第10話 柴崎の来訪
下宿に柴崎が来た。
大学の講義に常二が出ていないのを心配して来たと言う。
「なんか、しけた顔してるなあ。どうしたんや」
買ってきた飲み物を差し出す柴崎に、常二はつい、美彌とのことを話してしまった。
美彌の母に呼ばれて家に行ったこと。美彌の母から美彌の身体に触れないように釘を刺されたこと。
それ以来、美彌の身体に触れられず、キスもしないし、手もつながないこと。それを美彌が怒ってしまったこと。
黙って聞いていた柴崎は、常二の話が終わると、
「お前はアホか。何でそんな母親の話を真に受けるんや」
「どこの世界に彼女のママのお願いに従う男がいる?いたとしたら、人類は絶滅してるわ」
「人がいいのもいい加減にしろ、美彌のママが美彌に触れるなって?そんなことは美彌本人が決めることやろ、違うか?」
「もう成人したええ大人が、自分の生き方を自分で決められずに、ママの言いなりになってそれで幸せか?」
「美彌さんはそんな甘ちゃんと違うやろ」
柴崎のことばは手厳しかった。ひと言ひと言が常二にはこたえた。
「でも、美彌にはいじめられたことで、心が不安定になる病気があって」
「美彌さんのそれは気の毒だと思うし、お前が心配するのもわからんでもない。」
「でも、彼女はそれを克服しようと戦ってるのと違うのか。お前とつきあってるのもそのひとつや」
「美彌さんのその努力にお前は、腫れ物に触るような態度で接しているのか」
「それが美彌さんとの誠実な向き合い方なんか。考えてみろ」
柴崎にここまで言われて、常二はひと言も反論できなかった。
柴崎の言うとおりだ。何故、それが解らなかったのだろう。
呪いの言葉が、自分の中で、解き放たれていくのが解った。
炭酸ジュースを一気に飲み干すと、柴崎は大きなゲップをした。
その晩は柴崎と下宿で飲み明かした。
「彼女が俺を求めて離してくれんのや」
柴崎は美彌の紹介でつきあっている彼女のことを話し出した。
「おとなしい子と思っていたら、情熱的で。会うたびに俺を欲しがる」
「それにこたえるため、俺は会う前に必ず自分で抜いてから、会うようにしてる」
「どれだけ絶倫なんや、お前は」常二は聞いていてあきれるばかりだ。
美彌が言った凸凹カップルということばを違う意味で思い出して苦笑した。
「初めての時は、俺のがでかすぎてうまくいかんかった」
「でも、次から何回も求められて」
酒で赤くなった顔に、目もうつろになっている。
柴崎の彼女は小柄で童顔なので、柴崎の話がにわかには信じられない。
「あのかわいい感じの人が?」
「そうや。お前は女性の怖さをまだ知らんやろ」
「美彌さんも結構…」そう言って、にやけた顔を向ける。
「やめろ」
「美彌は違う」
「ええか、僕が美彌さんに連絡するから、来週一緒に会ってちゃんと話をしろ」
「そうやな、美和さんにも来てもらおう」
「俺に任せとけ」柴崎はそう言って、缶ビールを飲み干した。
約束の日に常二は、柴崎と一緒に大学前のバス通りにあるカフェの二階の席で、美彌と美和が来るのを待った。
間もなく、美和がその後ろに美彌をつれてやってきた。
柴崎が大きく手を振って二人を席に招いた。
座るとすぐ、美和が常二に真顔で
「大阪湾に沈め」
「あれだけ言ったのに、なんで美彌を泣かせたの」と問い詰めた。
柴崎がまあまあと言って取りなした。
「こいつの話を聞いてくれ」
常二は慎重にことばを選んで、美彌への態度をわびた。美彌の母に原因があるとは思われないように話すのは難しかった。常二は、自分の勝手な思い込みが間違っており、美彌にいやな思いをさせてしまい、心配をかけてすまなかったと謝った。
聞いていた美彌は、前と同じように大きな涙をこぼした。
「ちゃんと美彌に向き合っていくから」常二が、三人に向かってそう言うと
美彌は、「私のことを大事にしてくれる?」と尋ねた。
「もちろん、大事にする。美彌のことを好きだ」
「うふっ」と泣き笑い顔で言った。
美和もやっと表情をやわらげ、
「手のかかるカップルだこと。コンサルタント料もらいたいわ」と言った。
「お似合いの二人なんやから、少々のことで、ゴタゴタせんときや」と柴崎は言った。
「あなた、本当にわかってるよね?今度美彌を泣かせたら大阪湾」その言葉を遮って
「以後気をつけます」常二は思わず頭を下げた。
柴崎と美和と別れて、美彌と二人で川沿いの道を歩いて、駅に向かった。
美彌の家の近くで夕食を取ろうと電車に乗った。
電車は夕方の帰宅ラッシュで混んでいた。ドアのそばに立つ二人の手と手が触れた。
常二は美彌の手に自分の手を重ね合わせ、強く握りしめた。
美彌は常二の顔を見上げ、「うふっ」と言った。
笑顔がたまらなく愛しかった。
苦楽園で降りて、芦屋方面に続く坂道を手を握ったままゆっくり歩いた。洒落た店が建ち並ぶ一角では、ショーウインドウに映る美彌の姿が、女性誌のモデルのように美しかった。
見落としてしまいそうな小さなレストランに入り、二人でイタリア料理のコースを食べた。美彌はすっかり元気を取り戻して、よくおしゃべりをした。常二はそれを楽しく聞いた。この時間が永遠に続いてほしい、そう願いながら、美彌と過ごす一瞬一瞬が僕たちの大切な人生の瞬間だと思った。
食事のあとのコーヒーを飲みながら美彌が言った。
「もう二度と泣かさないでね」
「約束するよ」
「前もそう言ったでしょ」
美彌がすねた表情を浮かべるので、テーブルの下で美彌のやわらかい太ももを右手でつねった。
美彌は常二を見つめたまま、二重の目を大きく見開いた。
「何するの」声を潜めて常二に顔を近づけて言った。
「その口をつねりたいわ」
「ひどい」
「ひどいのは美彌の方や。僕を信じてくれないなんて」
「じゃあ許してあげるから、もう一回つねって…」
「変態か」
「お願い」
右手を伸ばして、美彌の太ももをそっと撫でた。
「うふっ」といつもの声を出した。
店を出たあと、苦楽園の駅に歩いて戻る。
道沿いの店から漏れる灯りがやさしい色で、心が和む。
灯りが途切れた街路樹の下の暗がりで、美彌を引き寄せて唇を合わせた。
離れようとすると、美和は常二の首に回した両手に力を込めて、さらに続けた。
いつまでも抱き合っているような時間が流れて目眩がした。
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