その男 太腥
来星馬玲
~前編~ ユェンとの邂逅
薄暮に染め上げられた農園の隅の丸太の上に一人の男が腰を下ろしたまま、赤と青みがかった空が連なる黄昏をぼんやりと眺めていた。夕日に照らし出された男の影が、座っている丸太の後ろに長く伸びている。
男の名前は
今年で齢三十。今となっては度々雑務などをこなしながらも、世間からは冷たい目で見られる半ば物乞いのような生活を送っていた。
太腥の近くでは、今日一日の仕事を終えた農民たちの帰路に就く姿が散見される。時折、この様な時節に働きもしないで、一日中座っている太腥に対する冷たい視線が向けられたが、そういった境遇に慣れている太腥は気にしていなかった。
牛車を引く牛の鳴き声が夕闇に木霊した。そろそろ野宿する場所でも探しに行こうかな――太腥は牛の嘶きを聞きながら、そう考えていた。
誰かの駆けてくる足音が近づいてきた。民家へ帰る子供のものだろうかと思いながら、太腥はその足音を聞き流していた。
「おじさん。なあにしているの」
背後から声をかけられ、太腥は思わず丸太の前に転がり落ちそうになった。振り返って見ると、そこには四、五歳くらいと思しき幼女の姿があった。
おそらく、近隣に住む農家の娘であろう。健康的な小麦色の肌をしており、首のあたりまで伸びている、黄砂のついた黒髪が夕日を浴びて爛々と輝いて見えた。土埃で汚れた麻の服から覗ける細いながらも引き締まった両腕と、固まった泥の付着した両足が、その幼女は貧しくても若い活力に満ちていることを物語っていた。
「なんにもしていない。ただ、働くみんなをこうやって眺めているんだよ」
太腥はぶっきらぼうに言った。幼女は暫しの間きょとんとした様子で太腥を見つめていたが、やがて口を開いた。
「あのね、おじさんは凄く強い人たちがいるお山から降りてきたって、お父さんが言ってたの。わたし、ずっと前から気になっていたんだけど、おじさんってそんなにすごい人なのかな」
今まで自分の噂話など気にしたことの無い太腥であったが、改めて無垢な幼女の口から言われると、何だか少し、申し訳ない気がしてきた。
「おじさんの周りには凄い人がたくさんいたよ。おじさんもそんな人たちの中で頑張った。でも、全然駄目だったんだ。だから、こんなところでのんびり働くみんなや夕日を眺めているんだ」
これで幼女の自分に対する興味が失せてくれたらと、太腥は考えていた。ところが、幼女はまだ納得していないという風でなおも太腥に話しかけてきた。
「でも、おじさんもいっぱい、いっぱい頑張ってきたんだよね。だったら、何かわたしたちのできないこともたくさん出来るよね」
太腥は、一体自分のどこに興味を持っているのかと、訝し気に幼女を見つめた。
「おじさんにできるのは、誰の役にも立たない、つまらないことだけだよ」
「やっぱり、何かできるんだぁ」
幼女が澄んだ黒い瞳を輝かせ、正面から真っ直ぐこちらを見たので、太腥は一瞬ぎょっとなって慌てた。太腥は改めて幼女の瞳をのぞき込むと、夢と期待が輝く瞳の眩しさに、一瞬めまいを覚えた。
「大したことはできないよ……」
そう呟く太腥であったが、この無垢な女の子に自分ができる程度のことはしてやろうか、という気になっていた。
「おじさんの気の技。見てみたいのかい」
「うん。見たい見たい」
幼女は待ってましたとばかりにはしゃぎ出し、
「そんなに言うのなら……あとになって、がっかりしても、知らないよ」
太腥は丸太から腰を上げ、大地を強く踏みしめた。刹那の間、瞼を強く閉じたまま天を仰ぎ、両目を大きく開いた。
青と黒に順々に浸食されていく紅の天空に、太腥は己の意識する形を投じた。それは農場の土と風に運ばれてくる黄砂の入り混じった埃っぽい空気をかき混ぜ、徐々に天空へと昇っていく。日の光に満ちた世界と、月の浮かぶ闇の世界を結ぶ、一筋の青白い線が投影される。太腥はその線に向かって、己の気を集中させていった。
