第5話 夫には、予知能力がある

「……だからね。僕には予知能力があるんだよ」


 妻が、夫からこのような話を聞くのは、初めてではなかった。

 過去にそれを聞いたのは、夫婦がまだ恋人同士だった。こじゃれたレストランで食事をして、そのあと当時まだ「彼」であった夫からプロポーズをされたときのことだ。「僕には予知能力がある。君と結婚した幸せな未来が見える」そういって、夫は隠していた指輪を差し出したのだ。


 妻はもちろん超能力などというものを信じてはいなかった。しかし単に強気なプロポーズのひとつとしてその言葉を受け入れた。そして、妻が仕事を辞めたのと同時に結婚し、それか5年がたつ。子供はまだいないけれど、つつがなく幸せな生活を送ってきた。つまり夫の予知は当たったといってもいいだろう。


 ……だが、たった今、夫の口から出たのは良い内容ではなかった。


「予知能力によると、この先、君に不幸がおこるかもしれない。だからしばらく別の場所で暮らすべきだと思う」


 妻にしてみれば、予知能力などというものを信じていないのだから、逆にこんな発言を聞き流すわけにはいかない。何かイヤなことでもあるのか? 仕事の疲れがたまっているのか? もしくはだれか好きな人ができたのか? そうやって問いつめるも、夫は「思い当たる理由などないし、予知だから理由はわからない」と繰りかえすばかりだった。


 いくらなんでも、「予知能力で見たから」という理由だけで別居を決められるわけがない。仕事から帰ってきたばかりの夫は、かなり暗い顔をしており、そんな状態で別居などしたらむしろ心配がつのるというものだ。適当な言葉を並べて夫を説きふせ、とにかく落ち着かせる。今度の夫の休みに一緒に病院にいくということにして、ひとまずお茶をにごした。


 夫を先に寝るようにうながし、寝室のドアが閉まったのを確認すると、妻は再びリビングのソファーでテレビをながめはじめた。ソファーテーブルの上にはスナック菓子が2つ。飲みかけのビールの缶と、すでに空いた缶が所狭しと並んでいた。床には脱ぎ捨てられた洋服、ペットボトル、弁当のガラなどのゴミが、足の踏み場もないほど散乱していた。


 妻は結婚してから15キロ以上太っていた。最初は新しい仕事も探すつもりでいたが、このご時世、なかなか都合のよい仕事は見つからない。万が一、子供でもできたらまたすぐに辞めなければならないと思うと、積極的にもなれず、無職のままここまできてしまった。

 まともに夫の食事を作らなくなってからは、もうどのくらいになるだろう。知らぬ間に、勝手に外で食べてくるようになったので、次第に気にもしなくなった。そんな生活はすでに2年以上前からのことだ。


 どうせ夫は、ミスをして上司に怒られたとかで不安定になったのだろう。一家の大黒柱なのだから、まだまだしっかり働いてもらわないと困る。妻は、他人事のように考えていた。日頃から何事に対しても、ほとんど関心をしめさないような男だ。よく寝て、明日になったらきっと忘れているだろう。


 またスナック菓子に手を伸ばしたとき、ガチャリと音がして寝室のドアが開く。眠れずに夫がもどってきたようだ。そして一直線に妻のいるソファーに向かって歩いてくる。

 珍しく甘えにでも来たのかと思い、まどろむ意識のまま、両手を開いて構える。しかし夫の手は妻を抱きしめることはなかった。その2本の腕が向かったのは、――妻の首。夫は妻の上にのしかかり、全体重をかけ、これでもかとばかりに妻の肥大した首を絞めあげはじめた。

 妻は最初、自分の身に起こっている自体が理解できなかった。しかし徐々に欠乏してゆく酸素が、自分が首を絞められ、ほかならぬ夫に殺意を向けられてることにいやでも気づかせた。

 酒に酔っていたこともあるだろう。ここ数年、外出もほとんどすることなく、運動不足がたたったということも原因だろう。どれだけ抵抗したところで夫のその手から逃れることはできなかった。

 消えゆく意識の中で、妻の脳裏には人生で最後の言葉が浮かぶ。


「……やっぱり、予知能力なんてないんじゃない」

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