第20話 極彩色の夢の城
展示室に入ってすぐの通路は落ち着いた雰囲気で、目眩く城内の光景の前奏曲のよう。
十数年越しの憧れ、眼福あふれる素晴らしい宮殿だった。なのに、あいにくどのような順路で歩いたか正確に覚えていない。確認のために本やネットで調べても、私の記憶に照らすと辻褄が合わないように思えるところもある。
必ずしも素人の私が見取り図から想像しがちなルートを歩いてはいないのだろう。
ほかの団体と譲り合ったとか、近くの部屋と前後したとか、その時その時の細部の違いが誰しもありそうだ。
展示室内は撮影禁止。物の保存のためにも、フラッシュなどに視界を遮られないためにも、それは必要なことだ。
心のファインダーなどと言っても、自分で撮った写真がないとこんなにも記憶を曖昧になってしまうのか……と認めるのは寂しい。
バイエルン王ルートヴィヒ2世は歴史上の人物としてとても興味深い存在だが、好きかと尋ねられたらどう答えていいか分からない。
肖像写真を見ていると不安になるのだ。最も美しい王と呼ばれるイケメンだった若い頃のはとくに。
肖像写真としてあまりにも上目遣いすぎる。といっても昨今のおもに若い女性によるあざとい仕草の反対に、目を上に逸らしすぎているのだ。カメラに向かってポーズを決めていながら。
浮世離れした性格の表れかもしれない。
その性格にしてこの城ありと思えば、そこに文句を言うのもおかしな話だが。
この辺りで7年前に戻ろう。
ここの個人用音声ガイドは、電源を入れた状態で所定の場所に近づくと、その場所に合ったアナウンスが流れるというもの。
なのでアナウンスと今いる場所がズレるということはなく、便利だ。旅情を盛り上げる優れもの。
順路の意外と早いうちに、ヴェーヌスブルクを表現した人工洞窟を見た。なんとなく想像していた隠し部屋のような扱いではなかった。
幻想的で、案外広さがある。奥行きに比して、人が歩いて入れる範囲が狭いのがもどかしい。もっとよく見たかったが、ツアーはあっさりと通り過ぎた。先は長いのだ。
玉座の間。旧約聖書や伝説の名君がズラリと並んで描かれたドーム状の天井をはじめ、壮麗この上ない室内装飾。
夢想家のルートヴィヒ2世だが、理想の政治、理想の君主といったものを目指す気持ちはあり、それが表れている場所。夢想家ゆえに高すぎる理想を掲げ、それが呪縛となった面もあるとか。
たしかにこの部屋に描かれた人物像は、ただ眺めている分には煌びやかで美しい。しかし自分と比較したり、まして見習ったりする対象としては立派すぎて荷が重そうだ。
それでも王にとっては重責を果たすため自分を奮い立たせるのに必要なことだったのだろう。
考えるほど、ルートヴィヒ2世の孤独と重圧が胸に迫ってくるようで空恐ろしくなる。
目は最高に楽しいのに!
