ピカピカ【KAC20211】
いとうみこと
家事代行サービスの青年
エレベーターを降りると、見知らぬ若い男が部屋の前に立って、しきりと中の様子を窺っていた。黒のスラックスに、水色のいかにも制服然とした上着からして何かの業者のようだ。
「あの……」
「あ、横山様のお宅の方ですか?」
「ええ、まあ……」
横山は姉の姓だ。
「良かったあ。時間を間違えたのかと思っちゃいました。僕、家事代行サービス『おうち時間』の谷岡と言います」
谷岡はそう言うと、名札を胸の前に掲げ、マスクの上からでもわかるとびきりの笑顔を私に向けた。
私、工藤ミチカ、三十八歳独身。都内の分譲マンションで独り暮らしをしている。仕事はアクセサリーの制作。最初は趣味だったけれど、友達の店に置かせてもらったものの評判が良くて、今ではネット上でも売るようになった。得意なのは、イメージをそのまま形にする受注生産。イラストがあれば、ほぼその通りの物を作る自信がある。
コロナが蔓延してからは結婚式やパーティーが減って、大口の注文が殆ど無くなってしまった。その代わり、ネット上の既製品販売は好調だ。思うように買い物に行けないストレスを、小さなアクセサリーで晴らすのかもしれない。
いくら仕事がそれなりにうまくいっているとはいえ、都内にマンションを買える程の収入は私にはない。ここは姉夫婦の持ち物だ。結婚十年目でやっと子宝に恵まれ、念願のマイホームを手に入れた途端ダンナの海外赴任が決まった姉は、他人に貸すくらいなら私に管理してほしいと言った。当時恋人と別れたばかりの私には断る理由もなく、光熱費プラスアルファの僅かな負担だけでここに住まわせてもらっている。当初、赴任予定は三年だったから姉もそう考えたのだろうけれど、五年経った今も姉夫婦が戻ってくる気配はない。尤も、海外の水は姉に合っていたらしく、現地での生活をエンジョイしているようだ。
身内とはいえ、買ったばかりの家を使わせるのはやるせないだろうと、極力汚さないようLDKだけで生活をしてきた。最初はそれなりに見栄えを気にしていたが、このご時世では友人との行き来もなく、親も来ず、残念ながら恋人もいないせいで、ただ仕事して寝るだけの殺伐とした空間に成り下がってしまった。
当面食べていければいいので、仕事は気が向いた時にやり、後は気ままに過ごしている。昼頃に一度買い出しに出るが、それも一階のコンビニに行くだけ。比較的規模の大きい店なので、殆どのことがここで済んでしまうのだ。最近では、マンションの敷地から出るのは週に一度あるかないか。当然身なりにも全く気を使わなくなり、着替えるのも面倒なので、今も部屋着兼パジャマである。顔もマスクであらかた隠れるので、今朝だって洗っていない。何なら、お風呂に入るのも二、三日に一度だ。コロナの蔓延以降、そんな生活がすっかり当たり前になってしまった。
いつも通りおにぎりをふたつと蒸し鶏のサラダと野菜ジュースをかごに入れレジへ向かう。迷うのが面倒で、昼はこの組み合わせと決めてからもう半年くらいになる。代わり映えしないのは店員も同じで、この時間には小太りの中年のおばさんがレジにいて、ニコリともせずに商品を袋詰めにしてよこす。私も相当愛想のない方だが、毎日のように顔をつき合わせているのにもかかわらず、客商売でこの態度はないだろうと思うくらい素っ気ない。なまじ話しかけられるのも面倒くさいから、ちっとも構わないのだが、それにしても意図的に無視してるんじゃないかと思ってしまうくらいだ。
きっと家庭がうまくいってなくて、いや、そもそも私と同じおひとり様で、今にときめくこともなく、未来に希望もなく、生活のために品出しとレジ打ちに明け暮れる毎日にうんざりしているに違いないと勝手に彼女の境遇を決めつけてみるが、そうだとしてもあの態度はないよなあなどとつらつら思いつつ野菜ジュースにストローを差し、口に咥えたところで冒頭に戻る。
それにしても、目の前に佇む青年はなんとまあ爽やかなのだろう。清潔感溢れる短髪、色白の細面の顔は、マスクに隠れている髭さえもさっぱりと剃られているに違いないと思わせる。そこに添えられた人懐こい笑顔。無駄な肉が削ぎ落とされた体つき。これぞ正に、ザ・好青年だ。
それに引き換え、今の私はどうよ?髪はボサボサ、風呂にも入ってなければ顔も洗ってない。何ならこのマスクだってずっと使いまわしているから表面が毛羽立っていたりする。アイボリーのスウェット上下は、もとからその色なのか、滅多に洗濯しないからこの色なのか自分でも判断がつかない。上着を引っ掛けているとはいえノーブラだし。
