おうち時間「隣人の事情」

雪うさこ


 日常とはなんだ?

 僕が見てきた世界はまやかしだったのだろうか?


 新型コロナウイルスの流行と共に、瞬く間に広がった在宅ワークの波は、当然の如く、田舎の地方都市で働く僕の会社にも押し寄せてきた。そもそも人付き合いは苦手だ。会社に足を運ばずに自宅で仕事が出来るなんて、僕にとったらこの上ない幸せであった。

 そう、あの日までは——。


 元々、朝は7時過ぎに自宅のアパートを出て、帰宅するのは22時過ぎ。自宅には寝るために帰ってくるようなもので、僕は平日の世界を知らなかったのだ。

 朝、カーテンを開けると、目の前の道路を制服姿の女子高生たちが歩いて行く。彼女たちは朝っぱらから元気だ。何をしても楽しい時期なのだろう。自分の高校時代に想いを馳せても、それは頷けることであった。

 在宅ワークと言ってもリモート会議が入っている。顔を洗って身支度を整える。それから、コンビニで買い込んできた焼きそばパンを頬張りながら、デスクトップのパソコンに電源を入れた。


 僕の仕事はガス会社の事務だ。外回りや営業職員は在宅ワークをするのは難しいが、パソコンと向かい合う仕事は、正直言ってどこにいてもできるものだった。今日中に仕上げるノルマを確認してさっそく仕事に取り組む。自宅の慣れた環境は、僕の仕事効率を抜群に上げてくれた。

 そうこうしているうちに、あっという間に昼だ。背伸びをして、それから気分転換にベランダに出てみる。外は抜けるような青空だった。


「助けて。殺される——」


 その爽やかな風景に不似合いな、女性の押し殺したような叫び声が耳を突いた。——空耳? 一瞬、体が固まる。しかし、それは幻ではなかった。続け様にダンダンと物を叩くような鈍い音と、女性の悲鳴が聞こえてきたからだ。僕は慌てて玄関に回り、靴を履いて外に飛び出した。

 周囲を見渡し耳を澄ませると、それはアパートの隣の一軒家から聞こえるようだった。暗闇の中でしか見ていなかった自宅周囲の景色はまるで違って見える。日の中で見るその家は、とても立派でお金持ちであることがうかがえた。

 僕は門先まで行ってみた。表札には『日波』と書かれていた。庭は鬱蒼とした雰囲気だが、手入れがされている。くすんだ小豆色の壁面。重厚感漂う立派な二階建ての家。

 僕は中の様子を伺おうと必死に視線を巡らせた。すると——。


「こんにちは。どうかされましたか?」


 庭から初老の女性が声をかけてきた。彼女は草むしりをしていたようだ。桃色の園芸用手袋。萌葱色の日除け帽を被り、花柄の割烹着を着ていた。


「いえ、僕。隣のアパートに住む三津田と申します。あの」


 言葉に窮する僕を彼女は怪訝そうに見ていた。


「いえ。なんでもないです。失礼しました」


 僕は慌てて頭を下げると、アパートに戻った。


 あんな悲鳴が上がっている家で、彼女は平然と草むしりをしているのだ。あれはどういうことなのだろうか? 僕は慌ててトイレに駆け込んだ。僕の部屋は隣の家に面した角部屋だ。つまりこのトイレの窓を開けると……やっぱり。隣の一軒家を盗み見ることが出来る。ここからしばらく様子を見てみよう。あの声の正体が何かを、確認しないではいられなかった。


***


 リモート会議の時間は仕方なく部屋に戻ったが、それ以外の時間、僕はトイレで過ごした。夕暮れ時、特に変わったことは起こらなかった。あれは気のせいだったのかと思い始めていると、ふと二階の窓に女性が姿を現した。

 固く締め切られていたカーテンの隙間から、女性は僕を凝視していた。トイレから盗み見ていたことを感づかれたのか? 内心、悪いことを咎められたような気持ちになって居心地が悪くなる。しかし彼女は白い紙のようなものを両手で抱えて僕に示した。


『助けて 殺される』


 紙には赤い太字でそう書かれていた。僕は目を見張った。やはり、これは紛れもない事件だ。女性は三十台くらいだろうか? 顔は痩せこけて頬が異様に突き出している。ぽっかりと窪んだ眼窩には、妙にぎらぎらとした双眸が灯っていた。

 僕は急いで部屋に戻ると、カレンダーを引っ張り、その裏にマジックで言葉を描いた。


『誰に?』


 トイレの窓からそれを押し付けてみる。彼女は僕の言葉を見てから、一度姿を消したかと思うと、再び姿を現した。


『両親』


 そうか。隣の家には彼女とその両親が住んでいるのだ。庭で草むしりをしていた女性は彼女の母親か。物を叩く音。すなわち、それは——彼女の父親が彼女になんらかの危害を加えている音だったのかも知れない。やつれたように痩せている彼女の姿形からしても、それは事実のように思えた。


『どうすればいい?』


 しかしそれに対して彼女は首を横に振るばかりだった。


 ——考えろ。彼女を救うにはどうしたらいい?


 そのうち、彼女はカーテンの奥に姿を消した。僕からの反応がないことに落胆したのだろうか? それともその両親にでも呼ばれたのだろうか? 僕は諦めてトイレに座り込んだ。




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