太腥の意識する形状を備えたものが天に焼きつけられた。それは抑圧から解放されたことで伸び伸びと全身を伸ばし、天空を飛び回る。太腥は己の考えている竜の造形を天空に現出させたのだ。
「わあ。凄い凄い。竜がお空を飛んでいる」
幼女の発した言葉に、太腥は驚いた。太腥は、傍らにいる女の子が自分と同じものを見るとは思っていなかったからである。
現に、まだ周囲を歩いている他の農民たちは天を舞う竜の姿に気づいていない様子であった。竜は空を縦横無尽に飛び回っているのだから、それに対する関心を一切示さない人々は、おそらく竜の姿が見えていないのであろう。
太腥は自分と感覚を共有する女の子が、自分と一緒になって天を舞う竜の雄姿に感動しているという事実が、かつてないほどに嬉しかった。もっとこの娘と自分の喜びを分かち合いたい。いつしか、そう願っていた。
「君にも見えるんだね。ぼくの創造した竜の姿が……」
太腥は涙を流していた。
幼女は周りにいる他の農民たちの方を見ながら言った。
「みんなには見えないのかなあ。あんなにおっきな竜が飛んでいるのに」
幼女の疑問はもっともであったが、太腥は一つの考えに行き当たっていた。
おそらく、自分が思い浮かべたものを意識して見ようとしているか、自分が意図的に見せようとしている相手にしか、あの竜は見えないのだろう。竜は気の力で生み出した幻覚に過ぎない。幼女は、本人が知らないうちに、太腥の気に感化された幼女自身の持つ気によって創造された竜の姿を見ているのかもしれない。
夕闇が深まり、光が遠のいていった。それに伴い、竜は己の形を維持できなくなり、闇の中に霞んでいき、崩れるようにして消えていった。太腥は竜が消えていく瞬間、竜の悲し気な咆哮を聞いた様な気がした。
「竜さん、いなくなる前に鳴いていたね。ちょっと寂しそうだったな」
幼女の言葉に、太腥ははっとなる。幼女は竜の姿だけでなく、その声まで太腥と共有していたのだ。
「もう暗くなっちゃったね。……わたし、そろそろ帰らないと」
幼女はとても名残惜しそうであった。太腥とて同じ気持ちである。
「おじさん、今日はありがとう。お父さんが心配するから、もう帰るね」
「ああ。ぼくもお嬢ちゃんと話せて良かったよ」
それから、太腥は気になっていたことを尋ねた。
「ところで、お嬢ちゃんの名前は何というのかな」
「わたし、ユェンって言うの。リーユェン」
「ユェンちゃんか……」
ユエと名乗った幼女は、傍らに落ちていた朽ちた木の棒で、地面に字を書いて見せた。
「おじさんは。お名前、何ていうの」
「ああ、ぼくはねぇ」
太腥もまた、自分の名前をユェンに教えた。ユェンは大層喜んでいる風であった。
「これでわたしとおじさん、お友だちだね」
「ああ。そうだねえ」
そういう太腥は、今まで感じたことの無い幸せな気持ちを噛み締めていた。
「じゃあね、おじさん。また会おうね」
「ああ。また、ね」
遠ざかっていくユェンは幾度も太腥のいる方へ振り返り、大きく手を振っていた。その度に太腥は可愛い友だちに向かって手を振り返した。やがて、薄暮の中の幼女は太腥から見えないところまで離れていき、日の光の失われた、星明かりの散りばめられた夜へと沈んでいった。
太腥はユェンが見えなくなっても暫くの間彼女のいた方を向いていたが、軽く深呼吸をすると、背を向けると、ゆっくりとした歩みで人里を離れていった。
今日はどこで野宿するかな――それが今の太腥の関心事であった。
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