私はさり気なく上着の前を合わせると、ごく当たり前の質問をした。
「何かご用ですか?」
好青年は明らかに不安そうな顔つきになり、慌てて手に握っていた手帳のようなものを開くと、指先で何かをたどったが、数秒後、確信に満ちた顔で言った。
「あの、お忘れかもしれませんが、今日の一時から水回りの掃除と夕食の支度のご予約が入っています」
「え?」
今度は私が不安になる番だった。頼んだ覚えはない。もしあるとすれば……
「ちょっと待ってくださいね」
私はスマホのLINE画面を開いた。確か先週くらいに姉から連絡があったはず。その時は仕事が立て込んでいて、後で読もうと思ったきり放置していた。
「これだ!」
『みっちゃん、元気? こっちは変わりなし。マンション契約時の特典の家事代行サービスを使うの忘れてて、期限が切れちゃうよって連絡来たから来週の水曜午後一時に行ってもらうことにした。イケメンの若いお兄さんでお願いしますって頼んどいたから楽しみにしててね』
って、おいおい。この状況でそれは却って切ないじゃないか……
とりあえず、この場をどう切り抜けるか。水回りは一度汚すと厄介だと思って綺麗に使っているからいいとして、まずいのはリビングだ。いや、そもそも掃除しに来てもらってるんだから、多少散らかっていてもいいのでは? しかし、あれは多少と言えるのか? いやいや、どう考えても多少じゃないな。特に洗濯物かそうでないかの区別すらつかない衣類の山は見られたくない。ろくに換気してないから、部屋自体が臭いかも。いや、待てよ、いちばんヤバイのは私自身なんじゃないのか〜っ!
「あの〜、何ならまた別の日にお伺いしましょうか」
また不安そうな顔に戻った好青年が、おずおずと口を開いて、私は我に返り後ずさりした。臭いが届くのは何としても避けたい。
「いやいや、さすがにそれはご迷惑ですので」
好青年は暫くうつむいていたが、意を決したように顔を上げるとこう提案した。
「では、こうしませんか? 僕、お昼まだなんで、下のコンビニのイートインで何か食べて、30分後にまた伺います」
私は大げさに頷いて「それがいい」と言った。彼は丁寧に頭を下げると、満足げにエレベーターに乗りこんだ。
彼の姿が消えるや否や、私は部屋へ駆け込んだ。まず窓を全開にして、山のような衣類と目立ったゴミを、今は物置になっている子ども部屋へ隠した。それから普段の2倍の速度でシャワーを浴び、洗濯済みと断言できるシャツとジーパンに着替えた。もちろんブラもした。久しぶりに眉を描き、新しいマスクをしたところでちょうどインターホンが鳴った。
私は何事もなかったかのようにドアを開けて来客用のスリッパを出し、好青年も初めて来たかのようににこやかに部屋へ上がった。
「では、台所の掃除から始めますね。横山様はどうぞご自由にお過ごしください」
簡単な説明の後、彼は早速準備を始めた。私はとりあえず仕事用の机に座ったものの、彼の様子が気になって何も手につかなかった。上着を脱ぎ、水色のエプロンをつけた彼の顔はとても引き締まってかっこよく見えたので、私はとうとう席を立ちカウンター越しに話し掛けた。
「あの」
「はい」
「あ、手を止めなくていいです。作業を見てたら邪魔かしら?」
「いえ、嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい、やる気が出ます」
変な子。でも面白い。私は更なるコミュニケーションをはかった。
「お話しても大丈夫?」
「もちろんです」
「えっと、名前……」
「谷岡です。谷岡ケンジ」
「谷岡さんね……随分若く見えるけど、いくつなの?」
「十九です」
「十九!」
まさかのダブルスコア! 姉ちゃん、いくら何でも若すぎるぜ。
「この仕事始めてまだ一年目なんです。ベテランじゃなくてすみません」
そう言う彼の手元は滑るように動いて、見る間にシンクの水垢を消していった。正にプロの仕事だ。
「いやいやどうして、なかなかの仕事ぶりじゃないですか」
「ホントですか? やった!」
素直に喜ぶところが可愛らしい。私はいつの間にかこの青年との会話が楽しくなっていた。
「こんな言い方あれだけど、若い男の子が家事代行って珍しいんじゃないの?」
「そうですね、僕の働いている職場では他にいません」
