天見上げ 牽制し合う 秋時雨
空木 種
天見上げ 牽制し合う 秋時雨
土曜日の午前中。春子は、ベランダから手を伸ばし、天を見上げた。
「やだ、雨降ってる」
「バスで、行けば」
修平は、広げた新聞紙の上で爪を切っていた。パチ、と足の爪を切る音が鳴る。
「でもさっきも降ってて、一瞬止んだのよ」
春子は、サンダルを脱ぎ、部屋に上がった。ばたん、と窓をしめきり、鍵をあげる。
『雨は次第に強まり、夕方には大雨になるでしょう』
テレビが、言った。
「ほら」
修平は、春子に視線をうつした。
「大丈夫よ、天気予報なんて、所詮は予報なんだから」
春子は、さえずるようにそう言って、台所へと戻った。
午後五時頃。修平が、勉強机に向かっていると、窓越しに、ザアァという音が聞こえてきた。シャーペンをとめて外を見ると、景色が白く濁るほどの大雨が、激しく降り注いでいた。
修平は、時計を見た。そろそろ、春子が職場から帰ってくる頃だろうか。
玄関の方でドアの開く音がして、雨音がより鮮明に聞こえてきた。
修平は、椅子から立ち上がり、洗面所にかけてある白いバスタオルを持って、春子を出向いた。
「あー、やられた」
春子は、玄関でレインコートを脱ぎながら、そう嘆いた。ガシャガシャとレインコートの折れる音が、玄関に響く。
「だから、バスで行けばって」
「バスで行って、雨が降らなかったら、後悔するでしょ」
春子は、バスタオルを受け取り、顔とズボンをかるくふいた。そのあとバスタオルを玄関に広げ、その上に濡れた鞄をぼん、と置く。
「書類とか大丈夫なの」
「ちゃんとビニール袋の中に入れてきたわよ」
春子は言いながら、鞄の中から、中に書類の入った透明なビニール袋を二、三個取り出した。
「お風呂、沸かしといたから」
修平は言って、自室に戻った。
勉強机につくと、本棚の上に置いてある、家族写真が目に入った。みかん畑を背景に、父は春子の肩に腕をまわし、もう片方の手は、黄色い帽子をかぶった修平と繋がれていた。背の低い修平は、眩しそうに顔をしかめてこちらを見ている。その横で、父と母は、にっこりと笑みを浮かべていた。
十年前の、八月下旬。
わずかに開けられた網戸から、雨の音が室内に入り込んできていた。その雨音を聞きながら、修平は床に色鉛筆を広げて、絵を描いていた。
電話が、鳴った。
「おかあさん」
修平が叫ぶと、昼食の洗い物をしていた春子が、「はい、はい」と言いながら、台所から出てきた。濡れたゴム手袋をエプロンで軽く拭い、受話器を取る。
「はい、もしもし岩井です」
「はい」
「ええ」
「はい」
春子の相槌を、修平はじっと聞いていた。
「ええ」
「わかりました。これから伺います」
春子は、そう言って、受話器を置いた。
「どうしたの」
修平が聞くと、春子はゴム手袋を外しながら、振り返った。
「修平、玄関で長靴はいて待ってなさい」
数分後には、二人はバスの中にいた。修平は窓側に座り、隣の車線にならぶ赤いブレーキランプの光を眺めていた。窓には無数の水滴がついていて、赤い光を孕んで輝いている。
「バス、進まないね」
修平は、通路側に座っている春子の顔を見上げて言った。
「うん。そうね」
春子は首を伸ばして、バス正面の様子をうかがった。
雨の影響か、ひどい渋滞であった。ふと前の車のランプが消え、進みはじめたかと思っても、すぐにまた点灯し、バスもまたブレーキを踏む。そんなことを、ずっと繰り返していた。横の歩道に目をやると、さっきからほとんど前進していないことがわかる。傘を差した通行人が、悠々とバスを追い越していった。
「修平、次で降りるよ」
しばらくすると、しびれを切らした春子はそう言って、手すりに取り付けられた降車ボタンに手を伸ばした。
ピンポーン、と音が鳴り、『次、停まります』とアナウンスがはいった。
バス停に着くと、春子は修平の手を引いて、混んだ車内を縫うように進んだ。
春子が運賃を支払っている間に、修平はバスから降りて、傘をひらこうとした。そのとき、ぐっと後ろから身体を持ちあげられた。
「傘は差さなくて大丈夫。しっかり持ってなさい」
修平を抱えて春子は言うと、豪雨の中を、走り出した。
「おかあさん、なんで走ってるの」
降りかかってくる雨粒を顔に受けながら、修平は訊ねた。しかし、春子はこたえずに、ただ前を向いて走り続けた。一歩一歩の振動が、修平の身体を上下に揺らした。
聴覚を奪うような豪雨の音に、修平はだんだんと不安になってきた。泣き出しそうになるのを、必死にこらえる。
そのとき、あたり一面がまたたいて、
「おかあさん!」
修平は叫んで、春子の肩に顔を突っ伏した。
「大丈夫よ、大丈夫」
言う母の声を聞きながら、修平は強くまぶたを閉じた。
しばらくすると、春子が足を緩めたのがわかった。それと同時に、首筋に降り注いでいた雨が、ピタリと止んだ。
ウィーン、と自動ドアの音がする。雨の音と入れ替わって、人々の雑多な物音が聞こえてきた。話し声も聞こえてくるが、どれも声をひそめている。
「岩井です」
「はい」
「ええ」
春子は、修平を抱えながら、誰かと話しはじめた。修平は耳元で話す春子の深刻そうな声を、じっと聞いていた。
春子と修平は、病室に案内された。前を行く看護師に、二人はついて行く。
看護師が扉を開けると、ベッドには、白い布を顔に被った父が、仰向けになっていた。サァーという雨音が、窓越しに小さく聞こえてくる。
修平は、春子の手を握った。春子はその小さな手を、やわらかく握り返す。
「しゅうへい」
春子が言った。
「え」
修平は春子の顔を見上げた。春子はじっと死体を見据えている。
二人の足元に、ぽたぽたと雨水が落ちて、小さな水たまりを作っていた。
――父が生きていたら、母はあんなに、雨に濡れる女にはなってなかっただろうに。
はあ、と一つため息をついて、修平は勉強に戻った。
天見上げ 牽制し合う 秋時雨 空木 種 @sorakitAne2020124
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