第30話 帰路
バスはフランクフルト空港へ向かう。
車中で添乗員さんから最後の注意事項を聞いた。
免税店や空港の店内で買ったものを開封すると(そこで買った証拠にならないため)預ける荷物に入れられない場合があるので開封しないように、とか。
言い訳めいたことをいうと、成田空港で香水を買いたくなかった理由の一つはそれだった。
空港に着いてバスを降りるとき、運転手のクリスチャン氏と「ダンケ・シェーン!」と言って握手した。
空港のロビーでは、私たちは円形に置かれたベンチの輪二つぶんに分かれて待ち時間を過ごした。
待ち時間のあいだに買い物やトイレを済ませる。空港の売店で買ったものを覚えていないが、この店のビニール袋が気に入って日常的に長く使っていた。
旅行会社のアンケートを提出した。
どこも非常に満足した。ストラスブールとシュトゥットガルトは鉄道のストに巻き込まれたが、添乗員さんをはじめスタッフの皆様の対応がとても良かった。
というような回答をした。
今日はほかにも大切な用事がある。挨拶したり連絡先を交換したり、別れを惜しんだりする時間だ。そのために誰かしらが二つのグループの間を行き来している。
ほぼもう1日を同じ機内で過ごすのに気が早いようだが、機内でわざわざ他の人の席を訪ねるのはハードルが高い。今のうちなら気軽に話せる……というのが旅慣れた人の知恵なのだろう。
後で手紙やメールをやり取りするのはきっと楽しい。けれど、どうも気後れする。
卒業後に引越しが決まっている仲良しの同窓生でもないのに、確実にお互いの連絡先を知っておきたいなんて少し重くないだろうか。私は重いと思われたくない。
……こんなふうだから一緒に旅行に行く仲間が見つからなかったのかもしれない。
それでも何組かの人と連絡先を交換した。
福岡のご夫婦も声をかけてくださった。
「私たち、成田空港に着いたらすぐ電車で羽田空港へ行くから、今ご挨拶しようと思って。福岡行きの丁度良い飛行機が羽田から出るの。ごめんね成田空港じゃなくて」
千葉県民として羽田空港に対抗心めいたものが無くはないが、冗談めかした口調とはいえ「ごめんね」とまで言われたのには少し驚いた。
驚いて、連絡先を交換するのを忘れてしまった。ずいぶんお世話になったのに。
「今度はお返ししますよ〜」などと言えれば良かった。
飛行機の座席は必ずしも同じツアーでまとまっていないが、私の前の席には、何かと一緒に行動することが多かった関東在住のご夫婦がいる。
機内では食事とトイレ以外だいたい眠っていた。
旅の余韻をたとえば映画で上書きしたくないし、旅に夢中で忘れていた生理痛や不快感をやり過ごすには眠りに勝る方法はない(※生理痛の軽いほうです。重い人はまた違うかもしれません)。
どれでもなく起きているときは、旅の記録か何かを書こうとしては飛行機の揺れのために諦め、また眠ってしまった。
機内の買い物のカタログが回ってきたことがある。それにもゲランの香水「ミツコ」は載っていなかった。
最後の機内食は、アジアン屋台のお弁当を思わせる、四角い厚紙の箱に入っていた。紙の箱に当時大人気のゆるキャラ「くまモン」が印刷されている。
中身はタイ料理店で食べたことがあるような、そぼろご飯だった。慣れ親しんだ味とは異なるが、久しぶりのお米のご飯だ。美味しい。一緒にタイ料理店に行った友達が思い出された。
やがて懐かしい成田空港に着いた。
飛行機を下りると、座席のバラけていたツアーの皆は再び列をなして進んでゆく。
免税店に寄る時間があった。
名高いファッションブランドの商品が華やかにディスプレイされている。
ゲランのコーナーもあるが「ミツコ」が見当らない。出国側と入国側では同じブランドでも品揃えが同じとは限らないのだ。
店員さんに尋ねてみたところ、一方になくてもう一方にある商品を融通してもらうことは出来ないそうだ。
諦めて免税店を出るとき、同じツアーの人たちもいて、また列に戻った。
動く歩道にしばらく乗って下りる。
そのとき、秋田県にお住まいの新婚旅行のご夫婦が乗り継ぎのために列を離れたのを皮切りに、徐々にバラバラになってゆく。
少しお腹が痛くなってきたのでトイレに行く。行列が出来ていた。
待っている間に、家に電話することを思いつき、折り畳み式のケータイを開いてから「トイレで携帯電話を使うのは周りへの印象が良くないかもな。カメラ付きだし」と思い直して列を離れた。
電話をかけてから通話が済むまでの間、同じツアーの幾人かとすれ違った。
トイレに戻ったら、今度は待たずに空いている個室に入れた。生理用品も足りなくならずに済んだ。
通路に戻ると同じツアーの人は誰もいなかった。仕方ないことだが、お別れの挨拶をしそびれてしまった。
それをしたいなら、フランクフルト空港のロビーで卒業式のように振る舞うほうが正解だったのだ。
添乗員さんは最後まで待っていてくださった。買い物を頼まれていたのか大きな荷物をカートに乗せていた。
「ありがとうございました」と言って解散した。
母は私を迎えにすぐそこまで来ていた。
添乗員さんに気づくと「お世話様でした」と深々と頭を下げた。
どこかのレストランかカフェで母に何かご馳走しようと思っていたが、母は早く帰りたいというので、すぐに帰った。
父も心から安堵したようだった。
三毛猫のミィが、出かける前と変わらず足元に擦り寄ってきた。
「ただいま、ミィ」
* * *
おみやげが届いていた。
ノイシュヴァンシュタイン城の写真が箱と個装に印刷されたチョコレート。
これを父母の営む店の店員や、近所の人や、習い事で一緒の人に配る。
ハイデルベルグのお店から配送した、大きな白いテディベアも後から届いた。これは伯母の孫に。
従姉の娘に、持ち帰った小さなテディベアをプレゼントした。
ローテンブルクで買った可愛いブリキ缶の中身はミント粒で、ブリキ缶はパリのホテルのアメニティだったミニ裁縫セットをしまうのにピッタリ。
サッカーW杯はドイツが優勝した。トランクの鍵につけていた、まだ名前のなかった小さなテディベアにノイアーくんと名付けた。この時のドイツのゴールキーパーの名字だ。荷物をしっかり守ってくれそうな良い名前だと思う。
旅行中に撮った写真がメールで届いた。
秋には、こちらの地元の紅葉の画像を送った。
冬には住所を知らせた人と年賀状を送り合ったりした。
恋人に、ノイシュヴァンシュタイン城の絵のついたフェイラー社のタオルをプレゼントしたときのこと。
「これ……使っていいの?」
「もちろん」
地域限定の貴重な品だけれど、だからといって使うなというのは二度と行けない前提の考え方で、悲観的すぎる。
彼はもっと前のクリスマスプレゼントだった手袋を、勿体なくてその冬のうちに使わなかった人だ。贈った後までうるさく言わなくても大事にしてくれるだろう。
この人は今も飛行機が苦手だ。
(完)
(ありがとうございました!)
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