第18話 父の手紙
後期の授業が始まったある日、常二の下宿に分厚い封書が届いていた。
差出人は田舎の母の親戚の名前だった。
母のことで何かあるのかといぶかりながら読んでみると、常二の父と思われる人物から連絡があったという内容であった。
同封されていたその男からの手紙には、母との関係や別れた事情など、当人でないとわからない事情が書かれていた。
内容から判断して、母と交際のあった人物であることは間違いなかった。
何らかの伝手で母の死を知って、連絡してきたのだろうと親戚の手紙にはあった。。
男の言うには、母との間に子供ができていたのは知っているが、生まれる前に別れたため、一度も会ったことがない。
自分は別の家庭を持ち、子供もみんな独り立ちをしている。かつて交際した人が亡くなり、その人との間に自分の子供が残されていると思うと、ぜひ一度会ってわびたいというものだった。
常二は手紙を読んで、なんともいえない不愉快な気分になった。
母を捨てた男が、いい歳になって、過去の自分の過ちをわびたいという。
それをするには遅すぎるし、常二に謝られてもどうしようもない話だ。
わびるなら母に、母が生きているうちにわびてほしかった、と常二は思う。
母にはどれだけの苦労があったことか。母は再婚もせずに、一人息子の常二を育て上げ、大学まで入れて、病気になり、急死した。その人生が果たして幸せなものだったのか、今の自分にはわからない。
手紙には男の名前と東京の住所が記されていた。
時間が二十年ほど前に巻き戻されたような奇妙な気持ちになった。
顔もわからないその男と若くて美しい母と。二人は出会って、愛し合って、そして別れた。
その事実があり、常二が生まれたという事実があり、今、それを知らされて困惑する常二がいる。
常二は自分のためよりも、母のために会いに行くべきなのかと悩んだ。
自分にはもともと、父親という存在がなかった。今さら父だと言って目の前に現れても、単なる一人の男であり、血のつながりがあろうがなかろうが、それは関係なく、父とは思えないだろう。
一方、死んだ母のためには、この男と会って、母の話をすることが母の供養になるのだろうか、という思いが少しあった。
この男に会うのか、連絡だけ取るのか、無視を決め込むのか、決断できなかった。
手紙を読んだ数日後、美彌は学生会館のカフェで、
「あなた、何か考え事してるでしょ?」
「何か隠してるでしょ、この二三日」と言って、常二の目を見つめた。
美彌の指摘に常二は内心驚いた。
「隠さずに話して」美彌は詰めてくる。
「父がわかったんだ」常二が言うと、美彌は大きな二重の目を見開いて、
「ええっ」と短く声を上げた。
「あなたのお父さん?」
「そう」
「手紙が来て、会いたいと言ってきた」
「で、どうするの?」
「わからない」
「今、ずっと考えている」
そう答えると、美彌は、遠慮がちに
「会いたいの?」と尋ねた。
「わからない。ただ母のために会った方がいいのかなと迷っている」
「ここでは何だから、今夜美彌の家で話そう」常二はそう言って、話を切り上げた。
夜、美彌の家で、男からの手紙を美彌に読ませた。
美彌は一通り読み終えて、手紙を返した。
「あなたも会いたいでしょう?」
「いや、今さら会いたくもない」
「小さいころは父親がいないことを理解できずに、母を困らせたこともあったけど」
「会わなくていいの?」
「母のことが気にはなるが、それを聞き出しても、もう過去のことだから」
「やっぱり、このまま会わないでおこう」
「いいの?」
「いいよ」と答えて、常二はもうこの話はやめようと告げた。
その夜、美彌の家に泊まった常二は、夜中に息苦しくなって、眠りが浅くなった。
そして、黒い影が見えたと思った瞬間、目を覚ました。いやな夢を見たようだ。
妙に胸騒ぎがして、横を見ると美彌が壁の方を向いて寝ている。
