本気走り。

中川さとえ

本気走り。

ガチャン…。

陶器の割れる音。私は…。

あーあと背中と肩でほざいてる後輩。さっさと片付けて立ち上がり、チロリと私を見ていった。

「…アタマおかしくないですか?」そしてさっさと行こうとする。

せめて凍りつけばいい、凍りつければいいのに私も大声でほざいてる。「なんですって…。もう一回いってみなさいよ。」ヒラヒラと彼女たちの背中。

"マウンテンゴリラ、必死のマウント""みにくーい。"クスクスクス"あーヤダヤダ、ブサイクのババア。さいあく。"クスクスクス聴こえない声が渦巻くのがわかる。渦巻きはいつまでもどこまでもいつまでもどこまでも。ああ、叫んでしまう。「ちょっとまちなさいよ。」なんで叫んでしまうんだろう。男子がみんな年取ったのも若いのもドン引きしてる。どうしてこうなるんだろう。ちゃんとたたみなさい、て言いたくてそう言っただけなのに。キレイにたたむ、が何故悪いの。キチンと揃えるは当たり前でしょ。


課長に呼ばれた。

クス クスクス クスクスクス  うるさいっ。うるさいっ。うるさいっ。


「は?」

「うん。」課長は椅子に座ったまま軽く回る。「カウンセリング、いってきなさい。有休使っていいから。」渡されたのはうちの会社と提携してる診療所のパンフレット。「予約もね、もうとった。行って色々話してくるといいよ。」


約束の日路肩で迷う。

ここかな。

扉を開ける。

「こんにちは。」

「はい、こんにちは。」

「あの予約した○社の、…」

「はい、お待ちしてました。どうぞこちらへ。」

通されたのは普通の部屋。


低いテーブル、小さい椅子。

「さ、どうぞ。座ってください。」出される普通の緑茶。

Anger Management てコトバご存じですか、anger control とも言うんですけど、まあ、最近の流行りみたいな感じで、

「と、そんな話をしようかなと思ってたんですが、取り合えずやめときます。」

はあ?なにこのヒト。

「お喋りしましょう。友だちみたいに。」

そしてにっこり、満面の笑み。なんなの、このヒト。カウンセラーていうのは皆こんな感じなんだろうか。

お喋りて何、話しますか?

「そうですね。…なにか聞きたいこと、とかあります?」…いいえ。もういいです。「?もういいです、とは?」どうせ伝わらないんです。あたしのどこが悪いていうんですか。「…どこも悪くない、ですよ。」

あ、ごめんなさい。それが言いたいじゃなかったです。「気にしないで。どんどん話してもらえる方がいいですから。」言いたいことじゃなくても…?「もちろん。」あのこたちはなんでちゃんとたたまないんでしょうか。「たたむ…?」フキンとかの話です。「あー、使ったらぽいって?」違います。裏返しでも平気とか、とか端が揃ってなくてもいいとか、そういうのです。「…なるほど。たたむならキチンと、ですね。」そうです!何べんも何べんも言ってるのに。…ごめんなさい。別の話でいいですか。「あ、そうですね。んと、好きなもの、教えてくれないですか?」ナニもないです。「んー、映画とか音楽とか、ゲームやテレビ番組中、とか。」ナニもないです。もうテレビあんまり見ませんですし。

「あれ、アウトドア派なんですか?」え。…ああ、もしかしたら、そうかもしれません。そう言えば、外がスキでした。「旅行とかそれともスポーツとかです?」いえ、そんな大層なことないんですけど、…走るのが好きでした。

「そうなんですね。」そのヒトがまたにっこりする。

はい。子供の頃走るのが大好きでした。「あっ足、早かったんてすね。」ええ、クラスでも早かったんです。うんうん、てにこにこしてる。「陸上部ですか?」いいえ。背が伸びたので。カウンセラーはきょとんとしてる。親や先生がバレーボールがいいんじゃないかって、それでバレー部にしたんです。「ああ、バレー部もいいですね。」……ええ、そうですね。「でも、バレー部だと、走る はあんまりないですかね。」そうですね。筋トレとか柔軟の間に少し、とかでしたね。

その日はそんな感じでそのままお仕舞い。「ではまた来週お待ちしてますね。またお喋りしましょう。」


そう言えばずっと走ることなかったな。家に帰って思った。最後に走ったのって高校だっけか。バレー部続けなかったから、中学が最後だったかもしれない。…思いきり走った、なら小学校だったかも。それっきり。なんとなく、棚や押し入れの段ボールの中とかを探した。あった。これは高校の体育のグラウンド用ランニングシューズ。あんまり使わなかったからまだちゃんとしてる。これなら走れるかな。走れるかな。走れそう…。


