チキンライスの爆撃機

龍宝

チキンライスの爆撃機



 自分の家が、いっそいきなり爆発してはくれまいか。


 昼下がりのリビングで、ふと御崎悠香みさきはるかはそう思った。


 そうなれば、この微妙な空気も、鬱屈とした気分も解消されるのに、と。




「――あァ、もうお昼だね。ご飯にしよっか」


「あー、うん」




 気だるげにスマホをいじりながら、ソファーにもたれていた悠香が適当な相槌を返す。


 声を掛けてきたのは、食卓に座ってラップトップのパソコンを眺めていた姉の由佳だった。


 ほかでもない、悠香が自宅の爆破願望を持つに至った原因の最上位に位置する人間である。




「何か、食べたいものとかある?」


「あー、別に。なんでもいいよ」




 立ち上がった由佳の気配を感じながら、悠香は顔を上げずに言った。




「そっか。じゃあ、適当に作るね」




 姉がどんな表情をしているのかは分からないが、声色に若干の不満のようなものが込められているのを、悠香は感じ取った。


 それも、今に始まったことではない。


 姉の由佳は、中学二年生である悠香の四つ上、高校三年生である。


 そう年の離れた姉妹というわけでもないが、姉妹仲に関しては微妙の一言に尽きた。


 別に、関係悪化の決定的な出来事があったということもない。


 自分の中でもうまく整理できてはいないが、悠香が姉に対して抱いているのは、嫌悪というよりもむしろ劣等感のようなものであろうし、姉にしても、折を見て声を掛けてくる様子からして自分のことを嫌っているわけではないのだろう。


 ただ、悠香が耐えきれずに距離を置いただけだ。


 現在の微妙な関係は、それが行き着いた結果に過ぎなかった。




「あっ。朝、何か食べてた?」


「いや、抜いた」


「今日、起きるの遅かったもんね。夜更かしでもした?」


「別に。そういう日もあるでしょ」




 キッチンから飛んでくる由佳の気遣わしげな声に、悠香はほとんど呟くように返事をした。


 そういう自分にも、また苛立たしさを覚えるのだから、どうしようもない。


 悠香にとって、ここまでの人生十余年とは、すなわち劣等感に苛まれ続けてきた年月といってもよかった。


 凡才としか評価されない自分と違って、姉の由佳はいわゆる天才と呼ばれる部類の人間だったからだ。


 幼い頃から、由佳は一を聞いて十を知る有り様で、高校生になるまで――そして高校生になってからも――その時々におよそ考え得る限りの栄光を一身に受けたような、才女としか言い様のない女性であり、また周囲に挫折と絶望を与える無自覚の暴君でもあった。


 自分が今よりもうんと幼い頃には、姉は悠香の憧れだった。


 誰よりも大好きな人だったし、それはある程度年を重ねた今でも――さすがに当時ほどの熱はないが――変わらない。


 しかしまた、完璧な姉という存在が悠香にとってのコンプレックスになっているのもまた事実であった。


 次女という立場上、悠香は常に先を行く姉と比べられてきた。


 容姿、成績、ふるまい、果ては友達の数まで。


 そして中学生になるのを待つまでもなく、悠香は自分がどれだけ勝ち目のない戦いを強いられているかを悟った。


 努力は、十全にしたと思う。


 全力だったかと問われると自信はないが、しかし当時の姉が片手間にやっていたのに釣り合う程度には頑張っていたはずだ。


 単純明快な話、追うべき背中はあまりにも遠かった、というだけである。


 何をやっても人並みかそれ以上にしかできぬ悠香に、両親は困惑しているようであった。


 が自信作であっただけに、彼らも相応にショックを受けたらしい。


 両親はそんな悠香を励まし、宥め、諭し、叱り、何とか自分たちの納得できる水準にまで押し上げようとした結果、それが不可能だと悟るや、「出来損ないの次女」からは距離を置くことにしたようである。