さっきの黒い影は人ではないのか、と思うと心配になり、美彌を起こさないようにそっとベッドから出ると、灯りをつけてベッドの周りに誰もいないことを確かめた。
隣の部屋に行き、灯りを灯して、あたりを見渡した。ドアには内から鍵がかかっているのを確認した。すべての窓も施錠されているのを確かめてからベッドに戻ると、美彌が苦しそうに息をしていた。
「大丈夫?美彌」と声をかけると、美彌は激しい息づかいで過呼吸を起こしていた。
顔を見ると苦しそうに目を閉じて、呼びかけても反応できないでいる。
以前に、発作を起こして以来、すっかりよくなっていて発作を起こすこともなかったので、この発作に常二はあわててしまった。
「救急車を呼ぼうか?」常二の問いかけにも反応しない美彌の苦しそうな表情を見て、常二は時計を見ながら電話をした。時計は1時半を指していた。
15分ぐらいで到着すると聞かされた常二は、すぐに着替えて、救急車のサイレンが近づくのを待った。
救急車が到着したときには、騒がしい音で美彌の母も起きてきて、心配そうに運ばれる美彌に声をかける。
「ぼくがついて行きます」と美彌の母に言って救急車に乗り込んだ。
西宮の救急病院では、以前からの発作が起こったのだろう、特別に検査や入院をする必要はない、念のため、かかりつけの病院で明日、見てもらうとよい、と言われた。。
常二はホッとして、診察室のベッドでようやく呼吸も元に戻った美彌の顔を見た。
「ごめんね、心配かけて」
美彌は常二の顔を見ると、涙を流した。
「心配しなくてもいいよ。大丈夫、家に帰ろう」
美彌はふっと気を抜いた表情を見せた。
タクシーを呼んで、美彌を家に連れて帰った。
美彌の発作の再発は、常二の父のことが原因であるのは明らかだ。常二が父に会いに東京に行ってしまうと、二度と帰ってこないのではないか、美彌はそんな心配をしたのではないか。
もうすっかり直ってしまったと思っていたが、美彌の発作は大きな心労があると、起こるようだ。
常二はそう考えると、今回の発作は自分がなんとかしたいと考えた。
翌日は、二人とも大学の講義を休み、美彌の家で過ごした。
昼前までベッドで寝ていた美彌は起きてきたが、顔色がすぐれず、口数も少なかった。
常二は美彌を連れて庭に出て、白の玉砂利を敷き詰めた平らなところに連れて行った。
常二は父からの手紙を取り出すと、美彌の見ている前でそれを細かく破り、砂利の上に集めて、取り出したライターで火をつけた。
「あっ」美彌が短く声をあげた。
手紙の紙くずから青白い煙が立ち上り、空に消えていった。
「これでおしまい」
「もう父には会いに行かない。父なんて初めからいない。僕には美彌がいる」
茫然とする美彌を引き寄せ、抱きしめた。
「美彌に心配をかけない、約束するよ」
「うふっ」と美彌は声を上げた。
美彌の母は、美彌が発作を再発したことを心配して、常二にしばらくは美彌の傍にいてやってほしい、大学やアルバイトはここから行ってほしいと言った。
美彌もその方がうれしいというので、常二はしばらくの間、美彌の家にいることになった。
朝になるとあわてて食事と身支度を済ませ、少し離れたバス通りまで二人で走って行く。
バスで苦楽園の駅まで行き、夙川、北口で乗り換え、大学に通う。常二は帰りには、そのままアルバイト先に向かう。元町のライブハウス、家庭教師、そして塾。
最終のバスに間に合えば、バスで、間に合わないときはタクシーで美彌の家に帰る。遅く帰っても、美彌が必ず起きて待っている。
食事を済ませて、おしゃべりをして、一緒に寝る。
その繰り返しだが、美彌もあれから日が経つと落ち着いてきて、顔色もよくなり、元どおり元気になった。
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