活動記録その一「花子さんと友情大作戦」

「私立応間学園 部活動入部届     


部活動名 『オカルト研究部』


一年一組 雨月 悠  

連絡先……

保護者名 雨月 亜矢」



 わたくし雨月(あまつき) 悠(ゆう)は、現在進行形で部室棟の階段をゆっくりと下っている。踊り場の壁に書かれた「B1」という文字が、青白い蛍光灯の光に照らされていた。

 高等部の敷地のいちばん奥にあり、うっそうとした木々に囲まれたこの部室棟。とくに地下は一年中日の光が当たらないようで、常にカビとほこりが混ざった臭いがする。いまにも息が詰まりそうだった。

――部活なんてものがこの世に存在しなければいいのにな。

 私はどうしてこんな場所にいるんだろう、と影を落とすような心地を紛らわすために短い髪をかきむしった。


 階段を下っていくと、ひとつのドアが見えた。

私立応間学園・部室棟の地下にある、不用品置き場と化した倉庫。そこには誰にも知られずひっそりと活動している、正体不明の部活があるという――


「オカルト研究部。あなたの悩み、解決します(怪奇現象のお悩み大歓迎!)、ねぇ」


 倉庫の引き戸式のドアには、プリントをひっくり返して黒マーカーで書き殴られただけの紙が貼りつけてある。こんなものを貼ったところで誰も来ないと思うのは私だけだろうか。入学してから思っていたが、この学園の生徒は必ず部活に入らなければいけないなんて決まり、正直どうかと思うのだけど。

 本日何度目かのため息をついてからドアに手をかけようとした、その時。

なぜか向こうから勢いよく開いた。するとその間ほんの一瞬、大きな何かが私をすっ飛ばしたのだ。

「あたっ!」

一メートルほど離れた場所にお尻から着地した。コンクリートの床にまともに打ちつけたら痛いに決まっている。

この時点で、私は部屋から飛び出してきたものの正体を大体把握できていた。

まったく怪我でもしたらどうしてくれるんだ、と言うような勢いで見上げると、そこには予想通りの細長いシルエットが立ちはだかっていた。


「おお、すまなかった雨月君っ!」


――あーもう、出た。

今にも折れそうなほどに細い体つき、なぜかリボン結びの男子生徒用の黒いネクタイ。そしてこちらを嬉々として見つめる青色の瞳……思わずお尻より先に頭を抱えてしまいそうになった。

「……何ですか鏡夜部長」

現れたのは髑髏ヶ城(どくろがじょう) 鏡(きょう)夜(や)――この怪しい部活の怪しい部長だ。彼は今日も絶好調なようで、彫刻作品のように整った顔に満開の笑みを浮かべると、バッと両手を広げた。


「失敬、失敬。ケガはないか?」

「はぁ。別に……」

床に這いつくばる私に手も貸さず、色のとおりまさに晴天のような曇りなき瞳を輝かせている。

「部室にいたら階段を下る雨月君の足音がしたから待ちきれなくてな。つい飛んできてしまったのだ!」

「いやあなたの聴力どうなってるんですかね!」

私は床に手をつき、何とか立ち上がった。もちろん制服の赤いスカートのホコリもはたきながら。もう少しこの人がまともだったら何か言えたのだろうけど、何を言っても耳に入れてくれない気がして、言葉をのどの奥に飲み込んだ。

「よく来たな、入りたまえ。ほら、よいからよいから」

鏡夜部長は立ち上がったばかりの私の背中を軽く叩いたかと思えば、ぐいぐいと部室の中に押し込んできた。なぜそんなに過激なスキンシップがお好きなのだろうか。

「その、私は用があるって呼び出されてただけで、それが終わったら帰ろうと思ってたんですが……」

「うむ、俺たちは雨月君が入ってくれて大変嬉しく思っている」

「あのぅ、耳はずいぶんいいみたいですけど人の話聞いてます?」


 押されるままに足を踏み入れると、部室は相変わらずお化け屋敷のような薄暗い影に包まれていた。入って右側の棚に積まれたダンボールや壊れた機材のようなものが雑に積まれている。それに中央の肘置きが取れたボロソファ、床に散乱したままの不気味なパッケージのDVD。こんな不用品置き場と化した部活、来ても生徒の悩みなんて解決しなさそうだ、というのは個人的な独断と偏見だが。

「あっれれー、きみが悠ちゃん?」

私が渋い顔をしていると薄暗い中で、女子の声がした。

 部屋の雰囲気とはミスマッチな、例えるなら砂糖にさらに蜂蜜をかけてガリガリと噛みくだいたように甘い声だった。

入部したときは女子生徒なんて私以外誰もいなかったはずだが。例のボロボロのソファに横たわっていた声の主らしき人物は、高い位置で二つにしばった髪をピョンピョンと揺らしながら起きあがった。


「鏡夜師匠、このコが新しい後輩ちゃん? さっすがやるじゃん!」


――む、この言いかたは……何だか嫌な気がするぞ。

「おっと。雨月君はまだだったか。紹介しよう」

「はいはいはーい! あたしが言うからっ。二年生の猫屋 蜜弥子(ねこや みやこ)です! 『みゃーこ』って呼んでね! 好きなことはおしゃれとあと日向ぼっこ! 駅前のカフェでバイトしてるから今度遊びに来てね!」

 飛び跳ねながらこちらへ向かってくる猫屋さんとやら、私よりも小柄で、髪飾りも大きな猫の顔のものでツインテールなんて、何というか……年下にしか見えない。この学園には中等部があるが、そちらの人かと思ってしまった。

「あの、この人って……」

「お前の先輩だとも」

「えっ」

「言ったではないか、俺『たち』は嬉しく思っている、と」

 そういえばそんな事を言っていたような。しかしどこか引っかかる。

「何でもう一人いるって事前に教えてくれなかったんですか?」

「部活なのだから二人以上いて当たり前だろうに。理解していると思ったんだがな……それに秘密は多いほうが楽しいではないか! な!」

 鏡夜部長はいたずらっぽく細い指をくちびるに当てた。

――うん、知らないし。それにその顔、たいへんうざいです。

 すると、蜜弥子先輩は無邪気な笑顔とともに私に手を差し出してきた。

「鏡夜師匠から聞いてたから知ってるよ! 前バイトでいなかったからやっと会えてよかった! よろしくにゃん」

「あ、雨月 悠です。えっと、よろしくお願いします……」

 私がそのままその手を握ると、いっそう愛らしい表情を見せた。見た目こそ派手だが、この人は何だかいい人な気がする。

「で、部長。用って何ですか?」

――早く帰りたいんですけど。

私は背後に振り向き両手を腰に当てながら立っている彼にたずねた。

「ああ、お前の役職を発表しようと思ってな」

「やくしょく?」

新入部員なのに役職がもらえるのか。というか、私は別に役職なんてなくてもいいのに。

 鏡夜部長は、ソファに戻ろうとしている蜜弥子先輩にくっつく形で中に入っていった。床に放置されたDVDの山を退けながら、奥にある掃除用具入れへ向かう。するとそこからホウキをつかみ、私の目の前に突き出した

私は一瞬え、と小さく声を漏らしたが、彼はそのままニッコリ、という効果音が聞こえそうな笑みを浮かべたまま動かない。


「……どういうことでしょうか、部長」

「期待しているぞ」

――あのう。

「お前は『雑用係』だ」


 私は手に押しつけられたホウキと追加で投げられたゴミ袋を握ったまま、ただその場に棒のように立ちつくしていた。

 


 二十分は経っただろう。鏡夜部長に命じられるまま私は部室の床を掃いていた。

「もう、なんでこうなるの……!」


 人間のやることじゃない。ただ面倒ごとを押しつけられているだけじゃないか。彼いわく「部長と副部長はもういるし、ただの役職なしも可哀想だしな!」との事らしいが、余計な気づかいになっていることに気がついていないみたいだ。その上手書きの「雑用」という名札も手渡されたが、それはもっと嫌なのでお断りした(そのおかげでドアの表に貼ってある貼り紙が部長直筆なのには気づけた)。

――私は、好きでこんな部活に入ったわけじゃないのに。

 ホウキに絡めとられていくほこりたちを眺めながら、自分をあわれんだ。

ただ初めて行く部室棟で迷子になって、ただ場所を尋ねたくてこの地下倉庫に入ってみただけなのに。そうしたらなんか綺麗な男の上級生がソファで眠ってて、その人になぜか新入部員に勘違いされて、どこかに入部したいわけでもなかったから入部届を出して……。本当、後悔のかたまりとはこの事だ。


 部室は不用品置き場として長年放置されていたせいか、手渡されたホウキでは到底間に合いそうにはなかった。大きなダンボールやらガラクタやらのせいでやたらと空間が狭く感じるが、実際に掃除をしてみると十人くらいは余裕で入れるくらいの広さがあった。これはしばらく帰れないかもしれない。

というより、あの二人は普段この汚い部室を掃除しようとしないのか。

振り返ると、部長と蜜弥子先輩はソファの上で横並びに座り、何か話し込んでいた。何てのんきなお二人だろう。


「さて猫屋君。はじめようじゃないか」

 横で掃除しているのに湯呑みで緑茶をすする鏡夜部長。確かに彼の見た目は大人っぽいが、わりに渋い趣味をしている。

「部として集まるのは久しいが……何か面白い話はあったか?」

「あ、あったよ。なんかさー、クラスの吹部の子から聞いたんだけど、三階のトイレで変なこと起きてるらしいね。師匠は三年生でしょ。なんか知らない?」

三階はたしか、三年生の教室がある階だ。私は一年生なので詳しくないが、何かあったのか。

「放課後の見回り当番の部活が先週は吹部だったじゃん? その人たちがトイレで変なもの見たんだって」

「ああ、その話は俺もクラスで聞いたな。だが」

「え、まさか、またやっちゃったの?」

――「また」?

鏡夜部長はあごに手を乗せてううん、と唸った。

「隣の席の女子にそのことを聞いたらなぜか逃げられた……おかしいな」

――そんなの当たり前ですっ!