「なんでまた? あ、いけない質問だった?」
「いえ、全然。僕、おばあちゃんっ子で、小さい頃からおばあちゃんの家事する姿を見て育ったんです。それがまた手際が良くて、その頃の僕には魔法に見えたんです。特に料理は絶品で。だから僕もそういう人になって、大人になったらおばあちゃんを楽させてやりたいって思ったんですよ」
そこまで言うと、ケンジは僅かな時間手を止めた。
「それで、調理科のある高校に入って調理師免許取ったんです」
「すご〜い」
私の半分の年齢の子が、こんなにも明確な目標を持って生きていることに、私は純粋に感動した。
「おばあちゃん、喜んだでしょ?」
「ええ、でも二年前に亡くなりました。あ、でも、大丈夫です。おばあちゃんに言われたんです。私の代わりに、大勢の人を手伝ってあげなさいって。だからそれが僕の新しい目標になりました」
私は次の言葉が見つからなかった。その代わりを彼が担った。
「横山様はどんなお仕事をされてるんですか?」
「え、私? ああ、私はアクセサリーを作ってるの」
「あの机のところにあるのですか? 後で見てもいいですか?」
「もちろん」
その後もケンジは流れるように作業を進め、姉からのリクエストだという和食の惣菜を七品も作り上げた。味見したそのどれもがとても懐かしく優しい味わいで、恐らくは祖母の思い出の味なのだろうと思われた。
帰り支度を終えたケンジを作業机に招き寄せると、ネットで売りに出している作品をひとつひとつ手に取っては感嘆の声を上げた。
「これは宝石ですか? 綺麗ですね」
「宝石とまではいかないのよ。天然石って呼ばれてる。宝石みたいに高くないから気軽につけられるの」
「そうなんだぁ」
デスクライトにかざしながら目を輝かせるケンジは、先程とは違って少年の横顔をしていた。
「横山様はこのピカピカのアクセサリーでお客様を楽しませるプロなんですね」
桜の花びらの髪飾りを見ながら、ケンジは楽しそうに言った。
「え? 私?」
「はい。これを手に入れて嬉しくない女の人はいないと思います。」
ケンジの真っ直ぐな目が私を見つめた。
「そっか。そんなふうに言ってもらえると嬉しいわ。そうだ、今日のお詫びに好きなのひとつどうぞ」
ケンジが目を丸くした。
「いえ、そういうつもりで言ったのでは! それにお客様から何かいただいてはいけない決まりです」
「真面目だなあ」
「あの、その代わり買ってもいいですか? もうすぐ母の誕生日なんです」
「そういうことならお安くしておきますよ、ダンナ。どれにします?」
「じゃあ、この水色のペンダントをください」
「お兄さん、お目が高い。アクアマリンは三月の誕生石だから、お母さん喜ぶよ」
「ホントですか! でも高かったら買えません」
「大丈夫、今日は特別価格三千円でお譲りしております」
「ありがとうございます!」
こうしてケンジは丁寧にラッピングされたペンダントを持って、喜々として帰って行った。
翌朝、私は六時に目が覚めた。いつもなら二度寝するところだが、今日はベッドからするりと下りてほんのり色づいたカーテンを開けた。朝日が部屋の奥まで差し込んで一瞬ですべてをオレンジ色に染め上げた。
こんなふうに朝日を見たのはいつ以来だろう。
私は暫くその景色をうっとりと眺めた。やがて弾かれたようにその場を離れ、狂ったように片付けを始めた。子ども部屋から引きずり出した衣類を次々と洗濯機に放り込み、リビングに散らかった物を元の位置に戻し、ゴミを分別して掃除機をかけ、仕事道具を整理した。お昼までには、部屋は見違えるように綺麗になって、ピカピカの水回りと釣り合うようになった。
すっかり気が済んだ私は、シャワーを浴びてこざっぱりとした服に着替え、眉を描き、新しいマスクをしてから、いつものように一階のコンビニへ行った。でも、買い物かごに入れたのはいつものお昼ご飯ではなく、お米と緑茶のティーバッグと桜色のマニキュア。例の無愛想なおばさんは、訝しげな顔をしていたが、マニキュアを手にした途端嬉しそうに笑った。
「あら、一緒」
それと同時に、ふくよかな左手を突き出してピンクの爪を見せてよこした。案の定、薬指に指輪が無かったから、今度私のアクセサリーを勧めてみようと思った。
ピカピカ【KAC20211】 いとうみこと @Ito-Mikoto
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