「こんにちは。」

こんにちは。あれ、…なんですか?「今日随分明るいですね。あ、ごめんなさい。」えー、一緒ですよ。そうだ、ランニングシューズあったんです。「ああ、昔使ってたやつ?」はい。まだ使えそうでした。「あ、いいですね。また走れますね。」あ、どうかなあ。もう何年じゃなくてなん十年だし、「そんなことないですよ。筋肉はいくつになっても戻せるらしいから。」そうかなあ。「そうそう。いきなり、じゃなくてちゃんとストレッチしたり、段階踏めば、また走れる。」そうかなあ。「はずです。」そうかなあ、ふふふ、そうかなあ。「そういえば、ですね。私は映画が好きなんですけど、」あら?「ジュラシックパークとか知ってます?」ああ、えっと恐竜のですよね、見てないけど知ってます。

「そうそう。それのね、系列の映画で」系列?「そう。確か題名はジュラシックパークじゃないんです。スピンオフなのかわかんないんですけど、」へえ。「それに出てくる女優さんが、実にいい本気走り見せてくれるんですよ。」えええ?ホンとに?「ほんと。ホレボレしますよ。」ほんとに?

「ほんとほんと。…こう、ねトーチ持ってるんです。ん?松明だったか?」あはは。「いやほんとなんですよ。」それはそれは…是非見ないと。「そそ。もう絶対見てください。」


その映画を見つけた。見てみた。確かに確かに。

あたしが大好きだった走るがそこにあった。

あれだ。あれが好きだったんだ。映画をもう一度見た。終わってまたもう一度見た。

なんで陸上部にしなかったんだろう。背が伸びたけど走りたかったのに。

あたし走りたい、て。

…なんで言わなかったんだっけか。

ストレッチしてみた。体は随分硬くなってた。


「こんにちは。」こんにちは。今日は違う話していいですか。「もちろん。」

あたし、なんでイライラするんでしょうか。なんでもないことなんです。分かってるのにイライラして、止まらない。「…イライラするのはヒトにですか?」そうだと思います。「特定の個人ですか?」…たぶん違うと思います。だって終わらないんです。ヒトが変わっても職場を変えても年を取っても終わらないんです。気がつけばまたイライラがはじまる。フキンの畳み方が違うなんてとうでもいいことです。でも分かってるのに我慢できない。ずっとあたしが踏みにじられてるようなキモチが生まれて消えないんです。

一気に話してた。吐き出すてこうかもしれない。

するとカウンセラーが言った。「私が思うだけなんですが、」はい。「発想を変えてみませんか?」え。

「そうです。」カウンセラーが大真面目にあたしを見てた。「そいつ、あなたをイライラさせるもの、そいつを振り切ってしまいませんか?」

…。どうしたらいいんですか?

「映画見ました?」

見ました!

「走りませんか?」


例えは良くないんですけど、ドッグランのヒトバージョンみたいなとこがあって、借りれるんです。コースを直線的にしたとしたら5000メーターは軽くあるし、2時間で1000円しないんですよ。貸し切りなんで存分に走れますよ。

「振り切ってやりましょう。映画みたいに。誘きだして喰わせる、でもいい。」

…なんか笑ってしまった。

やります。あたし走ります。「よしっ!」なにそれ。また笑いそうになる。「じゃあ、借りておきますね。本気走り見せてくださいよ。」


当日だった。借りれたのが午後4時からの2時間だったけどかまわなかった。日の光が黄色になってやがてオレンジになるんだろう。それも全然かまわなかった。シューズは思ったより足に馴染んでた。

「はい、これっ」

トーチ…。ダメだ笑ってしまう。「いや、せっかくだから。」そうなの。

「…私が思うだけなんですが、あなたは思い出してしまうんだと思うんですよ。」え。「あなたは知らず思い出すんです。じぶんが否定された、と思ったことを。何度も何度もあったんでしょう。でもちゃんとは覚えてないんで、ちゃんと思い出せない。イメージだけ覚えてる。キチンと、が出来ないと否定される。でも小さいや可愛い声は肯定されてる。そして私は否定される。2重3重で否定される。そう思えて仕方がない。イライラはそのせい。」え。

「…考えてもたぶんもうしょうがないんです。」

カウンセラーは上を見上げてから、も一度あたしを見た。

「だから、もう丸ごと振り切ってしまうのがいい、と思うんですよ。思い出そうとか詰めようとかしないで。」

スタートがもうすぐくる。

「折角なので追いかけるもの、も用意しました。」

…!

「そもそものはじまりはおそらくこれです。もう振り切りましょう。あなたは振り切って進むんです。」

…追い付かれたら?

「その時は潔く喰われてください。」

…わかった。

奮い立つ、を初めて知った。震え上がるとは全然違った。沸々と闘志がたぎってくる。イライラとは全然違った。

ぼっ。トーチに火が点った。後ろから激しい咆哮が聴こえる。振り向いてみた。そこにいた。

そのTレックス、顔はあたし。いえ、違う、そうあれは、あたしの母親。

「スタートきます。絶対勝ってくださいね。」

もちろんよ。みてなさい、あたしの本気走り。

さあ、

「こっちよ!」

あたしは走り出す。奴が

追いかけてくる。

振り切ってやるわ。

ああ!

やっぱりあたしは走るのが大好きだったわ。


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本気走り。 中川さとえ @tiara33

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