 女子にそんなグイグイとトイレの事を尋ねたら引くに決まっているのに。

「もー、いっつもそういう態度取って! そんなんだから『変人』ってあだ名がついちゃうんだよ? 事件が起こるとすぐ首つっこんじゃうんだから!」

変人。何てド直球なあだ名……。きっとそんな彼に聞かれたから隣の席の女子も逃げ出したのだろう。お気の毒に。

「じゃあ師匠は知らないのか。なんか女の子の笑い声が聞こえたんだって。怖いよねー」

「ほう? 詳しく聞こうか」

――いやいや、「変人」さん。なんで目を輝かせているんですか。それ怖すぎますって。

とそこでここが「オカルト研究部」という名前なのを思い出してああ、と勝手に納得した。私はチリトリに掃いたほこりをゴミ袋の中に叩き込みながら横で話しを聞くことにする。

 すると蜜弥子先輩は顔を急にしかめて、両手を突き出した。お化けポーズというやつだ。

「それは三階女子トイレでの出来事でした……」

 明らかに作っているのがわかる低く震えた声だったが、ついチリトリを持つ手が止まってしまう。

「放課後、吹奏楽部の二人の女子生徒は、校舎の見回り当番を任されました。彼女たちは普段活動している旧校舎の見回りを終え、渡り廊下を渡って教室棟は三階から見回りをする事にしたのですが、女子トイレから何かが聞こえます……『あたしとあそぼうよ』と。ですが、その声の主はどこにもいないのです……」


 ――え、こわ……。


 蜜弥子先輩の話し方も相まって、私はつい素直な感想を抱いてしまった。いかんいかん掃除だ、と頭を横に振っていると、床に放置されていたダンボールの中でもひときわ大きなものが目に入った。普通のものの二つぶんくらいはあるだろうこの箱のせいで、ソファと棚の間がふさがって室内での移動が面倒になっていることに気がついたが、あの二人は怪談話をしていて全く気にしていないみたいだ。

何で私がこんな事をさせられているかは謎だが、これを棚に持ち上げてしまえばいくらかマシになりそうだ。

「よっし……」

 私はホウキを置くと両腕のシャツの袖をまくってからダンボールに果敢に挑んだ。持ち上げた瞬間よっこいしょ、と声が出てしまうほどに重く、つい足がよろめく。というか持ち上げられたということに驚いた。ダンボールの中身は上から封がしてあって見ることはできないが、何を入れたらこうなるんだろう。


 と、ようやく箱を棚に乗せられたかと思ったその時、ボコ、という妙な音がした。

その違和感もつかの間。

「うわああああ!!」

ものすごい勢いで床にダンボールの中身が叩きつけられていく。

 綿のようなホコリがあたり一面に舞い思わず咳き込むと、足元には表紙が色褪せた教科書や何が入っているかわからない白い箱の山が出来ていた。

すっかり空っぽになってしまったダンボールの底を覗くと、ガムテープが裂けて穴が空いていた。


やってしまった……。

「それはきっとトイレの――って悠ちゃん⁉」

ぽっかりと空いた穴の先に、こちらに駆け寄る蜜弥子先輩が見えた。先輩はしゃがんで床の上のものをかき集めようとしてくれているが、その極端に短いスカートにも構わない姿を見て、すぐに止めに入りたくなる。

「大丈夫? もー、こういう重いのは師匠がやってよね!」

「あ、その、おかまいなく……」

 私はどうせ雑用ですから。とはいえ、余計なことしなければよかった。

蜜弥子先輩はソファに向かって抗議していたが、多分あの部長にその意味はないと思う。

やれやれ、と床に散らばったものをせっせとかき集めていると、指が何かを弾いた。

――なにこれ、眼鏡?

それを慎重に拾い上げてみると、妙なものだった。ずいぶんと時代遅れな形の眼鏡だ。黒いふちに囲まれたレンズは丸くて分厚く、牛乳瓶の底みたいだった。お父さんが読んでいた昔のギャグマンガに出てくるがり勉キャラがかけているものに似ているような。先ほどの衝撃でレンズが割れていないかを確認すると、そもそもプラスチック製で、度も入っていない。そして眼鏡の右レンズの横には星型の赤い飾りがついている。

すると、横からニュ、と伸びてきた手に眼鏡を奪われる。

「おお、そこにあったのか!」

「えっ?」

 気がつけば横にはいつのまにかソファからこちらに移動してきた鏡夜部長がいて、指で眼鏡をくるくると弄んでいる姿があった。

「お、『なにこれ、眼鏡?』と言いたげな顔をしているな、雨月君」

私の心の声をそのまま言わないでほしい。

「説明しよう。これは見えないものが見える摩訶不思議な眼鏡なのだ!」

「え……これただのグルグル眼鏡じゃ……」

 学園祭の仮装に使われたものとかではなく?

と言われたら気にならないわけがない。さすがに私がこれをかけたらギャグ漫画よりもひどいと思うのでこっそりレンズをのぞくと、周囲に特に変化はなかった。目の前にいる鏡夜部長もただうざったらしくニヤニヤ笑みを浮かべているだけだ。

 というよりさっきからムカつく。一体何が面白いんだろうか、この人は。

「なんだ? 服が透けて俺がハダカにでも見えると思ったか?」

――はい?

「何と破廉恥な! 雨月君は『えっち』というやつだったのか……雑用のわりに隅に置けんな!」

「何でそうなるんですか!」

 彼は顔を真っ赤にしながら体をクネクネと揺らしているが、どこかの青年向けマンガじゃあるまいし。破廉恥ではないが、どちらかと言えばいろんな意味で変態なのは彼のほうじゃないだろうか。

「まぁ、とりあえずここにあっても困る。それはお前にくれてやろう。いずれ渡すつもりだったがな」

入部特典というやつだ、と部長は私の広げた手のひらに眼鏡を置いた。

――うわぁ、すごくいらない。

 私を雑用だけでなく漫才の相方にでもさせるつもりなのかこの人は。

鏡夜部長はわざとらしい咳払いをした。


「先ほどにも言った通り、それは普段人間が見ることが出来ないものを可視化することを目的としたもの。わかるかね?」

「その『人間が見ることが出来ない』ってのがイマイチわからないんですが……」

 さっきの服が透けてハダカに見える、とかはさすがにありえないけれども、紫外線に音波、空気。人間に見えないものなんてこの世には山ほどある。

 すると冷やかな色の瞳が、私の顔をのぞきこむ。

「雨月君、良いか。その目で見えることが全てではないのだという事はこの部にいる限り覚えておけ。この学園で起こる人の理解を越えた現象を追及し、解決する……それが俺たち『オカルト研究部』の使命だ」

「それはいわゆる『人じゃありえない事』と?」

「然り。がいればその逆……俺たちが認識できない場所に『人ならざる者』が必ずいるという事もな」

――「人ならざる者」。

「たとえば妖怪に幽霊。お前は考えたことがないのか? たとえばこことは違う世界や、人間の理解が及ばぬ存在があるのではと」

「あの私、そういうのよくわからないんで……」

 思えば異世界に妖怪、幽霊なんて大昔に人がそういうのに憧れて勝手に作りあげたものだろう。神様だってきっとそうに違いない。あんなの漫画の中だけの話。人間が都合のいいようにすがってきただけの存在だ。さっきの蜜弥子先輩の話には確かに得体の知れない恐怖を抱いたが、私はどこか、まだ奥底で引っかかる部分があった。

「妖怪とかもし本当にいたら大変なことになってますって!」

「さて、それはどうかなぁ?」

蜜弥子先輩は新品のダンボールを引きずりながら、こちらへ歩み寄ってきた。

「たとえばさっきのあたしの話。――三階のトイレでの出来事ね。犯人という犯人の姿が見当たらなかったって言ったでしょ。どう説明するの?」

「それは……」

 トイレに入ってくる人にいたずらしたくて誰かが隠れていたとか? それとも単なる生徒たちの聞き間違いか。

と言おうとして口を開いたとき、私は次に紡ぐ言葉を失った。


 気がついてしまった。そうなるとどうしても説明がつかないことに。


あ、う、とをパクパクさせて床を見つめる私を見て、鏡夜部長はだろう?と言いたげに片眉を上げる。同時に、蜜弥子先輩が大きく頷いた。

「出来んだろうな。……考えてみたまえ。個室を開けてみたら誰もいなかったんだぞ? 普通の生徒が隠れていたとしてあんな狭い場所からどうやって逃げるんだ」

「瞬間移動、したとしか」

「はは、それこそ人間を超越した力だろうに」

なにも思い浮かばずついとんちんかんな解答をしてしまったのは反省すべきだろう。

すると鏡夜部長は何やら、蜜弥子先輩に向けてパチパチ目配せした。

「悠ちゃん。なら行こっか!」

瞬間、私の手をガッシリとホールドして離さない先輩。

――ひっ! な、なに?

「その目で確かめてみるとよい。せっかくその眼鏡をやったんだ。見ておきたまえ」

「あのぉ、ウインクできてませんけど」

両目をギュッとつぶった部長をただ恨めしげに見つめた後、私は右の手に握ったダサい眼鏡に視線を落とした。

ほんと、何だこの部活。変な人しかいない……。

「さて諸君、例の見えない犯人探しのはじまりだ」

宵闇のような色をした前髪の間から、青い光がゆらゆらと揺らぐ。

どうしてか、全身にしびれるような寒気がはしった。


***


――暗い。なんか寒い。それにすごい静か。

「……どうしてこんなことに」

二人に連行された私は、一列の後ろで親に必死について行くアヒルの子どものように、階段を登っていた。

もちろん、親は鏡夜部長。私の真ん前は副部長の蜜弥子先輩だ。一段一段登るたび、先輩のツインテールがピョコピョコ跳ねるのが面白くて観察していたら、段差にすねを打ってしまった。

「あいてっ」

「どうしたの悠ちゃん?」

「あー……ちょっと足をぶつけちゃって」

 外がだんだんと暗くなってきたせいか、校舎の中は自分の足元さえもはっきりと見ることができないほどになっていた。念のためブレザーのポケットに忍ばせておいたスマートフォンは心もとない光を放っている。時間は十八時半。部活の終了時刻を過ぎ、ほとんどの生徒が下校したあとの校舎は、この世の終わりかというくらいに静まり返っていた。普段人が多くいる場所がこんな風になると何だか奇妙だ。今いるこの教室棟の一階昇降口もいずれ閉まるだろう。

「ふふふん、事件っ、お悩みっ、どーんとこーい!」

先頭で歌になっていない歌を口ずさんでいる人は無視しようと思う。一体どうやったらそんなダサい歌詞がつくんだろうか。どうせ本人作詞作曲だと思うが。


 そういえば、前二人は懐中電灯も何も持たず進んでいく。あの後、部室の掃除の続きをしていて何か見つかるかと思っていたら案外あっさりと期待を裏切られた。こんな暗い中、なんて夜目がきく人たちなんだ。

 例の女子トイレは三階の三年二組の教室の正面にあった。ドアに貼ってある「このトイレはみんなの場所です! きれいに使いましょう」というフリー素材の女の子がほほえむポスターの通り、古いながらも清潔に保たれているようだ。この学園の高等部には一学年につき成績で分けられたニクラスしかなく、それだけに利用者も普通の高校よりも少ないからかもしれない。

 女子トイレということで、私よりひと足先に三階に到着した鏡夜部長だが、二組の教室の前に立っていた。

「師匠、そういえばここ入れないじゃん。もしも誰かに見られてて、今入ったらまた変な噂になるよ?」

「そうだったな。はて……女子になれる力でもあれば良かったのだが。どうするか」

 そこは気にするらしい。まったくデリカシーがあるのかないのかわからない。

「そうだ、俺は入口にいよう。このドアを開ければ中がまったく見ることができないわけでもない。猫屋君と雨月君が先に行ってくれ。頼むぞ」

「はいはーい! 了解にゃん」

――えー。

 片手をあげて元気に返事をする先輩の横で、ついうなだれてしまう。トイレの出入り口のドアを開けると、夜のトイレというものはたいへん気味が悪いものだと改めて実感した。小学生の頃にはトイレにまつわる怖い話がたくさん流行っていたけれど、わかるかもしれない。

