それはある日突然に

赤部航大

それはある日突然に

 普段通りに約3キロの帰り道を歩き切り、ゴールたる我が家の木製のドアを勢いよく開けた。そして玄関に入ってドアの鍵を閉め終える頃に


「おかえり! 八巻君!」


 と、リビングから姿を現した佳保利がポニーテールを揺らしながら出迎えてくれた。


「ただいま」


 そう返事した俺の頬は綻んでいるに違いない。何故なら今日も妻は可愛いから。今でもデートするときは積極的に腕を組もうとしてくれる妻。夜勤明けで帰ってきた身としては見るだけで癒される。


 ただ、その可愛い大きな黒瞳が悪戯っぽく輝いているのが気になるけど。


「ねえ見て見て。模様替え頑張ったの」

「お、またしたんだ」

「そう、だから早く見に来て」


 言いながら佳保利はとっとと中へ駆けて行ってしまった。ご丁寧にドアを開けっ放し。そのため靴を脱がずともリビングの様子がまた大胆に変貌を遂げたことが窺えた。


 全容を把握せんと気持ち急ぎ目に靴を脱いで上がり、廊下のフローリングを滑るように歩いた。そして中に入って真っ先に目に飛び込んだのは——昨日まではなかった「壁」だった。


「どう? 八巻君。凄く良い感じになったでしょ?」


 そう尋ねられたのは分かるが、すぐには返事ができなかった。何せ広々としていたリビングが、ひと晩空けて帰ってみれば「壁」で仕切られているのだから。


 リビングの中央であろう場所に2台のテレビが背中合わせで鎮座しており、片方の両脇には食器棚とドレッサーが、もう片方のには本棚と3段ボックスが置かれている。

 つまりそれらひと塊が「壁」の正体である。


「言葉も出なくなるほど感動しちゃった? 理想の配置になったでしょ?」

「理想、ねぇ」

「だってどうしても2階にテレビとゲーム機持っていくの嫌なんでしょう?」

「それは、やっぱり別々の部屋で何かやるってのは、距離が遠くなる気がして」

「だから同じ部屋にはいるじゃない」

「いや、でも……」


 言いながら着の身着のままで仕切りの左側、白いダイニングテーブルへと赴いてテレビを正面に据えて座ってみた。佳保利は向かいで灰色のビーズクッションに座っているのは来る前に分かっている。しかしこの位置から確認できる人影は、テレビ画面に反射している己のみ。


「これじゃ顔が見えないよ」


 そう言うと佳保利はムッとした様子で、どうせゲームをしている間は私を見ないでしょ、と返した。


「確かにそうだけど、試合の合間にリビングにいるかの確認はいつもしていたよ」

「それが何」

「それが何って、一緒にいてくれているかを確認していたってことじゃない……」


 つい語尾が弱々しくなってしまった。何せこの件はもう何度かやっているから、こう言ったところで


「いや確認されたところでね、私からしたら八巻君がゲームを続けている間は『一緒にいる』ことにならないから」


 と、予想通りの返事が来ると分かっていたからだ。


 それに対して俺はすかさず返事を試みた。しかし発音の直前、脳内で紡がれた言葉はこれまでの流れを踏襲するものだった。分かっていてもそれに音を乗せたのは、それでも何かが変わると信じたかったからか。

 それとも。


「一緒の空間には」

「いるね、確かに。でも話しかけようとしたら『集中できない』とウザがられて、挙げ句申し訳程度に許可を取ってから友達とボイチャを始める。顔が見えるのに会話ができずに無視され続ける、これを『一緒にいる』と私は思えない」


 完膚なきまでの論破。1ミリも俺の手で流れを変えることは叶わなかった。いつもならこの後は、だから2階にゲーム機持って行ったら? となるのだが、今回は先に結末を変えられてしまった。


 想いの強い方が勝つ、とは何かの少年漫画で読んだような言葉。これを家庭内でまざまざと実感させられる日が来るとは夢にも思わなかったけど。


「だから八巻君の希望通り一緒の空間で集中してゲームできるようにした。私は私で顔が見えないお陰で無視されている気がしなくなった。ね? 理想の配置でしょ?」


 強い目力と共に発された言葉に対して反論する余地は全くなく、座ったまま呆けていることしかできなかった。はっきりと分断された感が拭えない。しかしまあ、これはこれで……と諦観混ざりにため息をついた時


「顔が見える位置で一緒にいたいなら、ゲームをしないでこっちにいればいいのにね」

 という佳保利の言葉がやけに頭に響いた。


* * *


 例の模様替えから数日過ごした感想。

 まず食事はこれまで通りダイニングテーブルで共にしている。ここは素直に安心した。食事まで別々となると堪えられる気がしなかったからだ。


 そしてゲーム。正直集中は以前よりできるようになった。この前までテレビは横並びで配置されており、ゲームをしている間は隣のテレビでアニメがかかっていたため、つい気を取られてしまっていた。


 それがなくなったのだから、当然といえば当然のことだろう。悲しいのはだからといってポンポン勝てるようになった訳ではないことだが。

 そして——


「ねえ、何でこっちに来てるの? ゲームは?」

「別にいつしようと俺の自由でしょ。それにこっちに来ていいって言ったのは自分でしょ」

「むぅ……何か飲む? コーヒーとか」

「あ、じゃあコーヒーお願いします」

「はいはい。もうコーヒー1杯も自分で淹れられないなんて、困った大きい赤ちゃんでちゅね」

「淹れられるやい。訊かれたから甘えただけやい」

「困った甘えん坊ちゃんでちゅね〜」


 ゲームをやる時間がほんの少し減り、読書やアニメ鑑賞を理由に佳保里側のスペースにいることが多くなった。会話は……以前と変わらず彼女に話題を振って貰ってそれに応えるといった形だ。


 ゲームをやっている間は正直煩わしかったそれが、メリハリがつくようになっただけで今では自分から求めるようになった。

 そして——。


* * *


 目的地のデパート、その屋内駐車場に到着。感染症が落ち着いてからの久々のショッピングデートだ。車から降り、ガラス戸越しに見えるエスカレーターへと佳保利と共に向かった。


 ガラス戸を先に開けて彼女を先に通し、後から続いた。そして横並びで立ち、自分から佳保利に右手を差し出した。

 それを見た彼女の黒瞳は一瞬大きくなったが、すぐにはにかむと、強く、握り返してくれた。

 

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