 つまり、悠香は馬鹿らしくなったのだ。


 反抗期としか思われていないだろう両親への反感と諦念に伴って、由佳との関係も次第に薄くなっていった。


 何もかも面倒だった悠香としては、それをどうこうしようとも思っていなかったのだが、運命のいたずらというものはまったく理不尽な目に遭わせてくれる。


 自分たちが家庭内に問題を抱えている間に、世間もまた新たな問題を抱えることになったのだ。


 すなわち、新型の流行病による外出自粛、果ては休校による自宅待機である。


 これには、悠香も参った。


 共働きの両親は問題なかったが、肝心の姉と一日中ひとつ屋根の下で過ごさなければならなくなったのだ。


 引きこもりでもあるまいし、ずっと自室に籠っているわけにもいかない。


 特に、食事に関しては絶対に顔を突き合わせることになる。


 中学生の身空で、そうそう外食三昧ともいかず、悠香にできることは精々ふて腐れた面でだんまりを決め込むことくらいだった。




「悠香。もうすぐできるから、座ってて」




 しばらくして、由佳の透き通った声が耳を打った。


 スマホをポケットに仕舞って、悠香はのそのそと食卓に着く。



 キッチンからは、既に料理の匂いが漂ってきていた。


 それが、空腹には堪らないものだ。


 唸りを上げる腹をさすりながら、フライパンを操っている由佳の後ろ姿を見遣る。


 こうして、姉が自分のために料理を作ってくれているのを見たのは、久しぶりだった。


 自分がまだ小さい頃は、休日に家を空けがちな両親に代わって、由佳がおやつなんぞを作ってくれたものだったが――。


 そしてそれを、心待ちにしていた自分がいたものだ。




「お待たせ。さっ、食べよっか」


「……いただきます」




 由佳が作ったのは、チキンライスだった。


 まだ湯気の立つそれを、悠香は無心で掻き込んでいった。




「美味しい?」


「……まァ、うん」




 付け添えの汁物スープを含む合間に、由佳がこちらを見つめてくる。


 美味しくないわけがなかった。


 悠香は、かっとなりそうな自分を抑えるのに必死だった。


 この姉は、どこまで自分をみじめな気持ちにさせれば気が済むのか。


 今すぐにでもケチャップに染まったスプーンを突きつけて、そのあざとさを責め立ててやりたい、と悠香は思った。




「よかった。悠香――」




 ぎこちない微笑みと共に呼ばれた名の、その後に続く言葉は、容易に察しが付いた。


 悠香は、チキンライスが好きだった。


 正確にいえば、まだ幼かった姉が、オムライスは難しいからと作ってくれるチキンライスが――。


 今にして思えば、自分の要望のために何とか応えようとしてくれる姉の優しさが、小さい自分には嬉しかったのだろう。


 由佳が長じて、オムライスなんて簡単に作れるようになってからも、それは変わらなかった。


 リクエストを聞かれる度に、大声で叫んでいた恥ずかしさが身を打つ。


 そして、当然のようにそんな昔の決まりごとを持ち出してくる姉の気遣いに、悠香は自分がどういう感情を抱いているのかすら定かでないまま、とにかくずるい、と心中で呟き続けた。




「悠香は、その――どうなの?」


「はァ?」




 皿の上がほとんど空になった頃、唐突に由佳が声を上げた。


 意図の分からない問いに、悠香は顔を上げた。


 肩口で切り揃えられた艶やかな黒髪を耳に掛けながら、由佳がどことなく言い出しにくそうにしている。




「その、学校とか」


「行ってない」


「うん、ごめん。今のなし」




 手を振ってごまかした由佳に、悠香は半眼で首を傾げた。




「勉強とか、どんな感じかなって……あれだったら、私が――」


「別に。ぼちぼちだよ」


「そう? なら、いいんだけど……分からないとことかあったら、いつでも声掛けてね?」


「あたしより、自分の心配したら? 受験生じゃん」




 言ってから、釈迦に説法だと思った。


 試験自体が中止にでもならない限り、由佳の合格を阻めるものなどあるはずがないのだ。


 困ったように笑う由佳に、悠香は自分の失言を悔いた。




「今、外出れないから退屈だよね?」


「不本意ながらね」


「その、気晴らしとか、付き合うよ。ゲームとか、映画見たり――あっ、おすすめの小説も」


「――本気?」




 矢継ぎ早に畳み掛けてくる由佳に、悠香は思わず聞いていた。




「悠香。……私、神様って信じることにしたの」


「なんの話!?」


「この休みの間は、悠香とずっと一緒に、二人ひとつ屋根の下で居られる。私は、ずっとこんな機会を待ってたんだと思う」


「……どういう意味?」


「悠香」


「今さら、そんなこと――」


「聞いて、悠香。もう一度、やり直そう? 昔みたいに」




 へらへらと笑みを浮かべて受け流そうとした悠香を、由佳の真剣な眼が制した。


 まっすぐな視線に、悠香は眼を逸らすこともできずに、ただうめいた。


 言われた。


 言わせてしまった。


 それだけは、由佳から切り出してほしくなかったというのに。


 何も悪くない姉を、一方的に突き放した自分のみじめさを思い知らされるような気分になると、分かりきっていたはずなのに。


 いや、それも言い訳だった。


 悠香には、近い内にこうなることが予想できていた。


 自宅で過ごさざるを得ない毎日が訪れてから、由佳がずっと妙な気配を出していたのに、自分はとっくに気付いていたのだ。


 それでいて、何もしなかった。


 本気で逃げるつもりなら、どうとでもなったはずだ。


 本当は、自分でもこんな関係をどうにかしたくて、でも自分から動けるほどの勇気もなく、結局は昔のように姉に甘えたのだ。


 何も変わっていない。


 自分はただの子供で、そしてやはり――




「悠香」




 ――由佳も、自分の大好きなお姉ちゃんのままだった。




「――ッ! ご、ごちそうさま!」


「え、ちょっ!? 悠香!? 待って!」




 戸惑う由佳の声に構わず、悠香は逃げ出した。


 自室のドアを閉めて、その場にへたり込む。


 由佳の優しい声が、頭から離れない。


 こうなった姉は強い。


 息苦しいだけだった家で過ごす時間も、「姉妹の仲直り大作戦」を掲げる由佳の投下しまくる爆弾によって、遠からず一変するだろう。


 待ち望んだ爆発は、よりによって姉という爆撃機が運んできた。




「――やっぱり、ずるいじゃんかよ」




 悠香は、そう遠くない日に、自分がこの自宅待機期間に感謝するようになることを確信したのだった。











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