中に入ろうとしたとき、鏡夜部長の手のひらによって止められた。

「ああ雨月君、待ちたまえ。その眼鏡を装着しておけ」

「えっ?」

「良いから」

――うーん、気は進まないけど、とりあえずかけておくか。

もう片方のポケットから先ほどもらった「人が普通見れないもの」が見えるらしい眼鏡を取り出す。究極に視界が悪いしダサい。可愛い赤い星の飾りが唯一の救いだ。似合ってないのは小刻みに体を震わせて笑う部長と先輩を見てわかっていた。

しょうがないじゃないですか、命令なんですから。

「あまり笑わないでくださいよ。その、へこみます」

「いや、俺は笑っていない。ただあまりにその、似合って……くくく」

「やっぱり笑ってるじゃないですか!」

あきれた。なんで私こんな事してるんだろう。

しかしどうせこの人は中には入れないのだ。放っておこう。一体彼のどのツボにハマったのかは分からないが、涙を浮かべ引き気味に笑いながら手を振っている部長をすり抜ける。

「失礼しまーす!」

「いやいや先輩、学校のトイレなんですからそういうの言わなくていいと思いますよ、ってうわっ!」

 突然、蜜弥子先輩に背中を押された。

「やめてくださいよ! びっくりするじゃないですか!」

「さーて、キューティキャット探偵・みゃーこにゃんと助手の悠の大冒険だー!」

「聞いてない……!」

 探偵なのになぜか冒険物語と化しているのはツッコミを控えさせていただくが、真っ暗な中では先輩の言葉が少し心の支えになっている気がした。もしあの部長と二人だったら「暗闇は良いものだなぁ雨月君! あっはっはっは!」とか言いながら私の肩を赤くなるまで叩かれていただろう。

 安堵か不安か、無意識についたため息を飲み込む。

中は一年生の教室がある一階のものと同じ構造をしていた。入って左側の壁に洗面台が二つ、その奥には個室が全部で三つある。

 私はスマートフォンの懐中電灯機能を起動し、壁からゆっくりと照らしてみた。

壁や床のタイルがほのかに照らされるのを確認してから個室を手前から順に調べるが、見た目は変わっている場所はないようだ。

「特に変わったものはないですね」

「たしかにないね……ししょー、今のとこは何もないみたーい!」

ドアの外に向かって叫ぶ蜜弥子先輩に対する「了解」と答える部長の声。

 ――何もないならもう帰りましょうよ。やっぱり何もなかったじゃないですか。

 私がそう言いかけたとき。


バシン。


「え」

 闇の中、突如聞こえた奇怪な音に背筋が引きつる。

何かを手のひらで叩いたようなその音に、蜜弥子先輩も気がついているようだった。つり気味のパッチリした目を見開いている。

何となく、体の中の血という血がサーッと引いていく感覚。

 必ずしも見たかったわけじゃない。けれどゆっくりと、ゆっくりと、私の頭は勝手に音のほうを振り向いていく。

二番目の洗面台。闇の中、薄青く光る鏡面に。

――「ウルサイ」。

赤くべったりと塗りたくられたような文字が浮かび上がっていた。


「うわああああああ!!!」

なんで。

さっきまで何もなかったのに。


「どうしたんだ!」

鏡夜部長がドアから顔を出した。

「ぶ、部長、あれ……!」

震える指の先の赤い文字を見た部長の反応は、案外あっさりしたものだった。

彼は軽く頷いただけだった。

「そうか。これでようやくわかったぞ」

――わかった?

「雨月君、気づかんかね。おかしくはないか?」

「といいますと?」

「その眼鏡だ」

 この眼鏡が見た目から何まで色々おかしい事は知っている。部長だってさっき私がかけてるの見て笑ってたし。人ならざる者を見る眼鏡とか言っておいて何も変わったものは見えないしそもそもそんなのハダカが見ることができる眼鏡くらいありえない代物だ。あんな場所に放置されていたものだし、結局ロクなものではなかった。

「あ、そうそう。結局これ、それらしいものは何も見えないじゃないですか! やっぱり部長は私にただガラクタを……」

――あ。

そうだ。もし、この眼鏡が本当に人ならざる者を見るものだとしたら。

「この鏡に文字を書いた犯人が、認識できてない……?」

私ははっきりとこの眼鏡を通して鏡に文字が書かれたのを見ていたはずだ。ならその犯人が見えていてもおかしくない。

「その通り。それが確かめたかった」

彼は続ける。

「つまり――そこにいるのは、とある段階を踏まなければ完全に認識する事が出来ない。俺の予想が当たったな」

 白い歯をニヤリとつり上げる彼。しかし、私には一つ気になることがあった。

「もしかして、私、それを確かめるためだけに?」

「ん? お前は雑用なんだから当たり前だろう?」

――こ、こいつ! 「常識だよな?」みたいな顔して!

「雨月君」

「はい?」

 苛立ちながらの返事にも臆さない部長が示す方向に、私たちは向き直る。

「そこに三つ個室があるだろう」

ありますけど。

「手前の個室から順に三回ノックだ。行ってこい」

まだ私をこき使うつもりなんですかねこの人は。

「……なんでそんなことしなきゃいけないんですか」

「儀式、だ」

――儀式って、あの儀式?

 それは異界とかから何か召喚をしたり、魔法陣を書いたりする不気味なあれだろうか。オカ研はトイレでも普通にそんな事をするのか。知らなかった。

「恐らくお前のワカメみたいな頭で考えている儀式の意味合いとは違うな」

「ワカメとは何ですか、ワカメとは!」

突然の暴言。確かに私の髪の毛はひどいくせっ毛で年中うねっているけれども。

「もう言ってもいいだろう。ここにいる犯人はこの儀式ありきの妖怪なんだ」

「うんうん。有名なやつだよね。儀式込みでひとりの妖怪なの」

唯一味方だと思っていた蜜弥子先輩はクルリとターンして部長のいるほうへ回り込んでしまった。さすがに彼女は私にワカメとは言わなかった。

 というより、その儀式とやらはどうせ私がやらなければいけないんだろう。

――はいはい。もうやればいいんでしょ、やれば。

まだすくむ脚にぐっ、と力を注ぎこんでやってから私は進みだす。

「ああ、ノックしてから必ずこう言えよ。……『花子さん、いらっしゃいますか』と」

「え、花子さんって……」

あの花子さん? 

「ん、お前、知っていたのか?」

「知ってるも何も……」

 幽霊だとか妖怪だとか、私はそういった話は詳しくはないけれどさすがに彼女の名は知っている。小学校の頃に流行ったトイレにまつわる怖い噂の大半だって、その花子さんにまつわるものだった。トイレにいると言われている女の子の姿の妖怪だ。クラスの女子がおかっぱの女の子が出た、とか騒いでいたような記憶がある。学校によって違うけれど、花子さんは普段は人には見えない。ちゃんと花子さんに出会うための方法があるのだ。

 トイレのドアを三回ずつノックして、最終的にいちばん奥の個室にいるのが花子さん、らしい。まさに部長が試せと言った通り。

「あれ、学校の怪談の王道の中の王道じゃないですか。むしろいちばん有名だと思うんですけど」

 私の通っていたところは男子トイレにユースケ君だかコースケ君だか、花子さんの男バージョンがいるって言ってた人がいたような気がする。

「そうだったのか。……あいつらもずいぶんと出世したものだなぁ」

「部長、何か言いました?」

「あぁいや、なんでもない」

なるほど。そのドアをノックして彼女を呼びだすまでが彼女の存在を確立させるものということか。

しかし、学校の怪談というものは本当に不思議なもので、中学校に入ったらそんな噂、さっぱり聞かなくなった。

「でも本当にここにいるの、花子さんなんですか?」

 ここは高校生しかいない。

「いいところに気がついた。そうなんだよ、雨月君。なぜ花子がこの学園でわざわざ生徒の怖がるようなことをしているのか。それを聞き出して止めるのが俺たちの役割だ」

 つくづくこの部活のことがわからない。花子さんは妖怪だし、呼んでいいことがあったなんて聞いたことないしやめておけばいいものを。しかし、二人の期待に満ちあふれた輝く瞳に私はすっかり折れてしまった。

「がんばれ、悠ちゃん!」

一度は止めた脚を、ふたたび奥へと踏み出す。まずは、手前の個室。三回、特徴のない白いドアを拳で叩いた。

「花子さん、いらっしゃいますか」

返答、なし。

――そりゃそうだよね。

ここで何か出てきたらさすがに困る。というか、逃げる。

次。二番目。

「花子さん、いらっしゃいますか」

返答、またなし。

「何度も言いますけど、次、もし花子さんがいなかったら恨みますよ」

背後の鏡夜部長は困ったように微笑んだ。それでいて、妙に自慢げな表情だ。

 私は少し息を多く吸ってから、問いかけた。

「……花子さん、いらっしゃいますか」

 予想を裏切るしばらくの空白。そして。

『だぁあああ! あんた達、うっさいのよさっきから!』

「ひぇっ!」

 その声は、蜜弥子先輩のものでも、部長のものでも、無論私のものでもなく。ついタイルの床の上に尻もちをついてしまった。今日何回目だろう。頭上からひんやりとした空気が流れ込んできた。私は個室を開ける。

――ウソ。

冗談とかではない。宙に、女の子が浮かんでいた。

浮かんでいたという表現しか出来ないほど、綺麗に。彼女はまるで透明なイスに腰かけているかのように、空中に白い素足を放り投げて浮いていたのだった。

白いもやのようなものに包まれている。

「あ、あ、あ……は、花子しゃん、でござりますか……?」

『はぁ? 日本語おかしくなってるけど大丈夫? なんなの? 尻打ったら頭悪くなる新種とかなの?』

 血のように真っ赤な唇は、白い顔によく映えている。

――花子さんって、本当にいたんだ。

 小学生のころはただのデマかと思っていた。しかし本当に目の当たりにしてしまう日がくるとは思ってもいなかった。おかっぱの黒髪に白い肌の少女。本物だ。

 しかし、何かが違うというか、足りないというか。

「おお、やはり花子だったか!」

「誰。ていうか人間のくせになに気安く呼び捨てしてんのよ! キモいから!」

さすが「変人」。本物の花子さんに彼も目を輝かせている。

「師匠、『その姿』じゃ……」

「おお、そうだった、そうだった。すまんな花子さん」

 蜜弥子先輩は何やら部長に耳打ちしているが、やはりこの花子さん、おかしい。本物の花子さんだということはわかるが。

「あの、部長」

「ん?」

「この花子さん、なんか……」


私の知っている花子さんとは違う。

 なぜなら目の前にいる彼女は、この学園の制服を着た、女子高校生だったからだ。

赤いスカートはこの学園の制服の色からして正解、という判断もできそうだが、彼女は間違いなくクラスメイトにいてもおかしくないような同じくらいの年代の姿をしていた。

「言われてみればそうだな。普通、花子は小学生の姿をしているはずだ……なぜだ?」

「そこのワカメみたいな髪したあんた。さっきからジロジロ気持ち悪いんですけど!」

「またワカメって言われた!」

私は思わず自分の髪の毛をかきむしった。そんなにワカメみたいかな。

『あんたたちねー、勝手に呼び出してギャーギャー騒いで! 絞め殺すわよ⁉』

――ひっ、さらっと物騒なことを! これが妖怪か!

