上級貴族の使用人【PW②】

久浩香

三分の逃亡

 養護院パピーミルを卒院し、仕立て屋の寮へ移り住む三日前。

 お針子になる事が決まっていた私ですが、急遽、使用人養成学校へ進学する事が決まり、迎えに来てくださった養成学校の先生と一緒に、先生の乗って来た車に乗って院を出る事になりました。一緒に仕立て屋へ行く筈だった友達に、挨拶だけでもしたかったのですが、そんな事をしても、いらぬやっかみを買うだけだと言われれば、まさしくその通りでしたので、院長先生と担任の先生にだけ、これまでの御礼とお別れの挨拶をすませて、急かされて院長室を後にしました。

 育った養護院も、勤めるはずだった仕立て屋も、みるみる内に見えなくなり、窓の外の風景が広い田園へと変わった頃、えも言われぬ不安や寂しさが、胸をキュッと締め付けまして、そんな私の胸の裡を感じ取られたのか、養成学校の先生は私の左手を両手で包み込むように握ってくださり、

「お針子の素養はあるのだし、掃除や洗濯なども習ってきたのでしょう。大丈夫よ。私達が、ちゃんとあなたを一人前のメイドに育ててあげるから。何も心配する事はないの。あなたは、お針子なんかより余程重要な、わが国を支える大事な方々のお世話をさせて頂く、大切なお仕事をするようになるのだから、それを誇りに思わなければいけません」

 と、慰めて下さいました。

 それから4年。

 二十歳になった私は、欠員の出た上級貴族のお屋敷の、北東棟に住まわれる第三夫人の侍女の一人として働く事になりました。

 この国では、上級貴族には四人の妻を持つ事が許されております。高貴な血を途絶えさせるわけにはいきませんからね。そして、近すぎる婚姻は子供ができにくく、どうにか生まれる事ができても体が弱かったり、貴族としてふるまうには難しい子だったりするそうですので、第一、第二夫人には、四親等以上離れた王族や上級貴族の令嬢を、第三、第四夫人には、上級国民の女性を妻として迎えいれる伝統が、いつの間にか根付いていたようです。

 半年間お仕えして解った事ですが、奥様は旦那様のなさるべきお仕事をなさっておいでのようでした。朝食の後、奥様が書斎へ入室されると、二日に一度、計ったように扉がノックされ、ハンサムな旦那様の従僕が、膨大な量の資料や書類を机の上に積み上げていかれました。奥様は一人で翌日の夕食までにそれらの全てに目を通されて、然るべき処理をなさっておいでのようでした。そして、2週間に一度は朝から旦那様とお城に向かい、昼過ぎになると、ぐったりと疲れ果てて帰って来られました。この日ばかりは帰宅された後、すぐに浴室へと向かわれて、午後からは寝室でゆったりと過ごされます。お城で、国王陛下にお褒めの言葉を頂けた日は、旦那様も奥様を労われ、特別なご褒美に、経口避妊薬ピルという疲労回復に効果のある栄養剤を持って来た旦那様の従僕からマッサージをしていただいているようでした。平素は、私を含む三人の侍女で、凝り固まった奥様の身体を解す為、お休みになる前には欠かさずマッサージをさせて頂いているのですが、旦那様の従僕からマッサージされた翌朝は、前日とはうって変わって、とても清々しいお顔をなされ、なんとも言えないドキリとする艶めかしさが匂いたち、ぴかぴかのお肌は、お化粧のノリもとてもお良ろしゅうございました。

 さて、旦那様はと言えば、10時頃までお寝みなさっておいでのようで、その時間を過ぎると、本館の方角から楽師が奏でるヴァイオリンやピアノの音色が聞こえてきたり、お庭を楽しそうに散策する旦那様と第一夫人や第二夫人、それから未成年のお子様達の御姿が、窓の外に垣間見る事が出来ました。

 旦那様は五十代も半ばのお歳であられますが、私が雇われる事が決まった時に、奥様は身籠られておられました。ですので、お庭を散策する旦那様方の後ろから付き従う乳母の方が抱かれているお子様は、奥様の子供なのです。