歌人の間。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をテーマにした大広間。
赤と金を基調にした暖色系の内装で、王侯貴族の社交場さながらの華やかさだ。壁には燭台、天井にはシャンデリアが夥しい数に及ぶ。四方の壁の、これに間近に照らされる高さにぐるりと登場人物の壁画が並んでいる。
「この膨大な数の明かりがあなた1人のために灯される光景を想像してみてください。ルートヴィヒ王の気分になれるはず」
言わんとするところはわかるけど。
あの王の気分にはなるのは何だか怖いな。
執務室には「タンホイザー」の各場面の絵画が飾られている。
身近なものにたとえるなら、推しのグッズを集めるタイプのオタクが職場や勉強部屋の机に推し文房具を置くような状態ではないかしら。
やる気が出るのか、気が散ってしまうのか、意見の分かれるところです。
寝室。建物の作りは全体的にロマネスク調寄りだけれど、寝室はゴシック調。
思えば、中世趣味とワーグナー作品のテーマパークのようなこの城も、ときには政治的外交的な来客をもてなすことを想定して建造されている。
そういった要素が入らない唯一の場所がこの部屋だ。王にとって、この城でいちばん落ち着く場所だったかもしれない。
使用人室に着くころには、音声ガイドの終わりが近づいてくる。
当時としては快適な設備だそう。現代の感覚からすると「当時として快適」にはあまりピンと来ない。
椅子の形などから、時代は違うがバウハウスのデザインが連想される。民衆の快適な生活と機能美の両立を目指す時代のなかで、これらの家具も製作されたのだろうか。
音声ガイドを返却するころには、同じツアーの人はわずかしかいなかった。
場内にいられる時間制限とツアーの集合時間を守っていれば、あとはかなり自由で、ゆっくり見たい人とこだわらない人とが、少しずつばらけていたのだった。
展示室を出てすぐのところに売店がある。
円形の薄い缶に入った、ワーグナーのCD。
マッチ箱くらいの小さなオルゴール。ルートヴィヒ2世と、その良き理解者だったという従姉で絶世の美女、オーストリア皇妃エリザベートの顔が並んでいる。曲は「エーデルワイス」。
そして写真集。撮影禁止なぶん、こういったものは必ずあると信じていたが、内容が充実していて嬉しい。
城を出る前に一息つきたくて、カフェに寄る。建物を活かした素敵な場所だ。現代的な内装部分には王の中世趣味を反映したところはとくに見当たらないように思えたが、深紅の床が華やかだ。
いかにも回転率を重視したらしい、狭くて高さのあるテーブルと椅子。メインの展示室に入場制限があるからそうなるだろう。
違うタイプの席もあった気もするが、私が席を探すとき、空いていたのはそうした席だった。
疲れと荷物の重さでヘロヘロになっており、その荷物がテーブルから転げ落ちないように時おり手で支えながら紅茶を飲んだ。その時の私の様子は、お城に相応しい優雅なお茶とは言い難いものだったと思う。
お目汚し失礼致しました、と思いながら飲み終えた。生き返るような爽やかなアイスティーだった。
カフェのテラスに出ると、マリエン橋が遠くに見える。誰にともなく手を伸ばして振ってみた。あなたがマリエン橋から城を見るとき、城にいる者はマリエン橋を見るのだ。
城の出口への通路は、展示室内と比べるとガランとして「未完成」という言葉が思い出された。けれど純白の壁や尖頭アーチが美しい。
この通路の終わりに着いたらこの城とお別れだ……。
建物の出口の直前に、調理室がある。これも建設当時の最先端の設備だったそうだ。
中心部から離れた位置なのが不思議だった。もしかしたら食堂や宴会場が真上にあるのだろうか。エレベーターのような装置があるか、もしくは、ある時期まではそのように作る予定だったのだろうか。
城を出ると、馬車乗り場が賑やかだ。
馬車は約20分に1本、満席になってから出発するシステム。
速度はゆっくりなので、景色を眺めて歓談しながら行くのに丁度良い。
けれど私は急がなくてはまずい時間になってしまったので、出発を待たずに歩いて坂道を下った。途中ですれ違ったりした。
道の両側は針葉樹林だ。
幼いころ父と歩いた成田山公園の坂道を思い出す。
幼児の視点からは何でも巨大に見えるが、いま見えている針葉樹はまるであの頃の巨木だった。
大きな違いは馬車だろう。蹄の音が心地よい。ふと気付いたのだが、舗装道路のあちこちにこびりついている乾いた泥のようなものはたぶん、馬車の副産物だ。この道で転ぶのはイヤだな。
急な坂なので、下向き加減に歩いていても、道路標識くらいの位置と大きさの看板が見えてくる。
皇妃エリザベートの花の
これは国立博物館のPRだった。いろんな人の肖像写真が看板になって、道沿いに一定間隔で並んでいる。他にも、マクシミリアン2世などがいた。
ルートヴィヒ2世も……いなかったはずがないのに、その看板を見た記憶がない。
もしかしたら最初のほうにあって、看板に気づく前に通りすぎてしまったのではないか。たぶん馬車などを眺めていた時に。
坂の上から、ツアーの人たちが見えた。
なんとか6時に間に合った。昼食を食べたあのレストランの前の広場。
ここから観光バスに乗って、今夜泊まるホテルのあるフュッセンに移動する。
(続く)
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