「す、すみませんでしたっ!」

だが、予想通り、例の男は女子高生の姿の妖怪相手にも全く動じなかった。

「いやぁ、確かにそうだな。勝手に上がりこんでは不快だよな、悪かった」

反響する声と同時に、向こうでヒラヒラと部長の白い手が揺れる。まずい。そんな舐めきった謝り方したら本当に絞め殺されますって。

「俺たちはこの学園の怪奇現象を調べているオカルト研究部の者だ。俺は部長の髑髏ヶ城鏡夜。そこにいるのは副部長の猫屋蜜弥子君と新人で雑用の雨月悠君」

「……ども」

迷ったが自分の名前を言われたとの同時に少しだけ頭を下げる。

「先ほどの我が部員の無礼を詫びる。申し訳なかった。少し調査をしたいだけだったのだが」

花子さんは目を丸くしてこちらを見つめていた。私の頭の上を冷たい風とともに通り抜け、むかった先は部長のいるドア側。

『ふーん。あんた、よく見るとわりといい顔してんじゃん。まー、あんま美味しくはなさそうだけどー』

――んん?

ペロリと赤い唇からさらに真っ赤な舌を覗かせた。

「そうかそうか。そういうのはよく言われるなぁ」

――よく言われるんだ⁉

確かに鏡夜部長は見た目だけはこの学園で会ったうちで一番いいとは思っていたけれど。思って「いた」けれども。実は部長に密かに想いを寄せている女子がいたりするのかもしれない。その女子たちが非常にお気の毒だ。

この花子さん、けっこう面食いだな。

というより美味しそうとかいうとんでもない単語が聞こえたのは気のせいにしておこう。

『で、あんたたちが何者かはわかったわ。何? アタシを調べに来たって?』

「花子さん。勝手に呼び出して早速悪いが、あれはお前がやったのか?」

彼が指差す先にはあの鏡があった。血の文字は先程と一切変わらない形で残っている。

『……べ、別にちょっと遊んでただけよ。どうでもいいでしょ』

わお、この人、素直に言っちゃったよ。

よくわからないが部長パワーが発揮されているのだろう。部長が顔だけは綺麗でよかった。

「まったく他人から姿が見えないのをいい事に。しかしこれはひどいな。皆怖がるのも当然だ」

すると蜜弥子先輩が鏡に鼻を近づけていた。スンスンスン、と匂いを嗅いでから、水をつけた指で文字をこすっている。

「先輩、なにやって」

「ああっこれ、やっぱり口紅にゃん!」

本当だ。

驚きのあまり飛んでいる先輩の横で血だと思っていた文字を覗くと、文字の部分だけは水をはじき、水滴が吸い付いていた。

「あ、口紅って油が入ってるから……」

「うんうん、こういうのって水で色が取れたら困るからね。それに匂いもするの! これ花子さんが口紅で書いたんでしょ?」

『……それは』

匂いで判断出来てしまう蜜弥子先輩もすごいが、花子さんをすっかり

『ち、ちょっとちょっかい出しちゃっただけだし!』

彼女がスカートのポケットから取り出したのは、金色の小さな筒状のケース。

「へぇ、あれは血じゃなかったのか。脅すわりにやり方はあまり妖怪らしくないんだな」

『なっ!』

花子さんはこっそりと取り出した口紅を自分の背後に隠した。

『だって、すぐそこにいるのに、誰も気がついてくれない。でもあたしからは何もできないし、どこにも行けない。こんなのってないわよ! アタシだって妖怪だけど女子高生らしいことしたかったの! 悪い?』

ああ。

彼女は何とも言えぬ表情をしていた。怒り、悲しみ、苦しみ、すべてを込めて叫んでいる。そんな彼女を見て、私の心はきつく縛ったようにひどく痛む。

私にはわかる。でも、花子さんは妖怪だ。私たちにだって何もできない。一体、どうすれば。

「そうだ! 友になろう!」

――え? なんで、そうなるの?

鏡夜部長は今まで見た中で一番と言ってもいいくらいに瞳を輝かせていた。まさに青く一番星のように。プラス両の拳を握りしめ、ブンブンと振っている。

「部長? あの、念のため言いますけどこの方妖怪ですよ? 何されるかわから、」

「悩んでいるなら、俺たちが友になってしまえばいい!」

何だそのパンがなければお菓子を食べればいいじゃないみたいな某有名な貴族の考え方は。

「なんだね雑用? ほかに良い案があるなら言いたまえ?」

「うっ……」

顔面を押し付けんばかりに迫り来る部長から文字通り引き下がると、満足したように口元に歪んだ笑みを浮かべた。

『アンタたち、マジで言ってる?』

が、一番驚いているのは彼女だった。それもそのはず、今まで誰からも相手にされずむしろ怖がられていた彼女のリアクションとしては、正解のはずだ。

「マジだ。名づけて『友情大作戦』! 友だちとして、お前がやりたい事、見たいもの、すべて俺たちが共に叶えてやろう!」

『……信じていいの?』

「ああ!」

胸を叩いて誇らしげにしているが、妖怪と友だちなんて、どうやってなるつもりなんだろうか。性格はわりとチョロ、いや、言わないようにしよう。

すると隣の蜜弥子先輩が私にだけ聞こえるような声で言った。

「師匠はね、いつも間違っていることは言わないんだよね」

かくして、私たちの花子さんとの友情大作戦がはじまったのだ。



「花子さんと親睦を深められそうな案を明日の部活動の時間までにひとり一つ以上考えて来い!」

――うーん、友だちかぁ。

「急に言われてもねぇ」

 私は昨晩言い渡された部長からのミッションを思い出しつつ、財布を片手にわざとらしく首を傾げてみた。しかし突然都合よく案が降ってくるわけでもなく、さらに私をうならせるばかりだった。

 私には正直、友人というものがよくわからない。ただ一緒にいたらそれは友人に入るのか? それは仲良しとは言えないんじゃないか? というようについ考えすぎてしまうのだ。


 昼休みの食堂は相変わらず混雑していた。だがまだ授業が終わってからしばらく経っていないせいか、ちらほら空席が目立つ。財布を片手にこのままずっとうろうろとしているわけにもいかない。

さて、何を食べようか。

端の手頃な席にハンカチを置いて席取りを済ませると、食堂の隅っこにある購買の簡素なテーブルに積まれているパンが目に入った。

私立応間学園名物の「たこやきパン」。

焼きそばパンと同じ要領で切り開かれたコッペパンにたこ焼きが中に四つ挟んである、人気商品だ。きちんとソースと鰹節と海苔までかかっている。

「あの、これひとつください」

「九十円だよ。はい、お釣り。ありがとねー」

百円玉と引き換えに、かわいらしいピンクのエプロンをしたおばさんからラップで包まれたたこやきパンと十円玉を受け取った。普段は昼休みがはじまってたった三分で売り切れる日もあるという噂のこれを食べられる日が来るなんて、ちょっといい日かもしれない。

「うむ、ここの飯は相変わらず美味いな!」

はい、前言撤回。

 もう声でわかるようになってしまった自分が悲しい。

先ほど取った席に戻ると、すぐ正面に、いつのまにかあの鏡夜部長がいた。彼の胸元にはいつものヘンテコな結び方のネクタイはなく、青いジャージを着ている。いまどき学食に置いてあるなんて珍しいガラスのコップに麦茶を入れ、それを豪快に飲み干していた。

――部活以外であんまり会いたくなかったんですけど。

 こっそりとハンカチを回収して別の席にでも移動しようとしたが、とっくに周囲の席は満席だった。もうしょうがない。大人しく座ろう。

「もぐ、雨月君じゃないか! はむ、こんなところで会うとはな! 昼食か?」

「そうですけど食べ終わってから話してくださいよ……って!」

 テーブルには明らかに一人前の量ではない食べ物が並べられていた。彼が現在進行形で卵をスプーンで崩しているオムライスの他に、私も買ったたこやきパン二つ、焼きそばパン、デザートに食べるらしいメロンパン、それに加えてどんぶりいっぱいの天丼。

「なんだね?」

「それ、全部部長が食べるんですか……?」

「ん、まぁ、そうだな」


ええ。嘘。


「体育の授業の後はやはり腹が減ってかなわんな! もぐもぐ、美味い、美味いぞ!」

 それはわかるが、こんな細い体のどこに入っていくんだろう。ますます彼のことがわからなくなった。こんなに近くにいるのに、まだよく部長のことがわからない。

彼は体育の授業だったからか、普段は長い前髪を軽くヘアピンで留めていた。

――あ、この人、口元だけじゃなくて右目のとこにもホクロあるんだ。……って私はどこを見てるんだろう。

「何だね、そんなに俺を見つめて。やはり変態ワカメだったのか?」

「違いますから!」

いつまでその変態とワカメネタを引っぱるんだ。

「ん、お前もたこやきパンを買ったのだな。いい選択だ」

それはどうも。

 そう言われ、指さされたたこやきパンにかぶりついてみた。甘めのソースと鰹節の香りが染み込んだパンと、まだ温かいたこ焼きが合わさってなかなかおいしい。どんどん次の一口が欲しくなる。なんとなく人気の秘密がわかった。

「これ、意外とおいしいです」

「ああ、それは俺も好きだ」

 いつのまにか部長はオムライスを平らげていた。確かに二個もたこやきパンを買っているくらいだ。この学園では大人気のようだ。しかし彼は、たこやきパンのうちの一つを右隣の空席の場所に追いやった。

――あれ、そっちはまだ食べないのかな。

と、彼は誰もいないその空席をしばらく見つめて、微笑みかけた。

「ほら、これがたこやきパンだ。食べたまえよ」

部長? 友だちがいないあまりにエア友だちを作り始めたんですかね?

同情するつもりはないが、ちょっとかわいそうに思えた。変人とか呼ばれているらしいから大体察してはいたけれど、何もない場所に話しかけている彼を見ていると心が痛んだ。

しかし、その痛みはすぐどこかへ飛んで行った。

「なぁ、花子さん」

私には、何も見えないし何も聞こえない。蜜弥子先輩も含め、鏡夜部長は眼鏡とかなしにどうやって花子さんを見ているんだろう。

ブレザーのポケットを探るとかたいものに触れた。昨晩から入れっぱなしだったようだ。

大勢いる中でこの眼鏡をかける勇気はあまりなかったが、仕方ない。

『あーこれが噂のたこやきパン!? 食べたかったの!』

眼鏡をかけた瞬間、さっきまで誰もいなかった席にちょこんと座る花子さんが見えた。

ほ、本当にいた。エア友達とか言ってすみませんでした。

やっと目視できた彼女に挨拶でもしようと思ったが先に挨拶してきたのは向こうだった。

『あれ? あんたなんでいるの?』

それが第一声ですか!

