


 若い黒髪の女騎士は不思議そうな顔だったが、皇帝はようやく答え合わせを終えたような気になった。




 秘密結社「七つの丘」。彼が籍を置く組織の名だ。


 キリストの復活を信じ、帝国を復活させようと目論む異端。


 鋼鉄の心臓を持つ皇帝の歩みはいまだ止まることを知らない。

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