 それから1年も経た頃でしょうか。

 晩餐は、本館の大広間でご家族全員でお召し上がりになられるのですが、その席で旦那様は、第四夫人が身籠られた事をおっしゃられました。それはとてもおめでたい事でございましたが、私は、旦那様の執事に、このまま本館に残るようにと耳打ちされました。

 広間の控室で待っておりますと、使用人養成学校の女生徒達によって私はお風呂に入れられて体中を磨かれました。私も生徒であった頃に、この実習を致しましたので彼女達が、そういう子達である事がすぐに解りました。そして、白い絹のネグリジェを着せられた私は、執事の後ろから旦那様の寝室へと案内されました。

 奥様の寝室も上等なお部屋でしたが、煌々と電灯の点いた旦那様の寝室は、奥様の寝室とは比べ物にならない程、豪華で煌びやかでした。私を入室させると執事は扉を閉められ、ワインのデキャンティングを始められましたが、私は毛皮の絨毯の敷かれたその場からは、もう一歩も動けませんでした。

 ソファに座り本を読まれていた旦那様は、ローテーブルの上に本を無造作に放って、突っ立ったまま動けなくなった私の、頭のてっぺんから足の爪先までジロジロとご覧になられ、なんともいえない恐ろしくも怪しい目をアーチ状に細められ、舌舐めずりをされました。それから、ゆっくりと立ち上がって私の方へ迫って来られました。私の顎の下へ二本の指を添え、私の顔を右に左に向け、顔の造作を隈なく検分されているようでした。そうして、私の胸元を隠すネグリジェのリボンを解き、またもや、にやりと笑って、私の唇に唇を押し当てました。

 気持ち悪く蠢きながら旦那様の舌が私の口の中に入り込み、ネグリジェ越しに旦那様の掌が私の乳房を鷲掴まれました。

(気持ち悪い)

 スパークした私の脳を占領したのは、その一言に尽きました。ゾワリとした悪寒が体中を駆け巡り、胃液が這い上がって胸がムカムカとして気持ち悪くなり、虫唾が走るとはこの事かと思い至った時には旦那様を突き飛ばし、寝室の扉を開けて、廊下を走って逃げていました。

 ですが、異変を感じ控室から飛び出してきた近侍達に、私はすぐに追いつかれ、捕らえられて寝室へと連れ戻されました。旦那様は、私に突き飛ばされてバランスを崩し、ソファの肘掛で頭を打ったようでした。剥き出しの木枠であれば危なかったでしょうが、クッション素材がふんだんに使われた柔らかな肘掛であったので、怪我などは負われていないようでした。

 寝室に戻った私に、恐ろしい目を向けたのは執事さんでした。吊り上がった眉で睨みつけられ、

「この非国民がっ!」

 と、怒声を飛ばされました。

 それから私は、私がいかに愚かな行いをしたのかを滔々と諫められました。それを聞きながら私は、自分の犯した罪の深さに身震いが止まりませんでした。ただの平民に過ぎない私が、上級貴族の旦那様を突き飛ばすなどあってはならない事なのです。

 ですが、幸運な事に私はこの罪をあながう機会を与えられました。それというのも、国王陛下の八人いるお妃様の内、一番地位の高い王后様が、昨年、王子様を出産なされ、今、上級貴族の皆様は、自分の家から王子様のお妃様を出される為に、お嬢様をおつくりにならなければならなかったのです。第一夫人や第二夫人の奥様方のように血統の正しい奥様のお産みになったお子様であれば容姿などは些細な問題ですが、私のお仕えする第三夫人の奥様や第四夫人のような上級国民の子供となれば、王子様に愛される事が重要であり、愛されるには美人のお嬢様でなければなりません。そうして選ばれたのが私の容姿だったのです。

 旦那様は、私が自主的にお国に尽くせなかった事を残念がられ、

「これはお国の為だ」

 と、私にネグリジェを脱いでベッドに横になるように命じられました。非国民の汚名を雪ぐ機会を与えられた私は、忙しい奥様の代わりに、旦那様のお申しつけ通りにお慰めさせていただいて身籠り、吾子を出産した後は、その子の顔を一瞥する事も無く、次の勤め先が決まるまでの間、育った養護院とは別の養護院で過ごす事になりました。養護院には、お乳が必要な赤ちゃんが沢山いるのです。



 ─ 完 ─

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