でも、彼女こそどうしてトイレでもないのにここにいるんだろう。

「こいつはこの学園の校舎内ならどこでも移動が出来るそうだ」

 海老の天ぷらの尻尾を口から覗かせている部長いわく、彼女は一度外に出なければいけない場所には行けないそうだが、三階のトイレがある教室棟から渡り廊下でつながっているこの食堂とここの二階の体育館、旧校舎なら移動できるそうだ。ということは、部室棟は旧校舎の裏側にあり、渡り廊下で繋がっていないので一度外に出なくてはならない。彼女がそこまで行けないからここに呼んだようだ。


「誰かと飯でも食べれば美味しい上に親睦も深められる! まさにうまい話だと俺は思った。そうしたらお前が来たわけだ。良い機会じゃないか!」

それは確かにそうだが、花子さんはすごい目してこっち見てるわけで。

『うわ、あんたひとり? 昼休みにひとりとかマジかわいそー……友だちいないの?」

ひどい事言うなあ。いいじゃないか一人でも。

「この学校じゃ、まだ」

 嘘をついてもしょうがないので私は正直に答えた。中学の友人は少なくとも部活に所属していたのでいるが、高校生になってからは友人と呼べる友人はまだいない。というか、花子さんも友だちいないとか言ってたような。しかしそれを指摘すると絞め殺されそうなのでやめておく。

『ふーん。まぁアタシには関係ないからいいけど。いただきまーす!』

彼女は勢いよくたこやきパンにかぶりついた。

「美味いだろ?」

『おいしい!』

……きっとこういう人なんだろう。

 食べ物を食べるときの彼女の表情は間違いなく、幸せに満ち溢れたものだった。

たこやきパンを頬いっぱいに詰め込んだ姿は、リスみたいで少し可愛い。

それを眺めながら私も自分のたこやきパンを食べる。やっぱり、いつもよりちょっとおいしいかもしれない。

誰かと一緒に食べるお昼ご飯なんて、いつ以来だろう。

「そういえばたこやきパンなんて誰が考えたんだろうな?」

部長が首をひねりながらパンを色々な角度から鑑賞している。

『これ昔からあるわよ?』

そうなんだ。

「焼きそばパンはわかりますけど、たこ焼きなんて聞いたことないですよね」

『まぁ、どうせ誰かの思いつきとかなんでしょ』

話の内容と一緒にいる人がちょっと、いや大分問題あるけど。しかも、人のほうにカウントしたらいけないであろう人もいるし。でも、こういうくだらないやり取りが、きっと友だちとしては楽しいんだと思う。

鏡夜部長も、食べる量には意外すぎて驚いてしまったが、花子さんと何気ない会話を楽しんでいるようだ。たまにはこういうのもいいかも。


パリン。

『きゃっ!』


――え、何?

短い悲鳴に思わず頭を上げる。

『ウソ、最悪……』

 花子さんの視線をたどると、たこやきパンが丸ごと床で潰れてしまっていた。割れたコップからこぼれた水でパンはすっかり汚れてしまっている。

彼女は椅子から立ち上がり、床をしばらく見つめていた。

「どうした? 平気か?」

部長はしゃがんで割れたコップを回収しようとしている。しかし唇をきつく噛み締めた彼女は、何も言葉を発そうとはしなかった。

なぜか、わからないけれど。

私はそれをじっと眺めているわけにはいかなかった。

「あの。よかったら私のやつ、ちょっと食べますか?」

『え?』

「口つけてないほう、半分、よかったら」

 私が立ち上がってパンを半分に割ると、彼女はすぐにはそれを受け取ろうとはしなかった。白い手は、何かに迷うように震える。

パンを差し出す私の手もまた、かすかに震えていた。でも、それは花子さんが怖い故ではなかった。そんな気がした。

最終的に、花子さんはただ、黙って頷きながらそれを手に取ったのだった。

「……じゃあ私、もっとふきん取ってきますね」

立ち去ると、私を呼ぶ声が聞こえたような気がした。しかしそれは振り返る暇も与えることなく、周囲の騒音に溶けていった。

『あの子、何?』

花子の唐突な投げかけに、鏡夜は床から顔を上げた。

「何とは? あれはうちの部の雑用だが」

『そういうことじゃないわよ』

彼の長い睫毛がぱちぱちと動く。

『なんで、アタシなんかに……』

 鏡夜は彼女の口からかすかにこぼれた言葉を、見逃しはしなかった。

こいつは、一体何を? 

『どうしたのその怪我』

花子は鏡夜の人差し指のほうをじっ、と見つめていた。見ると、指の先端から出血している。痛みがないので気がつかなかった。傷はそこまで大きなものではなかったが、赤い雫が傷から滴り落ちそうになっている。

「ああ、きっと破片で切ったんだろうな。なに、気にすることはない」

血を舌でひと舐めする彼は、少しだけ顔をしかめている。

花子は、驚愕した。

 鏡夜が傷を舐めたとたん、傷が、裂けた皮膚と皮膚が、まるで何事もなかったかのようにくっついていくではないか。人間は自分たちとは違って、一度体が傷ついたらなかなか治らないのは知っている。場合によっては死ぬこともあるという事まで。

言葉が出ない。

 



 結局、昼休みからずっと考えてはいたものの花子さんが言おうとしていることが何だったのかは、わからなかった。

 私は掃除当番で使った雑巾をしぼりながらぼんやりと考え事をしているところだった。そういえば自分のお昼を分けたから、少しお腹が空いてしまったかもしれない。普段からすごく食べるほうではないのだが、今日は何だか胸とお腹のあたりがぽっかりと空になったような心地がしてたまらない。

 濡れて赤くなった手のひらを見つめる。

 どうしてだろう。あのとき、私の手が勝手に動いたのは。

花子さんに同情したわけじゃない、とは思う。それでも……。


 誰もいない水道に、たったひとつ息を吐く音がこだました。

外から揃った掛け声が聞こえてくる。ちょうど窓から覗くと、水泳部員がプールの周辺でストレッチをしているところだった。ご苦労様です。私も早く教室に戻ろう。

とバケツに雑巾を突っ込んだとき。

「ひっ!」

水道の壁に貼り付けただけのような薄い鏡に、赤い文字が現れた。

――悠。

水垢で汚れている表面に、見覚えのある筆跡。

私は、慌ててポケットを探った。

『気づいてくれたのね』

 こんにちは。驚かさないでくださいよ、もう。

レンズ越しに浮かび上がったのは、花子さんだった。

でもどういうわけか、彼女はずっと下を向いたままだ。

『今、ちょっといい?』

「まぁ」

掃除中だが、話すぶんには問題ないし、まぁいいだろう。私は雑巾しか入っていないバケツを持ち上げてから花子さんのほうに振り返った。

『さっきはその、ありがとう』

心外だった。

花子さんの口から私に向けて、そんな言葉が出てくるなんて。いや、そこまでひどい人……いや妖怪さんではないのは何となくは分かっていたけれど、驚きのあまり私の手はすっかり止まっていた。

でも、あれは。

「当たり前のことをしたまでです」

『当たり前なの? 人間にとっては、あれが?』

「はい……」

 人が困っていたら、悲しい顔をしていたら助け合う。それが当たり前だ。少なくとも私はそう生きてきたからだ。まさに当たり前という言葉自体に沿うように。

でも、さっきのはきっと、今までとはわけが違う。

『そうなの。あんなことされたことなくてさ』

花子さんはまたうつむいたと思えば、浮かぶ身体をくるりと後ろに向けた。

『ねぇなんでアタシ高校生の姿してるかわかる?』

突然ぽつり、と投げられた問い。

そういえば最初に会ったとき、部長もそんな事を言っていた。どうしてだろう。

「たまたま、ですか?」

『いえ、あんたたちの言う花子さんって、実はどこの学校にもいるのよ。小学校だろうが中学校だろうが高校だろうが、そこに合った姿の花子さんは勝手に創り上げられるわけ』

へぇ、つまり、花子さんはどこにでも現れて、どの学校にもいると。

『でも……高校生にもなってみんな、花子さんなんてバカバカしくて呼ぶ奴なんかいないでしょ。アタシに構うヤツなんか誰もいないの』

「友だちが欲しいって言ってたのって」

『ええ、でも、いつも素直に言えないのよね』

 髪を耳にかける仕草をしながら、冷笑する彼女。薄い夕焼けの色に溶けそうな白い顔はいつにも増して柔らかいような気がした。

 小学生のころは、花子さんの噂なんて普通にあったものだ。というか、実際に見たとか言ったクラスメイトすらいた。児童書にだっておかっぱで赤いスカートで怖い目をした女の子のイラストで描かれている。それを皆で怖がって、うちの小学校にもいるかもしれないと盛り上がったのだ。

 それが、時間が経てば、くだらないだとか非科学的だとか言って、嘘みたいに皆きれいに忘れていく。

 彼女は一体、ここにいてそれに耐えられたのだろうか。

かつて私に投げかけられた言葉たちが、胸に絡まって離れない。


――あんたのせいで!

――俺たちが勝てなかったのはお前のせいだ!


 ぱちゃり。

蛇口に纏わりついた水が、音を立ててシンクの上に落ちた音がした。

「……同じだ」

 自分の口から改めて言うのはとてもつらかったけれど、私は目の前の人ならざる彼女に、告げなければならなかったものがあった。

 私にも、そんな頃があったっけ。


 それからというもの、花子さんと私は何度も交流を深めた。

会うのは決まって放課後、私が部活に行く前。彼女はいつも私に悩んでいることがあったら打ち明けてくれた。それに、実にくだらない話もした。

『悠はアタシと気が合いそうね』

「そうかな」

水道の窓の外を見つめながら、花子さんは言った。

『あんた妖怪になれるんじゃない?』

「な、ならないから!」

 ニヤリと笑う彼女の顔を見て、ついつられて顔が緩む。

 私たちの会話からは何というか、かつて漂っていたよそよそしさが消えていた。もう敬語はよしてよ、との花子さんからの要望があったからだ。

だけど不思議と、その要望があってもなくても、こうなっていたとは思う。

『でもあんた、前聞いたやつ、あんま引きずらないほうがいいわよ? メンタルがマジでガラス並なんだし』

――うっ、図星ですけど。

「でも、花子さんも、なにかあったら言ってね。……変な部活だけどさ」

『まぁ、そうね。そうするわ、悠』

――あ、部活が変なことは否定しないんだ。

 いつも花子さんはどこか寂しいような笑い方をした。でも、嬉しいという気持ちが伝わってきた。

私に出来ることだってきっとある。

その証と言ってしまえば何だが、別れ際、彼女が決まって言っていた言葉がこうだ。


アタシとあんた、似てるわね。



「ほう? あいつがそんなことを」

 その後、部室に行くとボロソファに仰向けになっている鏡夜部長がいた。彼は口に可愛らしいクッキーのかけらを咥えながら、私の話に相槌を打っている。

――できれば掃除が大変なのでちゃんと座って食べてください、お願いします。

「あの人、けっこうキツそうだったけど実際そんな事はなかったみたいだね。花子さんなんて言うからビビったよ」

 蜜弥子先輩はくつろぐ彼を気にせず、立ちながら猫のマグカップからいちごオレをちびちび飲んでいる。彼女こそが、テーブルの皿の上に山盛りにされたクッキーを作った張本人だ。実は今日は、家庭科室でも借りてお菓子を花子さんと作ろうという日だったが、そんな事は我が部の権力では不可能だったので、蜜弥子先輩が自宅から作って持って来たものを渡すことになった。

