0003:回顧

その貯水槽跡は町外れにある。そもそもこの街の水源問題をすべて解決する前提で設計されたもので完成したら国内最大級の大きさと最新鋭の設備を搭載するはずだった。しかし、この土地に見合わない規模と設備もその計画も全て地元の若手有力者である男によるものだった。かなり強引に進められたその計画はこの街の保守派の反感を買うには十分だった。幾分もせずに次々と雑誌にその男の不祥事が垂れ込まれ、最後はセクハラパワハラ恐喝レイプ未遂横領収賄その他諸々政治家ができる犯罪全てと言っても過言ではない量の罪状を押し付けられ、どこかへ蒸発した。しかし、すでに完成は間近へ迫っており後は電気系統を整備するのみとなっていたその巨大な建造物を処理するだけの予算も何もなかったため、貯水槽は一回も使用されることなく放って置かれた。そういった跡地にありがちなおざなりな囲いの一部分を崩し、中に侵入するのは容易かった。幼き時分のノグチのお気に入りはそうして中に侵入し、梯子を伝って貯水槽の底に降り、乾いたところを探してはそこに座り、空を眺めながら考え事をすることだった。あえて深い場所から空を眺めるのはこの街から外のことを思い描くことそのもののようでノグチがこの街に耐えることができた要因の一つでもあり今日のノグチを形成する要素の一つであった。そんなある意味では思い出の場所をノグチは再び訪れた。ノグチの予想通り昔使っていた抜け穴は塞がれていなかった。成長したノグチには少々狭かったが更に突き崩し穴を広げ、かつてそうしていたように中に侵入した。


 ノグチにとってこの街とは絶望や閉塞感の象徴だった。そうした中で一般人は近づこうともしない不気味な貯水槽跡は彼にとってはいわば希望の象徴だった。高校に上がり、街の外へ出ることを具体的に考え始めてからは貯水槽跡は街の外のことを一人だけでじっくりと考えられる場所で、日常の中で苛立ちを覚えることがあっても貯水槽の壁に生える苔や管理棟の扉にかけられた蜘蛛の巣のことを考えるだけでノグチの気分は和らいだ。そうした場所に人生の中で最大級に絶望したノグチが無心で辿り着いたのはなにかの皮肉とも言えるようで彼の口に自然と笑みが浮かんでいたのはそれを思ってか将又はたまたやっと絶望から解き放たれるという安心からか、いずれにせよ彼が貯水槽の底に座り、目を閉じたとき彼は非常に安らかな顔をしていた。彼が目を閉じてからしばらくして彼の頭の中にこの街で過ごした日々がいくつも浮かんでは消えた。彼はぼんやりと


「あぁ、これが走馬灯か……」


と思い、その思いの一つにふっと意識を委ねた。


 ある時、彼は小学校にいた。彼は目の前に座る女教諭が何かを言っていることに気がついた。


「ノグチさん!聞いてますか?私は言っているのよ?」


彼はぼんやりと自分が放課後、担任の先生に呼び出され、職員室の会議室で面談をしていたことを思い出した。その女教諭は困ったような苛立ったような顔で神経質そうにメガネを直し、続けた。


「いい?私は確かに自由に書きなさいとそう言ったわ。でもこれは大人をからかっているようにしか思えないのよ」


そうだ、思い出した。学年末の作文で将来やりたいことを一つだけでいいからあげてそれについての作文を書いたのだった。ノグチはそれに死ぬときは安らかな顔で死にたい、と書いたのだ。小学生にして早めの厨二病を患っていたことと幼いながらに自分の住むこの街に絶望していたことがノグチにそんなことを書かせたのだろうが、呼び出されるのは必定であった。ノグチはノグチなりに誠意を込めて説明をしたつもりだったがそれがかえって火に油を注いだようだ。


「別に今すぐ死にたいと言っているわけではなくて将来に特に展望を持てなかったのでこのように書いたまでです。思ってもいないことをもっともらしく書くよりはこのほうが誠実だと思ったのですが」


小学生からこのように言われたらおちょくられたと取る人がいてもおかしくはなかった。さらに不幸なことに目の前に座っている女同様彼の周りの大抵の大人は子供が死について真面目に考えることなどできない、と決めてかかっていたため、親すらも彼を理解しようとはせずひたすらに謝罪を彼に要求した。それがしばらく続きある時、彼は目眩を覚えた。いつからだったか彼はこの街に嫌悪感を感じるようなことがあると目眩を覚えるようになっていた。目を覚ますと校医の心配そうな顔があった。どうやら学校の中で目眩を覚え、倒れていたようだ。校医は親身になって彼の話を聞いてくれた。死についてばかり語る彼に校医は言った。


「安らぎの中で死にたいと思うことは不自然なことなんかじゃないわ。でもね、死というのは人生の究極の終着点。終着点に至るまでには長い長い人生というレールの上を走らなければならない。そのレールというのは必ずしも凝り固まった規則、慣習に従うことではないわ。人生のレールは自分で決めるものよ。安らぎの中で死ねるかはあなたがそれまでにいかにそういう環境づくりをできるかじゃないかしら」


小学生だった彼の目を真っ直ぐと見つめる校医の目はそれが彼を落ち着かせるためだけに吐かれた方便などではないことを示していた。涙の中で彼は自分の居場所を見つけたと感じた。ある日、彼はいつものように保健室に入ろうとした。放課後例のごとく担任に捕まり、説教を食らい、最終下校時刻を過ぎてほとんどの教師が帰ったが、保健室の電気はついていることを彼は確認済みだった。しかし、奇妙な音が彼の歩みを止めた。何かをすするような音、それは保健室の中から聞こえてきた。こっそりと少しだけドアを開き、隙間から中の様子を覗いた。彼の目に映ったのは白衣を着たままの校医だった。校医は何かを咥えてそれをすすっていた。左手に持つのは彼が最近保健室に来たとき出されて飲みきり、置いていったストロー付き缶ジュースだった。認めたくはなかったが転んでしまったときについた側面の不自然な凹みが彼の飲んだものであることを非情にも彼に教えた。そして右手は腕をたどって視線を動かすと……その瞬間彼はすべてを理解した。確かに校医は彼のことを本当に心配し、安らかに暮らせるように考えてくれていた。しかしそれは醜い欲からくる歪んだ愛情によるものだった。驚きのあまり尻餅をつき、彼はドアにぶつかった。その音に気づいた校医がゆっくりとこちらを向いて立ち上がり、口が避けたのかと思うほどに口角を上げて笑いながらこちらにフラフラと歩み寄ってきながら名前を憑かれたように呼ぶ。


「ノグチくん、ノグチくん、ノグチくん、ノグチくんノグチくんノグチくんノグチくんノグチくん…!」


もう少しで彼女の右手が彼に触れるというところで彼は逃げ出した。涙を流して大泣きしたかった。しかしその涙を受け入れてくれるひとはもういない。後日彼女が退職したと知った頃にはもうノグチはこの街の人間は馬鹿か気狂いしかいないと思いこむようになっていた。


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