その先へ

nobuo

◇ ◇ ◇

「はあっはあっはあっ」


 さっきから聞こえるのは、自身の荒い息遣いと耳殻に当たる風の音だけ。ペダルを踏み続けている両脚は過度の疲労から痛みを訴えているし、早いスピードで打ち鳴らす心臓もとっくに限界を超えている。

 普段何気なく通行している駅までの道のりが、こんなにも長く感じるのは初めてだ。

 それでも俺は足を止めるわけにはいかない。アイツはきっと待っているはずだから。

 今日会わなければ、次はいつ会えるかわからない。

 今言わなければ、次はいつ伝えられるかわからない。

 だから俺はどんなに苦しくても、歯を食いしばって自転車をこぎ続ける。

 早く! 早く早く早く!

 俺たちがずっと言い続けていた言葉を、胸の内で何度も何度も繰り返して。



 *



 事の発端は夏合宿中に起きた。

 奇跡的にも俺たちは〇県の4×100ⅿR出場を勝ち得たというのに、流行病の渦中という時世のため、夏の大会が秋へと延期になってしまった。

 しかし俺たちは練習時間が増えたと好機に受け取り、日夜特訓に励んでいたが、そんなある日、練習中に家から電話があったとアイツは顧問に宿舎へと連れて行かれ、そのまま戻ってこなかった。

 何があったのかわからないまま合宿期間は過ぎ、夏休みが終わって二学期になってもアイツは姿を現さなかった。

 空っぽの靴箱。

 同じクラスでぽかりと空いたアイツの席。

 部室のロッカーはいつの間にかネームプレートが外されており、中もすでに片付けられていた。


「アイツ、退部したって」

「は?」


 一番仲が良い俺ですら知らなかったことを話し出したのは、我が強くてチームワークを乱すからと、リレーから外されて短距離に転向したヤツだ。

 昇降口で鉢合わせたソイツはそれだけを言い残し、先に外へと出て行った。

 俄かには信じられなかったが、疑う材料も持ちえない俺は、困惑と嫉妬でもやもやした気持ちを抱えて部活に出た。

 しかし情報の真偽はあっさりと解決した。なぜなら難しい表情の顧問の口から、さっき聞いたばかりの話を再び聞かされることとなったのだから。


森田もりたは事情があって退部した。よってリレーの第三走者には川本かわもとを入れる。大木おおき長谷部はせべ高嶋たかしま、わかったな」

「「「はい」」」


 納得しきれないながらも了承の返事をする。川本に不満があるわけではない。奴だって一緒に頑張っている仲間には違いないから。けれどずっと俺がバトンを繋ぐ相手はアイツ以外にはいないんだと、心のどこかで本当の俺が叫んでいる。

 解散し、それぞれが練習に戻る中、俺は顧問を追いかけ、しつこくお願いしてアイツの事情を教えてもらった。


「森田のお父さんの病気がわかって、東京の大学病院へ転院することになったんだ。その関係で森田はお祖父さんお祖母さんの家に預けられることになり、あちらの学校へ転校するそうだ」


 顧問もとても残念そうな顔で話し、最後にアイツの分も大会では良い成績を出せと励ましの言葉を残して去っていった。


「……」


 子供の自分たちではどうしようもない理由に、俺はぎゅっとこぶしを握り締める以外何もできなかった。



 *



———カンカンカンカン…


「はあ…っ、はあ…っ」


 急いた気持ちを嘲笑うように遮断機が行く手を遮る。この踏切を過ぎれば駅まではもうそう遠くないのに、この待ち時間が腹立たしい。

 俺は苛立ちを払い除けるように額から顳顬こめかみを伝って顎へと流れた汗を、ジャージの袖で乱暴に拭った。

 あがった息を整えながら頭上を見上げると、青く澄んだ空には取り残されたように白い月があった。


(俺みたいだ…)


 夜の星々において行かれ、一人ぼっちの月。

 実際には大勢の部員仲間の中から出て行かなければならないアイツの方があの月みたいなのかもしれないが、俺の方がアイツにおいて行かれる気がしている。

 昨夜LINEに、ずっと既読無視だったアイツから久しぶりに連絡があった。

 漸く本人から知らされたアイツの家の事情や、大会に向けてのエール。顧問が言った通りアイツも「おれの分も頑張ってくれ」と書かれていたけれど、これまで一緒に頑張ってきた俺には、アイツの悔しいさが痛いほどに伝わってきた。

 そしてさっき部活に向かう途中で、LINEにアイツからのメールが入っていることに気が付いた。


【今までありがとう。じゃあな!】


 それを目にした途端、反射的に飛び出してきたが、アイツが駅にいる確信があってのものではない。ただ…ただ居ても立ってもいられず、自転車に跨り我武者羅にペダルをこいでいた。

 ガタンガタンと電車が通り過ぎて遮断機が上がると、再び俺は自転車を走らせる。目指す駅は本当にすぐ目の前で、俺はホームにアイツの姿を探しながら進んでいた。


「あ」


 遠目にも間違えるはずのない後ろ姿を捉えたのと、前輪が縁石に乗り上げたのはほぼ同時だった。

 ぐらつく視界のまま派手に転んだが、俺は自転車を放り出すように飛び降りると全力で走りだし、駅構内を囲むフェンスにしがみ付いてアイツの名前を力いっぱい叫んだ。

 平日の昼間なのが幸いしたのか、人がまばらなホームに俺の声が響き渡り、振り返ったアイツは驚いた顔で俺を見る。

 俺と同じくらい日焼けしたアイツの顔が、くしゃりと歪められた。


「お前の分なんて、俺、頑張らねーからな! お前が向こうで頑張って、どこかの大会でまた絶対会おうぜー!」


 一瞬丸くなった目がぎゅっと閉じられ、何度も何度も頷いている。

 アイツが袖で目元を拭い、不細工な笑顔で大きく手を振った…と同時に電車がホームへ滑り込んできた。

 電車がホームを後にすると既にアイツの姿もなかったけれど、俺の心は満ち足りていた。

 アイツも俺と同じ気持ちだったことが、あの時の表情でわかったから。


 俺たちはこれからもチームメイトだ。同じトラックを走れなくても、バトンを渡すことができなくても、前に向かって走り続けることに変わりはない。

 そうさ。俺たちのゴールはテープではなく、その先に待つ未来なのだから。





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