 基本の丸い形に猫型のもの。試作品というのが信じられないほどだった。ちなみに花子さんに渡すぶんはすでに可愛らしいラッピングが施されていた。

しかしクッキーにいちごオレとはくどい組み合わせをしたものだ。一応隣に一リットルボトルの緑茶が置かれているが、私と部長が飲んでいるおかげでそちらの方が明らかに減っている。

「悠は気が合うわね、って言われました」

「それは良かったじゃないか。やっといい相手が出来たな」

 あの、今までずっと友だちいなかったみたいな言い方やめてください。

部長はクッキーを何回か咀嚼してから飲み込むと、ようやく姿勢を直して座った。

「だが、ひとつ良いだろうか?」

「なんでしょうか」

 彼はいきなり、人差し指だけをまっすぐ立ててから、また皿の上のクッキーの山から一枚すくい取った。

「花子さんという妖怪についてはおおむね理解した。親交を深められているのは大変喜ばしい。だがな、お前には忠告しておきたい事がある」

青い瞳はしばらくクッキーを眺めていた。ほんの数秒、何も言葉にせず人差し指と中指の間に挟まれたそれをくるくる回したり、裏から見てみたりしている。

「お前は人で向こうは人ならざる者。その事を忘れるなよ」

ガリッ。

彼の口に運ばれた瞬間、それはいともたやすく砕かれた。

 部長の手には半分になったクッキーが取り残されている。美しい円形をしていたはずなのに、もうその姿は残ってはいなかった。

どういう事だろう。

「さて、では待ち合わせ場所に急ごうではないか。行くぞ」

 鏡夜部長は何事もなかったように、残り半分を口の中に放り投げると脱いでいたブレザーに袖を通した。と同時に蜜弥子先輩もマグカップを飲み干してからドアの方へ向かう。

 今日、花子さんと待ち合わせをしているという場所は教室棟の三階の例の女子トイレの前だった。時間については放課後になってから当番の見回りが来る十七半時頃までというアバウトな約束だったが、彼女は約束通りそこにいた。

『待ってたわよ』

トイレの前にフワフワと浮かぶ彼女は、私たちを気遣ってか、何度か辺りを見回してからこちらに向かってきた。

「ああ、花子さん。今日は急な予定変更、申し訳ない」

『まー、許してやるわよ。……なんて冗談よ。会えるだけでもじゅうぶん嬉しいわ』

「本当は一緒に作りたかったんだけど、ごめんね。うちの部長が権力なくて」

赤いリボンが結ばれた透明なラッピングを蜜弥子先輩が渡した。その間、私は鏡夜部長が目をそらしたのを見逃さなかった。一応気にしてるんだ。

 花子さんは渡されたクッキーをしばらく眺めると、少しだけ首をかしげた。

『ありがと。でもいいの? あんたたちの分は?』

「それなら大丈夫。部室に試作がいっぱいあるから……」

「悠ちゃんってば、いらないとか言っておいていっぱい食べてたんだよ? あたしのクッキーはややっぱり世界一ってことにゃん!」

 どうだ、と胸を張る蜜弥子先輩を必死で否定する。

「いっぱいって言うほど食べてないですってば! 一番食べてたのは部長です!」

「いいだろ部長なんだから!」

「な、そういう問題じゃないですよ!」

 そんなやり取りをしていると、クスクスと小さく笑う声が聞こえた。

『悠って、いつも部活のこと変とか言ってるくせに、けっこう仲がいいんじゃないの』

「あ……」

彼女は口に手を当てながら悠のほうを見て、軽くウインクをしてみせた。

 この部活は確かにいる人はおかしいし、部長は厚かましくてぶっ飛んでて、人の話聞かないし、あんな汚くて暗い地下で活動してるし、思えばおかしな事だらけだ。でも、こういうくだらない事で笑って、それぞれ面白おかしいとろがあって、と考えれば……。

「でもあたし、ちゃんとこの目で見たにゃん! 師匠ばっかり数が少ない猫の形のほう食べてたの!」

「食べていない、あれはお前が食べていなかったから嫌いなのかと思って片付けてやっていただけだ!」

「ああ、やっぱり食べてたんだ! もう、猫のやつはかわいくて食べるのもったいないから取っておいただけなのに!」

……やっぱりだめだ、この人たち。いつの間にか別の話してるし。花子さんすごい笑ってるし。

『やっぱりあんたたち面白い。……悠もね』

冷たいものに手をつかまれた気がして、振り向いた。見ると花子さんのうっすらと白い両手が、私の右手を絡めとるように掴んでいた。

『ねぇ、悠、でもアタシ、悠がやっぱり一番だと思ってる』

「え、なに急に?」

『わからないの?……ちょっと聞いて』

 横でくだらない言い合いをしている二人には決して聞こえなかっただろう。

それはとある「お願い」だった。


***


「なんで……」

 ツインテールをほどいたばかりの蜜弥子は畳の上にぺたん、と座りこんだ。その片手には黒猫柄ケースのスマートフォン。

「どうだ、あいつは出たか?」

部屋を隔てるカーテンから顔をのぞかせた人物に、蜜弥子はめいっぱい首を振る。

「そうか。電話番号が間違っているのか?」

「ううん師匠、それはないよ」

 紺色の浴衣をまとった鏡夜は蜜弥子の部屋に入ると横から画面をまじまじと観察した。

 彼女が電話している先は、入部届に書かれていた電話番号そのままだ。しかし、おかしなことに悠は先ほどから一向に出ない。

「知らない番号だから出ないのかもしれんな」

あいつならあり得るぞ、と鏡夜はその場に胡座をかいた。

「でも、もう十回はかけてるよ? 知らない番号だからってこんなに出ないなんておかしいよ!」

いくら彼らが頭を抱えても、悠からの着信などない。

「雨月君……」



 スマートフォンがブレザーのポケットの中で何度も振動しているのに気がつき、暗闇の中、私は画面を確認した。知らない番号から十回ほど電話が来ていた。

「誰からだろう。まぁだいたいわかるけど」

決め手は簡単なことで、電話番号の末尾が「2222」だったからだ。

「にゃんにゃんにゃんにゃん」。なんて覚えやすい番号だろう。

でも、申し訳ないが今の私は誰からの電話でも取ることが出来ない。電話をよこした主の予想が当たっているのなら、尚更。

「ごめんなさい、先輩」

先輩に、部長にも迷惑をかけないために一人で行かなくちゃ。

非通知電話を拒否し、眼鏡の位置を少し調整してからまた、夜闇に支配された階段を登る。指定された時間まであと五分。

私はここに、約束を果たすためにやってきた。


『アタシ、悠に話したいことがあるの。みんなには絶対に内緒の話。仲良しの悠なら、守ってくれるよね?』


 今日の二十時に三階の女子トイレに来てほしい。

花子さんはただそう言って、目の前から消えていった。あの二人の口論がクッキーとビスケットの違いがどうのという内容に変わっていた時には、彼女はいなかったと思う。二人は、いつのまにか消えていた花子さんの存在に首をかしげていた。

それよりも、学校の校舎に案外簡単に忍びこむことに成功してしまったことに一番驚いている。この学園では普段から、早朝は五時、夜は二十一時までなら図書室で自習をして良い決まりになっているそうだ。教室棟の玄関はすでに閉まっているが、図書室のある旧校舎は出入りが出来るようになっていた。言えば旧校舎から渡り廊下を経由する方法だと教室棟に行けてしまうのだ。花子さんはそれを知っていたのだろうか、あのいつもの場所に私を呼んだ。

「あの、いる?」

 私は一番奥の個室をノックした。

はじめて私が二人とここに来た時を思い出す。もちろん夜の学校のトイレが怖いことは全く変わらずにいるが、なぜか以前よりも震え上がるような恐怖心はなかった。

ギイ、とドアの開いた音がした。そこにいたのは、予想通りの存在だった。

『悠、来てくれたのね。ビビりなあんたのことだから心配してたけど、来てくれてよかったわ』

「いやいや、ビビりは余計だし」

一番奥の窓から差し込む月の明かりが照らす白い顔。唇に微笑みをたたえたまま、ふよふよと浮遊する花子さんは私を抱擁した。その体温の冷たさに、妖怪であることを改めて思い知らされる。

「もう、恥ずかしいんだから」

こうやって誰かに抱きしめられたり、密着されたりするのはあまり慣れていないから、ちょっぴりくすぐったいような気がした。

『どうしてよ。別に誰もいないんだからいいじゃない』

「うん。でも、こんな時間にどうしたの?」

私の言葉とともに、優しく離れた花子さんは微かな声で問いかけた。

『ねぇ、アタシたち、親友だよね?』

――?

真っ黒な瞳はずっとこちらを見つめている。


親友?


私は少しの空白の後、答えた。

「え? うん……そうだね」

だがそれは彼女の求めていた答えとは違ったようで、目を背ける。

何か悪いことを言ってしまったか、急に心苦しい気持ちでいっぱいになってしまった。

『……なんで答えに詰まるの?』

なんで、と言われても。

理由を告げるのなら、私には友人や親友というものがよくわからないからだ。私と花子さんには部長が立てた作戦のとおり、確かに友情のようなものが確立していた。だけど、別の角度で見てみれば悩みを聞いてもらっているだけの関係とも言える。果たしてそれは友情なのか。

「ごめん、そういうのよくわからなくて」

『どうして、ねぇ、どうして?』

花子さんは、両手をわなわなと震わせていた。

『アタシは悠のことすごく大切に思ってるのに。ひとりぼっちだったアタシに優しくしてくれたのに、どうして素直に親友だって言ってくれないの?』

「だから、私は……!」

『あんたの目にはいつも迷いがあった。アタシといるときも、どこか自信がなさそうだった……!』

 知らなかった。花子さんがそう思っていたなんて。

『いいわよ。今からでも親友になりましょ?』

 言葉の意味を考える余裕もなく、花子さんの姿が、一瞬歪んだ。

口紅に縁取られた口が裂けんばかりの不気味な笑みを浮かべると、黒髪が一本一本逆立っていくのを見た。

 な。なにこれ。

彼女は、今まで見たことのないような恐ろしい表情で言った。

『悠、あんたもこっち側に来ればいいじゃない』

刹那。

花子さんのいる個室の床から、どす黒い影が放出された。

手のように蠢く影は辺りに広がる闇よりも黒く、私めがけて一気に覆い被さってきた。

声よりも先に足が逃げろ、と本能的に危機を告げる。

――まずい!

 私はトイレを抜け出し、考える間もなく階段を一気にかけ降りた。

三階、二階。一階まで降りてしまえば、出口はそう遠くはないはずだ。

急にどうしてしまったのだろう。

 私と花子さんは上手くやっていたと思っていた。親友だと思っていた。私の曖昧な言い方も悪かったとは思うが、一体花子さんはなにを想っているのか。

 私は、本当に自信のない目をしていたの?

走りながら少しずつ後ろを振り返ると、花子さんは大波のようになった黒い影とともに私を追いかけてきていた。

「ねぇ花子さん! 急にどうしたの?」

『前にアタシ、言ったわよね? 妖怪にならないかって。後ろ向きで心の弱いあんたなら、きっとすぐ大妖怪にだってなれるわ! ふふ、ふふふふ、あはははは!』


 嘲るような笑い声は、いつも話している時の楽しそうなものとは真逆だった。私のことをどんな手でも使って、妖怪の世界に引きずり込もうとしている。

体感したことのないような息苦しさ、それと恐怖のあまり目眩がした。

あの影に飲まれたら、絶対に生きてはいられない。

私は、一階に到達しようとしていた。

ひたすらに走る、走り抜ける。

死にたくない。


――ありがとう、悠。


花子さんにパンを分け与えたとき、そう言われたのをよく覚えている。そこではじめて、私は気がついた。

私があのとき、行動に出られたのはかわいそう、とか、そういう感情ではなかったのだ。

あれは、紛れもなく私の心の奥底からの、必死に友を思いやる気持ちだった。

自然と涙がこぼれる。

私の悩みをあんなに親身になって聞いてくれる人なんて、誰もいなかった。

今さら考えてもしょうがないが、もっと手段はあったのだろうか。もっと花子さんの寂しさに気がついてあげられる機会が、いつかあったのだろうか。


「――!」


 足が一瞬、浮かび上がったかのような気がしたのも束の間。

世界が逆回転した。

脇腹に向けて鈍い痛みが貫かれたかと思えば、ドサドサバサ、と私の体は階段を転げ落ちる。

痛い。足も、腕も、顔も、全身が焼け切ったみたいに痛くて、一階の床にうつ伏せに落下したときには、涙が滴っていた。幸い頭は打っていなかったが、全身にまったく力が入らないし、顔中が痛い。あ、鼻血とか出てたらどうしよう。

床には、部長からもらった眼鏡とブレザーのポケットから落ちたであろうスマートフォンが投げ出されていた。

 眼鏡は縁にある赤い飾りが凹んで、レンズが外れそうになってしまっている。必死で手を伸ばし、眼鏡をかけ直したそのとき、部長の言葉が脳裏をよぎった。

――お前は人であちらは人ならざる者。その事を忘れるなよ。

切れた唇が痛いのも構わず、私は必死になって口を開く。

「……ねぇ、最初から、こうするつもりだったの?」

『そうねぇ、そうかもね』

 いつのまにか回り込んできた彼女は、ただ、そこに立っていた。

 もしかして、トイレの女子たちを脅していたのは、私じゃなくてもよかったからなのかもしれない。黒い影はもはや、私を飲み込もうとしている。彼女が何も言ってくれないのが悲しくて、くやしい。

私が聞きたい。私たち、親友だったよね?

『あー、いた! くらえ、猫キーック!』

――は?

 ひゅん、と謎の物体が横切った。

猫だ。

その物体は、黒っぽいような、茶色っぽいような毛色をした猫だった。首に猫の形の飾りをつけて、尾が二又に分かれている。

でも、この飾り、どこかで見たような。

『こらー! トイレに人間を引きずり込むなんて外道な奴にゃん! あたしの爪の錆にしてやるにゃん!』

『ちょ、なにこいつ、やめなさいよ! 痛い、痛い!』

倒れた花子さんの顔の上で爪をたてる猫。やっぱ頭打ったのかな。猫が喋ってるよ。

「おい、そのへんにしておけ」

正体不明の猫に気を取られていると、カツン、という音とともに視界に洒落たローファーが飛び込んできた。

その姿は紛れもない、彼だった。

「部長……!」

「雨月君、無事か」

――いや、全然無事じゃないです。痛いです。

部長は私の背中に手をまわし、抱き起こしてくれた。部長の姿を見た瞬間、なぜか、先ほどとは違う意味の涙が出て来た。

「おっと、あまり頭を動かすなよ。打っているかもしれないからな」

わかりました。しかし、どうして部長と謎の猫さんがここに?

『師匠、こいつ許せないにゃん!』

「落ち着きたまえ猫屋君。雨月君が混乱しているぞ」

――はい、とっても混乱しています。

「あの、その猫さんって」

『どうも悠ちゃん! じゃじゃーん、実はあたし妖怪猫又だったの!』

「アホか。さらに混乱させるようなことを言うな!」

蜜弥子と名乗る猫又は、鏡夜部長にむんずと掴まれジタバタしている。

『あーあ、あんたらが来たらめんどくさいから呼ばなかったのにさ、何で来ちゃうのよ。まさかそこの部長だけかと思ってたら女の方もだったなんて。嫌ね』

隣で花子さんが起き上がった。

「雨月君に何をした」

『あら、別になにもしてないわよ? ただ、こっち側に引きずり込んでも怒らないコが欲しかっただけ!』

「貴様、最初からそれが狙いで……!」

 部長は今まで見たことがないくらいに声を張り上げていた。しかし花子さんは一ミリもそれに動じていない様子。

何から何までまったく意味がわからない。豹変した花子さん、蜜弥子先輩を名乗る猫又、妖怪、そして呼んだりしていないはずなのになぜか来た二人……。やっぱり、頭を打ったのだろうか。

『だいたい、おかしいと思ったのよねー。前に破片で怪我したときに傷がすぐに治ったの見ちゃってさ』

部長の肩に乗ってフー、フーと花子さんに威嚇を繰り返す蜜弥子先輩(?) を横目に、花子さんは部長を指さした。

『あんたも、人じゃないんでしょ』

――え?

部長はきつく顔をしかめた。しばらくの沈黙が、廊下に響き渡る。

部長が、人じゃない?

「……ふん」

彼は蜜弥子先輩に肩から降りるようにうながすと、胸元のリボン結びされたネクタイに手をかける。

あの、それって一体。


尋ねることも出来ず、スルリ、とネクタイが床に落ちた瞬間、絶句した。

 鏡夜部長の首には、切断された痕と、無数の縫い傷があった。傷痕はきつく縛り上げる帯のように、赤黒くぐるり、と白い喉元を囲んでいる。

 その時、意外というか、驚愕というか。変人呼ばわりされている部長とは別人と思うほど、彼は恐ろしい目つきをしていたのだ。

「お望みなら見せてやろう。人は人ならざる者に。――死して尚尽きぬ怨の炎。骸に刻まれたその痛み、受けてみるがよい」

彼が唱えると、あたりの空気が張りつめた。

その場に吹き飛ばされてしまいそうになるほどの旋風が巻き起こり、おそるおそる目を見開けば――


 大きな骨が、そこにはあった。

天井を突き破らんとするほど大きな骸骨、と言えばいいのだろうか。眼窩は深くくぼみ、中にあの瞳と同じ色の青い光が揺れている。理科室にある骨格標本ととても比べてはいけないような、白い骨は厳めしい雰囲気を放っていた。


 私はただ、まばたきもせずその恐ろしい骸骨の顔を見つめることしかできない。

たとえこの異形の者が、鏡夜部長だと知っていても。

『見たまえよ。これが俺のあるべき姿だ』

 頭上から聞こえたのはまぎれもない、彼の声だった。

猫屋 蜜弥子。髑髏ヶ城 鏡夜。

二人は、何者?

『やっぱりね。でも本物ははじめて見たかもー。ねぇ妖怪がしゃどくろさん?』

 花子さんはケタケタ、と笑った。

『いかにも。俺はがしゃどくろ、妖怪だ』

『あは、そういうこと! あんた『イケニエ』だったのね!』

 花子さんの足元から、ふたたび黒い影が飛び出した。

――一体、何が起きてるの?

すると、床に降り立った蜜弥子先輩が、ひざの傷のあたりを前足でつっついてきた。

『悠ちゃん、今まで黙っててごめんにゃん……怪我、大丈夫かにゃ?』

不思議だ。口は動かしていないのに先輩の声だけが聞こえる。

「はい。……あの、つかぬことをお聞きしますが、本当にあなたは蜜弥子先輩で、あの大きいのは部長なんですよね?」

『そうだよ。師匠はちょー強いからここは安心して任せるにゃん!』

 猫の姿だから細かくはわからないが、先輩が微笑みかけてくれたような気がした。

その強いという鏡夜部長はというと、大きな手で花子さんが放った影の塊を薙ぎ払った。

塊は跳ね返され、ズン、と彼女の足元へ被弾する。

『ち、ちょっとタンマ! 何すんのもう! 跳ね返すな!』

『貴様の方こそ何だ、生徒を怖がらせてはその一人を犠牲にしようとして許されるとでも思っているのか?』

『だって、アタシは悠のこと本当に好きだったし……!』

『ほざけ、雨月君は負傷しているではないか。友を傷つけて何が好きだった、だ!』

 薙ぎ払った手がそのまま、花子さんを廊下の向こうへ叩きつけた。

彼女は床へ落下し、激しくむせかえっているのが見える。

『げほ、ごほ、うっさいわね!』

 部長、ちょっとやりすぎじゃないですか?

『くそ……この学園に何十年もいるくせに誰からも見向きもされない上に年下のやつらばっかり注目浴びて! 悔しい気持ちが突然来たヤツになんてわかるもんか!』

――花子さん。

 そうだ。花子さんは私を追いつめて、こうやって傷つけた。私だって親友だと思っていたし、裏切られて悲しい想いをしたのは間違いようのない事実だ。それでも私の中には、まるで途中で絡まった糸のようにつっかかりがあった。

『どうして、どうして、人間の味方なんてするのよ!』

『ほう、では雨月君に聞こう』

 部長が大きな体を引きずりながら言った。

『お前は、本当に花子の親友か?』

つい、うつむいてしまった。

 傷つけられて悲しかった。つらかった。もうこんなのこりごりだ。

でも花子さんは最初こそは酷いことばっかり言っていたけど、私に感謝してくれたこともあったし、あんなにも真剣に悩みを聞いてくれて、共感までしてくれたのだ。

 私はひざが痛むのを必死に我慢して、立ち上がった。

「部長。花子さんは私に一人で学校に来いと言いました。そうしたら私のこと襲ってきて。でも、分かるんです。花子さんはずっと寂しい想いしてたから、こういう事したんだって……!」 

 静かな夜。その場にいる全員が私に耳を傾けていた。

「私は昔、自分の心が弱かったせいでクラス全員に迷惑をかけてしまったことがあるんです。発表会でピアノの伴奏を任されていたのに、緊張して舞台で私はなにもできなくて……。お前のせいだ、ってたくさん責められました。仲がいいと思ってた友だちにまで。それから私は自分に自信が持てなくなってしまって。でも、花子さんは『わかるわ、それ』って親身になって聞いてくれて、嬉しかった……」

アタシも下のやつらばっかりちやほやされて、アタシは責められてばかり。

昔の話をしたとき、彼女はそう言っていた。

「友だちを裏切って傷つけるような人は友だちじゃありません。私もそう思います。でも、花子さんは私といると、楽しそうな顔をしてくれました。……そうだよね?」

『悠……』

「私は人でもそうじゃなくても、関係ないと思います……!」

『でも、アタシはあんたを騙したわけだし、もっと悔しそうに泣いたりしなさいよ!』

彼女の鋭い瞳が私の心えぐるみたいだった。でもそれに負けず、私は首を振った。

「そんなことしない。だって、そんなの友達にすることじゃないから」

 すると、彼女は私のほうへふらふらと歩み寄ってきた。それに対して先輩と部長は一瞬ばかり警戒して私をかばおうとしたが、花子さんを包んでいたどず黒い影が消えていくのを見て、そのまま彼女を通した。

『……ふふ、アタシ、バカね。こんなに理解してくれる人がいるのに、悠を想うばかりで前が見えなくなって、結果悠を傷つけたなんて。アタシも妖怪だけど、あんたたちみたいな優しい妖怪もいるのね』

 花子さんが見上げる先にはがしゃどくろの部長、そして足元には猫又の先輩。それからまっすぐ私を見つめて、手をにぎってきた。彼女の擦りむいた手が痛々しかった。でも、その手は前よりちょっと、温かいような気がする。

『アタシなんかに優しくしてくれたの、最初はどうしてかわからなかった。でも、それは、あんたがどこまでも人間らしく、心優しいから。くやしいわ、悠。あんたはアタシよりずっと、いい人間だし、いい仲間がいるじゃない!』

声が震えているのがわかる。

それに、彼女の体がだんだんと薄くなって、消えかかっているのも。

 私は必死に首を横に振ることしかできなかった。

「ううん、花子さんは私のこと、はじめて心配してくれた親友には変わりないよ。あなたも大切な仲間だよ!」

『そう。でも、さっきのでちょっと無理しすぎちゃったみたい。……また会えたらいいわね』

最後に、彼女は言った。

信用されなくてもいい。これだけ伝えさせて、と。

 ふと、彼女の手が離れる。

『ごめんなさい。それと、ありがとう』

「花子さん!」

『あと、あいつに会ったら――』



 それから、彼女の声はもう、なにも聞こえなくなった。

「私たちは、親友だから……! 花子さん!」

何度その名を呼んでも、返事はない。

「お前は『儀式』を終わらせたんだ」

 振り向くと、いつものスラリと背の高い美男子の姿に戻った部長が立っていた。

彼はネクタイを結び直すと、ため息をついた。

「これで、もうきっとヤツはこの学園で悪さはしないだろうな。俺たちもここから出てしまえば問題はない」

私は力が抜けて、その場に座り込んでしまった。

足が痛いのもあったが、どこか私をつき動かしていた歯車のようなものが一気に外れてしまったようだった。

――でもこれで、よかったのかな。

「雨月君」

 彼は、座り込んでしまった私の肩を、優しく支えた。

「あいつはきっと、お前のことが本当に気に入っていたんだ。俺はそう思う」

「……はい」

頬の傷に涙がしみて、チクチクと痛む。

花子さんがいた場所には、見覚えのあるクッキーのラッピングが落ちていた。

 


「痛いの痛いの飛んでいけ! ふらいあうぇー!」

「いいいたい! むしろ痛いです!」

 ツインテール姿に戻った蜜弥子先輩は、私の頬にありったけの消毒液をぶちまけてから、大判の絆創膏を叩きつけるように貼った。

 私はというと、なぜか年甲斐もなく部長に背負われ、そしてなぜか学校の上の坂道をのぼったところにあるオンボロアパートの一室に連れ込まれた。聞いたところ、ここは、鏡夜部長と蜜弥子先輩の自宅らしい。壁と畳の床にはところどころカビが目立ち、部屋もとても小さい。それなのに一つの部屋をカーテンで二つに分けて、一緒に暮らしているそうな。あのまま学校にいるのは危険という部長の判断で、すぐそこだからと連れてこられた。

蜜弥子先輩は私のひざと足首の様子をもう一度確認すると、包帯を片付けた。ちなみに先輩は、わざわざ駅前のドラッグストアまで走って消毒液と絆創膏を買ってきてくれた。こんな時間な上に距離もあるのに、なんだか申し訳なかった。

「うん! これでたぶん平気にゃん。手当ては大げさかもしれないけど、怪我自体はそんなにひどくないよ」

「ありがとうございます。……ご心配おかけしました」

「ああ、まったくだ」

 背後から音もなく鏡夜部長が現れた。部長の持つお盆の上には小さな湯呑みが三つ乗っていて、あたたかい湯気とともに香る緑茶の香りが鼻をくすぐる。彼はいつのまに着替えたのだろう、紺の浴衣を着ていた。青い瞳に通った鼻筋という顔立ちからやや西洋風な印象が強かったが、艶やかな黒髪のせいか、和装も充分着こなしているように見える。その開いた首元には、幾重にも包帯が巻かれていた。

――そういえば、部長のあの首にある傷って。

 誰もが黙ってしまうほどのひどい傷。彼があんなものを抱えていたなんて知りもしなかっただけ、衝撃は強いものだった。

 鏡夜部長という人、いや妖怪だったわけだけども。彼はただの変人だと思えば、さっきみたいに怒りをあらわにする事もある。でも、すごく甘くて優しい事もあったりする。

 やっぱり彼がわからない。

 部長の首元をしばらく見つめていると、目の前のちゃぶ台に、やや乱暴に湯呑みが置かれた。

「どうして何十回も電話しているのに出なかった?」

 いつもより声が低いような気がする。やっぱり部長、怒っているのかな。

 部長はちゃぶ台を囲む蜜弥子先輩と私の間に座った。

「……だって言われたんですもん。悠だけで来てって。あ、そういえば電話してきたのってやっぱり蜜弥子先輩だったんですね」

「うん。でも、出てくれなかったけどね」

 やはりそうだったか。どうして私の電話番号を知っているのかは入部届に書いた記憶があるので大体想像できるが、ひとつ、不思議だった。

「あの、どうして私、電話に出てないのにお二人は助けに来てくれたんですか?」

 隣で表情ひとつ変えずにお茶をすする部長は、しばらくしてから湯呑みから口を離す。

「あの眼鏡に星型の飾りがついていたはずだ」

「え? ……ああ」


  私は眼鏡を取り出した。階段から落ちたときのせいでひどく歪んでしまっているが、赤い飾りは確かについている。

「それは俺たち専用の呼び出し鈴、と言えばわかるか?」

「あ、だから……」

電話じゃなくても連絡がついたわけか。ずいぶんと無駄に高性能な。

「やっぱりこれ、ただの変な眼鏡じゃなかったんですね」

「失礼な。それは妖怪の世界の特殊な眼鏡なんだ。まったく、今度修理に出してやるか」

 私は部長に壊れた眼鏡を手渡した。彼によれば損傷はそこまでひどくはないので、すぐに直せるそうだ。

そうだ。この人たち、妖怪だったんだ……。

人間の理解が及ばぬ存在。

 まだ目に焼きついて離れない、あの光景。猫又に、がしゃどくろ。

今こそ普通の人間の姿に戻ってはいるものの、ふとあの姿になると思うと、ゾッとした。いや、蜜弥子先輩はちょっとかわいかったけど。と思っていたら蜜弥子先輩はお茶が熱い、と文句をたれていた。

――猫舌……。

「うにゃー! 師匠、猫は熱いのがダメだからって何度も言ってるにゃん! このおじいちゃん妖怪め!」

「黙って飲むんだ」

「ムキ―! 師匠のけち!」

「これ以上言うと追い出すぞ」

「……すみません。それだけはやめてください」

 先輩の目が一瞬、猫目になったような気がした。それにツインテールが上に向いて逆立ったが、すぐにしおれたように元に戻ってしまう。

「ああ、そうだ。お前にも見られてしまったんだったな。そう、俺たちは人じゃない」

 よく知ってます。特にあなた。


「応間学園は創立百年という古い歴史のせいか、ああしてよく怪奇現象が起こるんだ。妖怪の巣窟となっているわけだな。しかしその原因となる存在は、人間には見えぬ」

「そー、そこで我らオカ研の出番にゃん! あたしたちなら妖怪が見える。だから学校で人間を困らせてる怪異を解決する! ね、簡単でしょ?」

「まぁ、説明には色々と物申したいことはあるが、非常にざっくり言ってしまえばその通りだな。妖怪であるがゆえ、妖怪に干渉できるわけだ」

――へぇ。そのおかげで、二人は眼鏡とかなしで花子さんが見えたってこと。

 まさか妖怪が本当にこの世に存在したなんて、今では何となく常識が染み込みつつあるが、信じられなかった。今までの出来事が夢であってほしいと願うが、花子さんの件がある限り、それには遅すぎた。

彼女は確かにそこにいた。私を好きだとも言ってくれた。それは夢じゃない。たとえレンズ越しに見ていたものだとしても、偽りようのない記憶なのだ。でも、彼女はきっともういない。

――私は、どうしたらいいんだろう。

 これからもこういう事があるかもしれないと思うと、怖くてかなわなくて、肩を震わせた。

 しかしすぐに、私の肩に手が添えられる。

「お前はもっと俺たちを頼れ」

「え……」

「人間が妖怪に恐怖心を抱くのは別に変なことではない。だがな、全部の妖怪がああやって悪いヤツではないと言っておこう。花子だって根まで腐りきったやつではなかっただろう?」

 部長はまだ不機嫌そうだった。でも、口元が少し微笑んでいるようにも見えた。

そうだ。花子さんが思っていたことは、きっと私も心のどこかで思っていたんだろう。友だちが欲しい、寂しい。それは、人間だって必ず抱く想い。

「もうひとつ。……俺は、この学園で起きたとある事件と人物を追っている」

 真面目な目つきをした彼は言う。

「人間の時間で言えば、かれこれ二十年以上も前の話だ。それがどうやら、俺の知り合いというか、顔見知りとかかわっているらしくてな、気がかりなので調べているのだ。しかし奴は変な儀式に――」

 事件。さらにこの部活というか、この人たちがわからなくなる。どうやら一筋縄ではいかないことに巻き込まれてしまったのだと、緑の水面に浮かぶ茶柱を見つめながら思ったのだった。

「おっと喋りすぎた。すまないな。ほら、茶が冷めるぞ」

 言われるがまま私はお茶に口をつけた。飲んだ瞬間、心まで温かくなる。

この人たちは、私のことを助けに来てくれたんだ。今だからわかる。すごく気になることはいっぱいあるけど、もうちょっと信じてもいいかな。

「俺たちは、仲間であり友人だろう?」

「はい。よろしくお願いします、先輩、……部長」



オカルト研究部 活動記録ノート

記録者・髑髏ヶ城 鏡夜(三年一組) 


今回、我々が対峙したのは「花子さん」という妖怪だった。彼女は学校の怪談では名の知れた妖怪だそうだ。新入部員の人間である雨月 悠が知っていたのだから、間違いはない。彼女は校内の三階の女子トイレで生徒を驚かすなどという悪さをしていた。それは彼女が友人を欲していたからと判明。しかし、雨月君がトイレに引きずり込まれそうになるという事件が発生した。それが真の目的だったと見る。

結果、彼女は身を引いたものの、新入部員を負傷させてしまった。雨月君の怪我の経過を観察するとともに、次回からはより安全面に留意して活動を行いたい。

なお、今回も「例の事件」との関連性はなかった。そちらも引き続き調査する。


追記  雨月君、眼鏡の修理が終わった。都合のいい時に取りに来たまえ。新機能も追加し大幅に「あっぷでえと」しておいたぞ。


一話・完


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